18.約束だよ
その後、20分くらいだろうか。たわいもない話をしてから、俺と藤塚は店を出た。雨はもう止んでいて、アスファルトがぐっしょりと濡れて、電灯や車のライトに照らされて光っている。
どうやら通り雨だったらしい。
「雨止んで良かったね〜。折り畳み傘の出番なしだよ」
そう言って、藤塚はスキップをするかのような軽やかな足取りで前へ進み出た。その後を追うようにして、俺も足を踏み出すと、チャプッと水音がした。
「そうだな」
おもむろに顔を上げて見た空は、煙が立ち込めているかのような、どんよりとした暗い灰色をしている。
また、少し時間が経ったら降り出すかもしれないな、なんて考えながら、藤塚の横に並ぶ。
「明日の放課後はレッスンだよ〜。先生、超厳しいの! 怖いんだよねぇ。嫌だなぁ……」
そう言ってムンクの叫びのように、頬に手を当てる藤塚を見て、気付く。藤塚、背が伸びたんじゃないか?
自分よりほんの少しだけ低いと思っていた肩は、同じ高さだった。まだまだ成長期。俺もあと何cmかは伸びて欲しい。
「へぇ、そうなのか」
「ふふっ」
俺の返答に、藤塚はぴたっと立ち止まり、くすくすっと笑った。
「な、なんだよ」
先ほどの会話で笑う要素が思い当たらず、少し動揺してしまう。藤塚は、俺を見て、なんとも言えない笑みを浮かべると歩きを再開した。
「いやぁ……。びっくりしたら、不思議と笑いが。私ってば、ノワくんに弱音も吐けちゃうんだなぁ、って思って!」
本当びっくりだよ、と付け足した藤塚の横顔は、安堵しているような、少し悔しそうな、複雑な表情をしていた。
「……誰だって、弱音くらい吐くだろ」
「それは……そうだけど。でもね! 私、そういう……マイナスなことって思っても人に言わないように、すっごく気をつけてたの!」
そう叫ぶと、くいっと右腕のシャツを摘んで引っ張られた。
急な事にびっくりして、少し横に傾いた俺に耳打ちするようにして藤塚は
「ノワくんといると、気が緩んじゃうみたい」
と囁いた。
右耳からぶわっと熱を帯び、それが全身に広がるのを感じる。
「へ、へぇ……」
間抜けな声が出てしまった。なんて言葉を返したら良いのだろう。
俺の存在が弱音を吐けるくらい、特別ってことで合ってる? もしそうなら、ガッツポーズして飛び跳ねてしまいそうなくらい嬉しいんですけど。
「あーあ、他の人にもうっかりしちゃったら、大変だもんなぁ。気を引き締めなきゃ」
そう言って、また藤塚はタタッと数歩、前に進み出た。
「そんな、強がんなくても……いいんじゃないか?」
不意に口からこぼれた言葉に、藤塚の後ろ姿はぴくりと肩を震わせて反応した。
しかし、返答はなく、振り返ることもない。ひやりとした沈黙に、俺はごくりと唾を飲みこんだ。
失言、したかも。彼女の苦悩も、不安も、何も知らないくせに。
不安になって、慌てて言葉を付け足す。
「し、知ったような口聞いて……」
ごめん、と言う前に藤塚は振り返った。髪が広がって、扇を開いたみたいに宙を舞った。唇をひき結んで、大きな瞳は潤んでいる。
なんて綺麗なんだろう。
そう思った次の瞬間には、藤塚は俺の方へ駆け寄り、もたれ掛かるようにして、両手で肩を掴まれた。
縋りつかれている。正確には、肩のシャツをきゅっと掴まれていて、右肩に彼女の額が乗っている。
そう理解するのに、少し時間がかかった。
「ノワくん……」
藤塚は俯きながら、掠れた声で俺の名を呼んだ。どうしたんだろう、と動揺しつつ周りを見渡す。近くに人影はない。
「ふ、藤塚」
とりあえず名前を呼び返す。幸い、近くに人はいないものの、ずっとこうしているわけにもいかないだろう。
持て余している己の両手が目に入る。こういう時、恋人同士だったら、頭とか背中を撫でたりするんだろう。
俺はただの友達なので、どこにも触れられない。
それでも、シャンプー、もしくは香水の匂いだろうか、花のとても良い匂いがする。くらくらしてきた。
これ以上は流石にまずい、と思いもう一度、藤塚と呼ぶと、ふふっと小さな笑い声が返ってきた。
「そ、そろそろ……離れて」
「……お願い、聞いてくれたらいいよ」
「な、内容に、よる……」
あははっ、と小さくだけど藤塚は体を震わせて笑った。ふいに、シャツを掴んでいた手が離れ、身体が解放された。
目に映った、藤塚の顔は笑ったからなのか、目に涙が滲んで赤くなっていた。
「その返答、すっごくノワくんらしいね! あのね、お願いはね」
目と目が合う。俺は固唾の飲んで、次の言葉を待った。
「……たまにでいいの。ちょっとだけ、甘えさせてもらってもいいかなぁ?」
藤塚は恥ずかしそうに手を胸の前で組んで、眉を下げて不安そうに、少し泣きそうな顔で、俺にそう願った。
「いいよ」
躊躇ったりせず、俺は瞬間的に答えていた。
その一言に、藤塚が目を見張り、手で口を覆った。
「お安い、御用だよ」
そう付け足すと、藤塚はよかったぁ、と涙を滲ませて目を細めた。
初めて見た、藤塚の弱々しい姿。
不安そうな顔は何度か見たことがあったけど、あれ程頼りない姿初めてで、俺は自分に出来ることならなんだってしてやりたい、と強く思った。
俺たちは少しの間、見つめ合っていたけど、どちらともなく再び駅に向かって、歩き出した。
「甘える、って具体的にどんなことなんだ?」
「……さっきみたいに、ちょっと弱音を吐かせてもらったり、あとね……遊んで欲しいの」
「うんうん……って、え?」
聞き間違いだろうか。遊んで欲しい?
「ノワくんが良ければなんだけど……夏休みさぁ、どっか行かない?」
「ええっ」
聞き間違いじゃなかった。夏休み、出かける? 藤塚と?
「せっかくの休みだよ? ちょっとした冒険に、出ようではないか! ……駄目、かな?」
不安げに尋ねられる。彼女の目はもうだいぶ赤みが引いていた。
「……行こう」
断れるわけがない。
甘えるって、内容が可愛すぎるだろう。謙虚すぎる。俺の同意に、心配そうな顔が、ぱぁっと花が開いたみたいな笑顔になった。
「約束だよ!」
「うん」
夏休みが待ち遠しい。こんな幸運が降ってくるなんて、思っても見なかった。