3.ドロップ
気づけば水たまりで足が濡れてしまうのも構わず、俺は駆け出していた。
「ふっ、藤塚!」
ライラック色の傘をさした人影が、俺の呼びかけで立ち止まる。ゆっくりと振り向いた彼女は、俺の姿を見て目を丸くした。
「えっ? どうしたの内海くん」
「いや……その……」
せっかく追いついたのに、情けなくも口籠ってしまう。送るよ、の一言が喉の奥から出てこない。
だって俺は彼氏でもなんでもない。引かれたりしないかな、とか馴れ馴れしいかも、迷惑だったらどうしようとか。嫌な想像をしてしまう。ヘタレなんだ俺は。
「……内海くん、もしかしてなんだけど、駅まで送ってくれようとしてる?」
図星をさされ、誤魔化すこともできず、ただ頷く。走ったせいもあるが顔が熱い。
「でも……内海くんのお家って駅と方向逆だよね? 悪いよ……」
藤塚の顔は傘に隠れて見えない。でも、申し訳なさそうな声で、気を使わせてしまったことが十分すぎるほど伝わった。
ああ、失敗した。何やってるんだろう。
「……引き止めてごめん。なんか、図々しかったよな。その、もう少し話できたらって思って。でも、明日も学校あるしな。また明日!」
気まずい空気になるのを避けようと、明るい声を出そうとして声が上ずる。これ以上、彼女に気を使わせるのは不本意だ。
駅までの道は店も多く、歩いている人だっている、何も俺が駅まで一緒に行く必要はないんだ、と己に言い聞かせて踵を返そうとした時だった。
「まっ、待って!」
藤塚の澄んだよく通る声に、俺はぴたっと足を止めた。体が凍りついたみたいだ。
「……嬉しいよ。私も、話し足りなかったから」
一瞬、耳を疑った。私も、なんて……都合のいい夢なんじゃないかと思う。
「学校だと、話できないもん。だから、もし、迷惑じゃないんだったら……」
「おっ、送るよ!」
反射的に答えていた。さっきまで口に出せなかったのが嘘のようだ。滑り落ちるように発せられた俺の言葉に、藤塚は目尻を細め、花のように笑った。
「……お言葉に、甘えさせていただきます」
ああ、好きだな、と思った。
可愛い、綺麗だとはずっと思っていた。
でも、それだけじゃなくて、もっと胸の奥からこみ上げてくる感情がある。
多分、自覚しないように自分を騙してきたけど、本当は初めて話した時から、一目惚れだったんだと思う。
初めて彼女の姿を見たのは、入学式。二ヶ月も前のこと。彼女の周りに人だかりができていたのをよく覚えている。
ああ、自分とは別世界の人間だ、と思ったんだ。
同じクラスになって、それでも話す機会なんて全くと言っていいほどなくて、きっと卒業するまで藤塚咲良という女子生徒と俺は、関わることなんてないんだろうと思っていた。
それが、たまたま藤塚がソシャゲをやっていることを知って、黙っていてくれと頼まれて、友達になった。
“ねぇ、私たち、お友達にならない? それでさ、このことは、私たちだけの秘密にしてくれないかなぁ?”
そう言って、ウィンクをされた時から、もう恋に落ちていたんだと思う。
認めてしまったら、もう後戻りはできない。
この感情を、俺は隠し通さないといけない。
「ありがとね、内海くん」
隣を歩く彼女に、笑顔を向けられて嬉しいのに、なんだか胸が苦しくて、うまく笑えない。
藤塚が俺に好意的なのは、友達だからだ。唯一ソシャゲの話ができる存在。だからこそ、この関係に色恋なんて持ち出しちゃいけない。じゃないと、この関係は壊れてしまうだろう。
「……あー、あのさ、次のイベントのことなんだけどさ。ランダムで結構レアアイテムがドロップするらしいんだよね」
「えっ、そうなの? ドロップアイテムはノータッチだった〜」
ゲームの話を振ると藤塚は熱心に話を聞いてくれるし、饒舌になる。
きっと、ゲームの話題がなかったら、こんなふうに話すことも、隣を歩くこともなかったはずだ。俺の気持ちを知れば、きっと藤塚は困るだろう。
だから、この気持ちは絶対に知られちゃいけない。
雨脚が弱まってきた。アスファルトに、信号や店の明かりが反射してキラキラと輝いている。
雨は嫌いじゃない。むしろ好きかもしれない。
もし叶うのなら、この気づいてしまった感情も雨と一緒に洗い流してくれたら、と心の中で密かに願った。