4話:夢子とスキー1
銀行に勤めて直ぐ電算部に配属されて一般的な銀行業務とは全く縁のない、オンラインシステムという、ほかの大銀行、地方銀行、相互銀行、信用金庫と連携して、お金をやり取りする新しい仕事をする部署に配属された。
配属後、フォートラン、コボルというコンピュータ言語を勉強するように言われ多くの本を読む日々が続いた。その後、東工大、東大工学部、早稲田理工学部の優れた新入社員が入ってきた。当初、コンピュータ言語は、なかなか理解できなかった。
しかし、特命で電算化の必要性を考えろと上司言われ、関連する本を読みあさった。通常業務は銀行員の毎日の入出金計算を検算し確認する仕事を任された。この仕事は得意分野で要領よく、こなした。
そのうち銀行の電算課のために必要なプログラムを外注する様になりコンピューターの使い方、応用法について考えるように言われて各部署からコンピュータで、こんな事できるかという電話が多くなり、その要望を具体的にコンピュータープログラマーに仲介する仕事を始めた。
この仕事には多くの人数は必要なく事務的な作業が多く事務員を2人つけてくれ一人が仕事の内容をまとめて報告、もう一人が電話係で、かかってきた電話の要件を達夫に知らせたり、達夫に回答を問い合わせて、三井銀行の担当者に返答してくれた。
その後、専門職手当が出るようになり、初任給6万円が手当を含めると12万円と倍増した。銀行の他の行員に比べて残業時間も少なくノルマもない比較的楽な部署でプレッシャーもなかった。そこで1971年、仕事も慣れたので5月の土曜から青梅線で御獄駅まで行った。
そこから御嶽山に登り自前の簡易テントで野宿をして帰ったりする様になった。その後も八高線で飯能へ行き、トレッキング、川釣りをしてキャンプしたりした。9月には、西武線で秩父まで足を伸ばして散策を楽しんだ。
その後、ボーナスも専門職という事で倍増し12月末で308万円の預金ができた。1972年に銀行の有給休暇を利用して長野県の上高地から唐沢カールでテントを張って奥穂高に登って帰る2泊3日の旅行へ出かけた。
この旅行で登山の楽しさに目覚め、奥多摩、秩父へ日帰りの登山をして身体を鍛えた。冬にはスキーバスで始めてスキーを始め冬山の景色の素晴らしさを感じた。それでも贅沢はせず、常に質素な生活で貯金をして高利回りの預金、郵便貯金を利用して貯金を400万円まで増やした。
1973年になり同じビルの三井物産に勤める山田邦雄という友人ができて彼の車で信州に行き、2人で木曽の御嶽山、槍ヶ岳、山梨の甲斐駒ヶ岳など多くの山を登った。1974年に三井銀行の佐藤肇という早稲田大学の山岳部の新人が入社した。
そこで3人で佐藤君の車を交代で運転して新潟の苗場山と湯沢温泉、妙高山と赤倉温泉、長野の白馬山と白馬温泉など温泉と登山を楽しんだ。3人とも20歳を越えても浮いた話はなく女友達もいなかった。
しかし山と自然と温泉で十分に満足し1973年6月に有給休暇を使い、山の仲間3人で新潟の五頭連邦の縦走に出かけた。縦走の山旅を終え月岡温泉に泊まった時、その日は観光客も少なく彼ら3人で夕食を食べていた。
「その時、頼んでないのに和服の芸者風の女性達が熱燗徳利を持ってきた」
「とっさに安田達夫が芸者さんなんて頼んでないよと真面目な顔で答えた」
「君たち若いねと酔っ払った色っぽいお姉さん達が無料奉仕よと、おちょこを渡してくれた」
「まー飲みなさいよと酒を勧めてきた」
「そこで断るのも失礼だと思い楽しく飲んで3人別々に別れていった」
「その晩、各自で楽しい一夜を楽しんだのは言うまでもない」