では、そうだったとして
「真中さんはどうしてこちらに?」
中年で中肉中背の中里という職員は、「あくまでも事務処理上の問題で」と言わんばかりの物言いだった。
「取り返しのつかないことをしたからです。それで後悔して、ここに来たんです」
「ほほう、そうでしたか」
中里はメモを取る。
「はい、何か変わるんじゃないかって。もし本当に過去に戻ることが出来るなら」
「おや、そこまで知っていましたか。大勢の人は訳も分からず頼ってくるのですがね。でもそれなら話は早い」
すると、中里は急にメモ用紙を丸めて足元のゴミ箱に投げ捨てた。
「こんなものは形だけなんです。最初だけ、それっぽさを出すためのものですから」
こんなもの、とはメモのことを言っているのだろう。
「では、どれくらい遡りましょう?」
「えっ、そんなにいきなりなんですか?」
「あー、はいはい。まあ、確かに本来なら初日は面談だけで、そこから審査が入るんですけど、今は空きがありますし、それに貴方は別段悪そうな人でもないので」
中里は笑って見せた。
「そうですか……じゃあ、お願いします」
「はい、わかりました。で、どのぐらいに?」
「なら、去年の3月に」
言った途端、真中の瞼は物凄い熱を帯びた。しかしそれはトロリと溶けていくようなそんな感覚に近かった。
「……さん、……さん、真中太一さん?」
「は、はい」
「ご用意できましたのでご精算お願いします。」
ネームプレートに沢田と入った受付は電卓をとんとんと叩く。
待合室には、ただ静かにそれが響いた。やがて彼女が計算し終わり、指定された額を払う。外に出ようとしたときのこと、不意に後ろから
「お大事に」
と言う声が聞こえた。
確かにそうである。大の大人が平日に会社を休んでまで病院に行くのだから、お大事にしなければならない状態のはずだ。
けれども真中はピンピンしていた。喉も痛くない、頭痛もしない、腹痛も、それに持病があるわけでもない。むしろすこぶる調子がいいくらいであった。
会社を休んだ手前、形だけでも病院に行っておく必要があったのだ。
「あーあ、調子がいいや」
言いながら真っ青な空の下に肢体を放り出した。ちょうどいい具合の風が真中の鼻先をかすめて、芝生独特匂いをもたらす。
しばらくすると、足元に何かが当った。起き上がって見るとそれはサッカーボールだった。しかし、あたりを見回しても持ち主であろう人はいない。
「誰のだろう……」
言いながら真中は人差し指の上にボールをのせてクルクルと回し出した。
そうして、そのうちに自身の様々な記憶がだんだんと思い出された。プロサッカー選手を目指して練習に明け暮れた小中学生時代、そして高校生のときに味わった怪我と挫折。けして裕福ではなかった家庭環境。
特に真中は試合を応援しにきてくれた父親の、疲れ切った笑顔を今も忘れられない。
また、真中か過去にわざわざ来たのは、喧嘩別れしてからろくに顔を会わせていない父親の死に目に立ち会うためだった。
不意に涙がこぼれた。
「あーあ、情けない。こんな顔じゃ湿っぽくなっちゃうな。せめて最後くらい笑って送り出さないとな。そのためにわざわざ過去に来たんだから」
けれども、そんなことを考えれば考えるほど涙は出てきた。
そのあたたかい水はどこか父親の優しさにも似たような、そんな感じがした。
「泣いてるの?」
木の陰に隠れているのと、涙でよく見えないが、そこには小学生くらいであろう背丈の子供がいた。
「悲しいの?」
首を傾げながら、無邪気に少年はそう聞いた。
そして、それは半分正解だった、。なにせ真中はこれから父親の死を目の当たりにするのだから。しかし、今はそれよりも嬉しさの方が少しだけ多い気もした。
「いや、嬉しくて泣いてるんだよ」
「嬉しくても涙って出るの?」
「きっと本当に嬉しいと、涙って出てきてしまうのかも」
「へー、」
いつの間にか少年は、近くでちんまりとサッカーボールを抱えて座っていた。
「あれ、もしかしてそれ、君のものだったの? 気づかなくてごめんね」
少年は首を振る。
「違うよ、これはね、おとーさんのなの」
「えっ、ああそうなんだ。お父さんと一緒に来てたのかな? 」
少年はまた首を振る。
「おとーさんはね…… あのね、帰って来ないって」
少年の瞳には、つい先程まで真中の瞳にあったのと同じものがウルウルとしていた。
真中は全てを理解して、余計な質問をしたことに自責の念を抱いた。そして、やり場を無くした右手で優しく少年の頭を撫でた。
「なんだ、似たもの同士だったんだ、俺たち」
「にたものどうしって何? 」
「ああ、えっとなんていうか同じ、とか似てるみたいな…… あれ、これじゃ説明になってないな」
真中の話を聞いた少年は今度は首を傾げた。
「ゴメンゴメン、あー、そんなことよりさサッカーやらない? 相手してあげるよ。」
真中の父親が息を引き取るのは午後5時過ぎ、そして病院は目と鼻の先、今はまだ時間に余裕があった。
「うん!」
気づくと、少年の涙はすっかり乾いていた。
2、3回ほどパスを交わした後で真中は思い出したように聞く。
「そういえばさ、名前はなんて言うの?」
「あのね、翔太。」
勢いのいい返事とともにボールは返ってきた。
初めはそれこそパスだけだったが、そのうちにボールの取り合い、空き缶の間をゴールに見立ててシュート、なんてこともしていた。
そして気づくと二人は芝生の上で大の字に空を見上げていた。
真中はちらりと腕時計をみる。
「翔太、お腹すかない?」
「うん。もうペコペコ」
お昼時を過ぎていたのに加えて、あれだけ動いたのだからそれもそのはずだった。
「そっか、だよな、何が食べたい?」
「カレー」
「ああ、なるほどカレーか、いいねそれ」
翔太は立ち上がり、丁度病院の向かい側の方を指した。
「おかーさんが働いてるところね、すっごく美味しいんだよ」
よく見るとその方には「ラーメン」の看板が掲げられた店があった。
「そっか、ならよし、そこにしよう」
最近はむしろサイドメニューの方が美味しいラーメン屋もある、と知っていたので特に看板に不審さは抱かなかった。
「では、向かおう」と歩き出したときのことだった。
「翔太! 翔太! 」
大声で叫びながらやってくる、紺色のエプロンをつけた女性がいた。
「おか……」
翔太はばつが悪そうにする。
「翔太、今日学校休んだのか? 」
そう聞くと、今度は俯いて目をそらした。
「なんだ、それなら尚更……」
真中は途中で声を止めた。なぜだかその続きを言う気にはなれなかった。
自分と同じズル休みでもそれは全く違うものなのだ。自分は最後に別れを言う心づもりと猶予、それが許された。しかし翔太は違ったはずだ。それを思えば、少し前のように「似たもの同士」なんて言葉は使えなくなってしまった。
「翔太! 、心配したんだから! もう勝手に休まないって約束したでしょ」
翔太の母親は脇目も振らず、翔太に抱きついた。そして、暫くするとチラリとこちらに目をやった。
「あの、貴方は……」
真中は軽くお辞儀をしながら、挨拶をした。
そして、これまでの経緯を端的に話す。
「そうだったんですか…… ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ。翔太君から元気もらえました」
「そう、ですか」
「あの…… カレーって食べれますか? 」
「へっ? 」
よほど疲れていたのか、翔太はカレーを半分ほど食べたところで首を、コクコクとし始めそのまま椅子の上で寝てしまった。
「もう、ほんとに世話焼けるんだから」
そう言いながら、翔太の母親は彼の口周りに付いたカレーをナプキンで拭き取る。
「あの、 」
二人の声が重なった。
「あ、私はいいですので、どうぞお先に」
「はい。では、僕これから行くところがあるのでこのへんで…… 」
時刻は3時半になろうというとき。真中は席を立ち、のれんをくぐろうとした。
「真中さん。もし、もし、よかったら。また、翔太と遊んでやってくれませんか? あの子の父親は翔太が三歳の時に亡くなってしまって。それで、凄く寂しい思いをさせてしまっているんです」
真中は立ち止まる。
「それは、」
数秒の沈黙があった。
「ごめんなさい。本当はわかってたんです。こんな図々しいお願い…… 本当にごめんなさい。でも、ただ、貴方が死んだ旦那にとても似ていたもので。それでこんなこと」
真中は体の向きを変えようとしなかった。
「それは、奥さんも同じことじゃないですか。」
時計の秒針を刻む音がやけに通る。
「ご主人の念願だった店を潰さないように、なんとかで切り盛りして。ご主人みたいにラーメンは作れないからって、カレーを必死に研究して。そうやって寂しい思いとか辛い思いをしてきたのは奥さんも同じことじゃないですか」
「どうして、どうしてそんなことまで知って」
「さっき、常連の橋本さんって人から聞きいたんです」
「お義父さんが!? 」
「だから、翔太君と遊ぶのはもちろんですけど。それ以外にも僕に手伝えることがあるなら言って下さい。必ず力になります」
ここでようやく真中は振り向いた。
「父親がどんなものか、僕は世界一かっこいい背中を見ました。凄く不器用で、バカがつくぐらい人情深いあの人を。だから、翔太君にも僕のでよかったら見せてあげたいんです」
「奥さん」
真中は机に戻った。
「奥さんはやめてください。なんだか、変な感じがしますから」
「え、えーでは…… 」
「佳代です。橋本佳代です。そう、よかったら読んでください」
真中は咳払いを一ついれた。
「橋本さん。僕は翔太君を立派な男にしてみせます。きっと、いや、必ず。だから僕の方こそ、また来てもいいですか? 」
「はい」
夕日が強く入り込んでいて佳代の顔はよく見えなかった。
病室のドアは思ったより軽かった。というのも真中はこれが初めてのお見舞いだったので、それがどれほどのものか知らなかったのだ。
目の前に立ってドアを見ると、その実よりよほど重く感じられた。それは物質的により精神的にそうさせられていた。
今まで、弱音の一つも吐いたことのない父が入院したのは2ヶ月ほど前のことだった。元々心臓に疾患があり、1月にそれが原因で居間でお茶を飲んでいる時に倒れたらしい。
「もしかして、太一かい? 来てくれたんだね」
驚きに満ちた顔がそこにあった。
「うん、来たよ」
久し振りに会った母親に放った第一声はそんなものだった。
「母さん心配してたんだから。良かったよ、本当に良かったよ」
「ごめんなさい。心配かけて」
深々と頭を下げた。
「もういいよ、母さんは。でもね、父さんはこれで最後になるかもしれないから」
諦めたような寂しげな目には涙などなかった。
「うん、お別れをさ、ちゃんと言おうと思って来た」
「そうかい。きっと父さんも喜んでるよ。でも、まだ殺すんじゃないっ! なんて怒ってるかもね」
母親は窓に目線を移す。
「今夜あたり、そうなんじゃないかってさ。主治医のお医者さんがね、さっき言ったんだよ。父さんさ、日に日に心拍も弱まってね、指も、腕も、足も、ほらこんなに細くなっちゃって。本当に、お別れなんだなって気にさせられるよ」
母親は反応のない身体をマッサージしながら言った。
「せめて明日までもって、太一の誕生日ぐらい祝って欲しいもんだよ」
そんな話をしているとき、病院のドアが荒々しく開いた。
スーツ姿にパンプスと鞄。そこには仕事を切り抜け、駆けつけてきたであろう妹の姿があった。
「お兄、なんでいるの」
やはり親と子なのだ、少し前の母親と同じような顔で驚いていた。
「おう」
妹よりも、すっかり「女」になった彼女に、それ以外なんと言えば良いのか思いつかなかった。
「そっか来たんだ。ならさ、お父さん、本当のこと言った方がいいよね。私、迷ってたの真実を伝えるべきなのか。いいでしょ?」
当然、父の返事はなかった。
「あのね、お兄がお父さんと喧嘩した理由の……」
ここから先は知っていた。父の葬式のとき妹から渡された手紙に全て書いてあった。
突然、大学に行けなくなった理由が。
友人に騙されて借金をし、返済の為に家計に余裕がなくなって行けなくなったんだ。気づいたころにはもう合格も決まってて、時期的に奨学金も間に合わなかった。そして結局入学金の30万が払えずに終わった。
「やめなさい柚、今さら言ってもどうにもなることじゃないでしょ」
母親が割って入る。
「いいよ母さん。俺、知ってるんだ」
「なんで、お兄。一言も私そのことについて言ってないよ」
薄ら笑いが自然と浮かんだ。
「でもさ、借金なら借金って言ってくれても良かったのにさ」
「何、言ってるの? 」
「いや、だからあの時、俺がいきなり大学に行けなくなったのは、親父の我が儘とか、俺の彼女が前科もちだからとかじゃなくて」
「お兄、やっぱり知らないんじゃ」
「いやいや、え、は」
遮るように妹の声に重ねる。
「普通おかしいでしょ、合格決まってる息子に、お前みたいな腑抜けは大学なんか行っても意味ないとか、挙げ句、彼女が前科もちだからとか、関係ないこと持ち出して」
冷や汗と嫌な予感。
「だから、借金だったんでしょ? それで行けなかったんでしょ? 信用してた友達に騙されて。親父は頑固だから頑なにそれを隠そうとして、あんな妄言持ち出したんでしょ? 」
「だからね違うよ、お兄。そうじゃないんだよ。お父さんはね、お兄のためにねお母さんが積み立ててきた貯金をね、、」
「やめろ、やめてくれ」
嫌な勘があたる瞬間、それを体が全力で拒否した。
「ぜーんぶ、使いこんじゃったの」
終わった。
「いやいや、お疲れ様でした。真中様。どうでしたか? 過去に行かれたご気分は? 」
中里は例のニコニコ顔だった。
「知らなかった方がよかったですか? 」
「ええ、心からそう思いますね。なんだか力が抜けて、全部もう面倒くさくなってしまったんです」
真中の口以外の筋肉はピクリとも動いていない。
「それはいけない。あなた様にはまだやることがあるのでは? 」
中里はさも心配しているかのように大袈裟な表情をした。
「やること?仕事?」
「いえいえ、そんなものでなくて。翔太君にあなた様のお父様のような背中を見せて差し上げるのでしょう?」
それは、はっきりとわかる不適な笑みだった。
「ああ、そうだ。そうしなきゃ」
「ふふふふ、ふふ、ふふふ、あは、あははは」
真中はふらふらと一歩またと一歩と歩き出す。
「またのご来店、心よりお待ちしております」
中里は綺麗なお辞儀をしてみせた。
ここまで読んでいただき誠に恐縮です。
ありがとうございました。