36話:銀行の電算化と退職
達夫が、1988年4月12日の土曜日に休みを取り家族でハイエースに乗り長野県の更埴の杏「あんず」の花、松本城を見て浅間温泉の宿に宿泊。翌日、中央高速で山梨に入り桃の花を見た。まさに桃源郷と言うのは、この景色を言うのだろうと思った位、感動した。
遠くに雪の冨士を従えて、甲府盆地にピンクの可憐な花が咲き、息をのむ美しさだった。 翌年、三井銀行日本橋支店・電算科が電算部に、格上げされ、人数も18人に増え、サービスエンジニアが10人に増えて、安田達夫が役員待遇の部長に抜擢された。
その年に大手銀行のコンピュータ化委員会の理事に就任し年収が1200万円になった。しかし、忙しくなり20時過ぎに帰る様になり自宅でも遅くまでコンピューターの勉強をしていた。今までと一変し超忙しくなり奥さんの夢子から見ても達夫の顔がやつれてきた気がした。
あっという間に1988年が過ぎ1989年になった。その頃、銀行ではパーソナルコンピューターを利用しようと会社で富士通のFMタウンズを買い表集計計算ソフトを使える様にしろと指令が出て電算部の若手に教えた。
翌年1990年にはIBMのDOSVというパソコンが、世界標準になるかも知れないといわれて、IBMパソコンを導入し、使い始めた。表集計計算ソフト、ロータス1,2,3とデータベースソフトDbaseⅢの応用プログラムを作成した。
複利計算、優良顧客のデータベースや将来の資産計画用のソフトも含め、多くのソフトウェアが、他の金融機関にも高値で売れた。さらに高度な要望を受けて専用ソフトの注文を受ける様にななったのが1989年8月で10種類のマクロが完成したのが1989年の年末だった。
そうして1990年代に入った。マクロは、一応、パソコンを使える若手の行員は、直ぐに使える様になり、もっと多種類のマクロを注文されて、達夫のグループは、1991年末には100種類以上のマクロを作り出した。
その頃には専門職として手当、残業全て含め年収が1500万円を越えた。銀行の本社からデータベースや文書作成ソフトの勉強もするように指示され、毎日、夕食は、銀行で済ました。残業時間が2百時間という月もあり銀行で泊まる日も月に数回出る程、働きづめとなった。
その分、年収は2千万円と増えたが、夢子も、あまりの残業時間の多さに、達夫が、身体を壊さないか、心配したほどだった。やがて、1992年、1993年となり電算部が大きくなった。1995年には、別会社として独立し、安田達夫が正式に役員になった。
1996年には100人の部下ができて残業時間が減って、月に50時間程度までになった。この頃、ウインドウズ95というパソコンの基本言語が汎用されるようになった。1998年には、電算部は200人までになった。
そこで、日本橋支店から独立して、別のビルに、事務所を構えた。三井銀行は、いち早く電算化を図り、多くのロータス1.2.3のマクロを作り、それを他の銀行に販売して大きな利益を得て、別会社として独立させた。
そのソフト関連会社の利益が、他に比べて高く、その分ボーナスが多かった。達夫は、既に専属秘書と出かける時は役員専用車に乗って移動して、飛行機はビジネスクラス、新幹線はグリーン車を使った。
自分の部屋・専務室を持ち、正式に専務となり、年収2400万円となった。話は変わるが、この年、日本株は、ネットバブルの兆候を見せてきており、達夫は、ソニー株とセブンイレブン株をいつ売るか考えていた。
1999年11月にソニー株を自分の株2千株と遺産の2万株の合計22000株を3.3億円で売却して、両親に1.5億円を配分した。1979年12月月に買ったセブンイレブン株千株が1.3億円で売れて、総合計で株で3億円を手に入れた。
その他の資産をあわせると5億円を越えた。2000年のネットバブル以降、日本は一気に不況となり、銀行の再編が始まった。2002年3月に長男の安田健一は、都立大学の理工学部、情報工学を卒業してNTTドコモに入社した。
2003年に三井銀行がわかしお銀行との合併がきまり、三井住友銀行と社名変更して、達夫の会社は解体され、早期退職希望者の退職金上乗せされる話を聞き、達夫は三井銀行に見切りをつけて、2003年3月31日に退職金1億円をもらい51歳で退職した。




