1 秘密の逢瀬
『ディアナ……私の寵妃……』
誰かが耳元で、私の名前を囁いている。
瞼は開いているのに、視界は霧がかかっているように不明瞭で、相手の姿ははっきりとはわからない。
すぐ近くにいる、と思えば、ふいに彼方へと遠ざかる、不思議な声。
『透き通るような銀紗の髪に、甘やかな紫水晶の瞳。まるで、朝焼けの空に輝く月の化身だ。美と純潔の月の女神を称える名は、そなたにこそ相応しい』
長く伸ばした髪の一房が、誰かの指にすくい取られる。
びくりと身を震わせれば、からかうように指先で耳朶をくすぐられた。
優しく髪を梳かれながら囁かれる低音は、巡らせようとする思考をたやすく遮り、蜜のように蕩けさせてしまう。
ーー貴方は、誰。
誰とも知れない相手に好きにされているのに、抵抗する気さえ起こらないのは、どうしてなのだろう。
虚ろな頭でぼんやりと考えるうち、身体を引き寄せられると同時に、逆の手におとがいを捕らえられた。
キスをされる……!
惚けていた頭の片隅で、理性が激しく警鐘を鳴らしている。
けれど、思うように動けない。
「ーーっ、ん……」
唇に重ねられた、未知の温かさと感触の柔らかさに震えた。
意識の全てが、しっとりと柔らかな感触に飲み込まれていく。
唇を食まれ、吸われ、歯列を優しく舌でなぞられるたびに、身体の奥がゾクリと甘く疼いた。
「ーーんんっ!」
息継ぎを求めて唇を離そうと抗えば、頬に添えられた手に阻まれる。あえかな抵抗を咎めるように、くちづけはより一層深まっていく。
どうやら相手には、こちらの抵抗の意思がなくなるまで、この淫靡な懲罰を終わらせる気は無いらしい。
……どうして、こんなことに。
相手は一体誰なのか。
そもそも、ここは一体どこなのか。
わけのわからない状況に、流石に涙が滲んだ。
ーー瞬間、あっさりと唇が離れていく。
「……ぁ、ーーっ」
『……ふ。口を吸っただけで、蕾を開いたばかりの薔薇のように肌を染めるのか。本当に、そなたは愛らしいな』
クックッ、と揶揄を含んだ微笑が鼓膜を震わせた。意地悪な響きに、それまでおぼろげだった理性がふいに浮上する。
同時に、視界を阻む霧が徐々に晴れていき、露わになったその姿に私は戦慄した。
相手の相貌はーー綺麗に整った口元以外の全てが、異様な仮面に覆われていたのだ。
魔龍の頭を模した、漆黒の仮面に。
「……っ、あ、なたは……!」
知っている。
私は彼のことを知っている。
私だけではない。この帝国に住む者ならば、彼の姿と名前を知らないものなどいない。
驚きのあまり言葉を無くした私に、彼ーー黒衣を纏った仮面の魔帝、ディートリウス・アウレリアヌス・バルハムートは、仮面越しにのぞく宵闇色の双眸を細め、妖艶な微笑みを零した。
『ーー早く、ここへ。私のもとへ。〝精霊王の寵妃〟』
❇︎❇︎❇︎
「なんっっって夢を見てしまったの……っ!?」
魔法帝国バルハムート。
帝国立リンドブルム魔術学院、学生寮の一室にて。
私こと、ディアナ・ゾディアークは、今しがた見たばかりの夢の内容に飛び起き、フカフカの枕に顔面からダイブして悶絶した。
今なら、この恥ずかしさでお茶を沸かせる気がする……!!
自分で自分が信じられない。
なんだったのだ、あの生々しい夢は。
しつこいくらいに繰り返される口づけといい、腰にまわされた腕の感触といい、妙に現実的で、だからこそ余計に羞恥心を煽られる。
ここ帝国立リンドブルム魔術学院は、帝国屈指の魔術の名門校。魔術師貴族を主とした上流階級者の令息令嬢が集う、国内最大にして最高の学術機関だ。
やんごとなき身分階級の生徒達に、万が一でも過が起こらないよう、男女交際に関する寮則や校則は鬼のように厳しい。
加えて、毎日、恋の芽吹く間も与えないほどの課題が与えられるのだから、どこぞのイケメン子息に曲がり角でうっかりぶつかろうが、もののはずみで唇同士が触れ合おうが、胸キュンしている暇などないのである。
そんな厳しい学院生活も、十六歳になる今年で三年目を迎える。自覚はしていなかったが、そんなに欲求不満だったのだろうか。
ショックだ。
素直にショックだ。
見ず知らずのーーいや、遠目から見たことはあるし、姿も名前も知っている相手だが、個人的な接点など皆無な相手に、ベッタベタに、極甘に、まるで付き合いたての恋人同士のごとく、性的に迫られる夢を見てしまうだなんて……!
「あんなの、まるで前世でやり込んだ乙女ゲームじゃないの! 抱き寄せられてキスだなんて、現世でも、前世でも、誰にもされたことないのに……ああ、このたくましい想像力が憎い……っ!!」
ーー前世。
私、ディアナ・ゾディアークには、どうやら前世の記憶というものがあるらしい。日本という国で、女子高校生として暮らしていたという記憶だ。そして、そんな前世の私がのめり込んでいたのが、アニメや漫画、TRPG、ライトノベル、PCゲームに描かれる中世ヨーロッパ風の、剣と魔法のファンタジーな世界ーー今まさにこうして転生して生きている世界そのものをモチーフとした、数多の創作物だった。
異世界転生もののライトノベルもよく読んでいたから、こちらの世界でふとその記憶を取り戻した時も、ああ、こういうことって本当にあるんだなあと大いに感心したものだ。
まさか、自分がラノベの主人公のような立場に置かれてしまうなんて、夢にも思ってはいなかったけれど……!
ーーそんな私の転生先。
精霊の恵み深き、魔法帝国バルハムート。
世界屈指の広大な国土を有し、その大部分が未開拓の魔境や秘境が占めるというとんでもない世界設定である。
数多の冒険者達はもちろんのこと、エルフやドワーフ、亜人種など人間以外の様々な種族が特に差別視されることなくのんびりと共存しているという、ファンタジー好きには堪らない大帝国だ。
先ほど見た夢の逢瀬のお相手は、この大帝国を治める現皇帝。仮面の魔帝こと、ディートリウス・アウレリアヌス・バルハムート陛下。
歴代皇帝の誰をも超える凄まじい魔力を有し、他国からは深淵の魔帝と畏怖される彼は、自身に宿る膨大な魔力を抑えるために、漆黒の魔龍の頭を模した特別な仮面を身につけている。
数多の精霊の長、精霊王の寵児にして稀代の大魔術師なのだ。
しかし、世界中にその名を轟かせているわりには、公然の場には滅多に姿を現さない謎多き人物である。そのため、人物像は明確でなく、巷にはその異質な風貌から想像される、恐ろしげな噂ばかりが絶えない。
ーーが、しかし。
「……夢では、かっこよかったのよね」
至近距離で見たからこそ分かる。
夢に出てきて下さった魔帝陛下は、仮面越しに滲み出すほどの、とんでもないレベルの美形だった。
鼓膜を震わせる艶やかな低音は、アニメの人気声優も羨やむほどの低音美声。
髪に触れ、指で梳き、そっと頬を撫でてくれる仕草は、乙女ゲームの攻略キャラクターのごとく自然かつ極甘。
そしてなによりも、そのキスは、夢だったことが残念に思えてくるくらいに優しかった。
指先で唇に触れると、今さらながらに頬が熱くなるほどに。
「良い、夢……? うん……冷静に考えてみると、わりと良い夢だったのかもしれないわ」
一応、この世界では名の知れた、高位の魔術師貴族の家柄に転生した身の上である。
幼少の頃より専門の学習院にて令嬢としての礼儀作法を一通り叩き込まれ、こんな金持ち学校に放り込まれているのだから、身持ちは人よりも硬い方だ。
しかしながら、夢とはいわば二次元の世界。
転生系ライトノベル、乙女ゲームしかり、二次元のイケメンにベッタベタに溺愛される、というのは悪くない。
そう、けっして、悪くない。
お相手が魔帝陛下だったのは謎だけど、このことは素敵な思い出として、そっと胸にしまっておこう。
そう、心にけじめをつけた時、コンッ、コンッ、と、硝子窓を叩く小さな音が響いた。
「なんだろう……?」
カーテンを開き、窓を開け放つと同時に、軽やかな羽音が部屋の中に舞い込む。
純白の鳩だ。
喉元に金のリボンをつけ、美しい白銀の薔薇を一輪、嘴に咥えている。
鳩は絹張りの天井をひと巡り飛びまわった後、私の右肩に舞い降りた。器用な仕草で、咥えていた薔薇を髪に挿すなり、ふたたび窓から飛び立っていく。
高台の一等地に建つこの学院からは、帝都の街並みが海まで一望できる。
窓辺から顔を出し、鳩の行方を眼で追おうとした私は言葉を失った。
「こ、れは……!」
もしかして、自分はまだ夢の中にいるのではないか。
そう思い込んでしまうほど、眼下に広がる光景は幻想的だった。何百、何千という白鳩の群れが、まるで婚礼を祝う花吹雪のように、帝都に広がる屋根の上を舞っている。
立ち並ぶ民家の家屋へ。
高台に門を構える邸宅へ。
そして、私のいるここ、帝国立魔術学院の学生寮の窓辺へと、嘴に花を咥えた純白の鳩が、次々に舞い降りていくのだった。
自然のなせる技では無い。
ーーまさか、これが。
海風になびく銀色の髪へと、震える指先を伸ばす。
左耳の上に触れた白銀の薔薇の花弁に、私はいっぱいに眼を張り詰めた。
「まさか、これが……〝精霊王の花摘み〟」
私の知識に間違いがないのなら。
ーー今宵、かの魔帝陛下の花嫁が選ばれるのだ。




