3話:三井銀行、入行と楽しい思い出
銀行に勤めて直ぐ電算部に配属されて一般的な銀行業務とは全く縁のない、オンラインシステムという、ほかの大銀行、地方銀行、相互銀行、信用金庫と連携して、お金をやり取りする新しい仕事をする部署に配属された。
配属後、フォートラン、コボルというコンピュータ言語を勉強するように言われ多くの本を読む日々が続いた。その後、東工大、東大工学部、早稲田理工学部の優れた新入社員が入ってきた。当初、コンピュータ言語は、なかなか理解できなかったが、特命で電算化の必要性を考えろと上司言われ、関連する本を読みあさった。
通常業務は銀行員の毎日の入出金計算を検算し確認する仕事を任された。この仕事は得意分野で要領よく、こなした。そのうち銀行の電算課のために必要なプログラムを外注する様になりコンピューターの使い方、応用法について考えるように言われて各部署からコンピュータで、こんな事できるかという電話が多くなり、その要望を具体的にコンピュータープログラマーに仲介する仕事を始めた。
この仕事には多くの人数は必要なく事務的な作業が多く事務員を2人つけてくれ一人が仕事の内容をまとめて報告、もう一人が電話係で、かかってきた電話の要件を達夫に知らせたり、達夫に回答を問い合わせて、三井銀行の担当者に返答してくれた。その後、専門職手当が出るようになり、初任給6万円が手当を含めると12万円と倍増した。銀行の他の行員に比べて残業時間も少なくノルマもない比較的楽な部署でプレッシャーもなかった。
そこで1971年になり仕事も慣れてきたので5月の土曜から青梅線で御獄駅まで行き、そこから御嶽山に登り自前の簡易テントで野宿をして帰ったりする様になった。その後も八高線で飯能へ行き、トレッキング、川釣りをしてキャンプしたりした。9月には、西武線で秩父まで足を伸ばして散策を楽しんだ。
その後、ボーナスも専門職という事で倍増し12月末で308万円の預金ができた。1972年に銀行の有給休暇を利用して長野県の上高地から唐沢カールでテントを張って奥穂高に登って帰る2泊3日の旅行へ出かけた。この旅行で登山の楽しさに目覚め、奥多摩、秩父へ日帰りの登山をして身体を鍛えた。冬にはスキーバスで始めてスキーを始め冬山の景色の素晴らしさを感じた。
それでも贅沢はせず、常に質素な生活で貯金をして高利回りの預金、郵便貯金を利用して貯金を400万円まで増やした。1973年になり同じビルの三井物産に勤める山田邦雄という友人ができて彼の車で信州に行き、2人で木曽の御嶽山、槍ヶ岳、山梨の甲斐駒ヶ岳など多くの山を登った。
1974年に三井銀行の佐藤肇という早稲田大学の山岳部の新人が入社して3人で佐藤君の車を交代で運転して新潟の苗場山と湯沢温泉、妙高山と赤倉温泉、長野の白馬山と白馬温泉など温泉と登山を楽しんだ。3人とも20歳を越えても浮いた話はなく女友達もいなかった。
しかし山と自然と温泉で十分に満足し、1973年6月に有給休暇を使い、山の仲間3人で新潟の五頭連邦の縦走に出かけた。縦走の山旅を終え、月岡温泉に泊まった時、その日は観光客も少なく彼ら3人で夕食を食べてる時、頼んでもいないのに和服の芸者風の3人の女性が彼らの近くに熱燗徳利を持って近づいてきた。
とっさに安田達夫が芸者さんなんて頼んでませんよと真面目な顔をして言うと、君たち若いねと、ちょっと酔っ払った色っぽいお姉さん達が、無料奉仕よと、おちょこを渡して、
「まー飲みなさいよと酒を勧めてきたので断るのも失礼だと思い、楽しく飲んで、3人別々に別れていった」。その晩、各自で楽しい一夜を楽しんだのは言うまでもない。翌日起きて、朝食をとり車の運転の順番を決めて帰路についた。車中で昨晩の話で盛り上がった。
昨晩、お座敷がドタキャンとなって、ふてくされていたアルバイト芸者さんが、やけ酒を飲み、近くで我々が食事をしていたので、ちょっかいを出してきて、若い、お兄ちゃんを、からかいに来たらしい。そして、まだ、うぶな学生の様に見え、彼女達のオモチャにされたようだ。
それでも無料で、しっぽりと遊べて最高の夜だった。その中でも一番若い、今年入社した佐藤肇は素晴らしい女性で夢のような一夜だったと車の中で、昨晩の事を事細かく話すと負けじと山田君が昨晩の思い出を事細かく話した。彼女はとにかく胸が大きく柔らかったとか情が深くて何回も楽しんだとか、にやけた顔で話し続けた。
安田達夫は昨晩、遊んでくれた芸者さん・本名、夢子が、また来てねと言い名刺をくれたが、みんなには内緒にした。その後、せっかくできた社内の山の友人たちが社歴を重ねると残業が増え一緒に登山する時間が無くなり、仕方なく一人で山登りに出かけるようなった。
1974年夏、奥秩父や南アルプスの日帰りできる山を1人で登った。そして1974年1月16日に列車で冬に新潟の胎内スキー場へ行く計画を立てて夢子さんに電話をして暇な時期を聞いて出かけた。新潟に着くと駅まで夢子が迎えに来ていた。車で送ってくれる途中のレストランで昼食をとりながら、彼女の近況を聞いた。彼女も同じ1951年生まれで25歳で両親が離婚して叔母さんの家で育てられたと話した。
続けて新潟の零細米農家で貧しく地元の商業高校を出た。最近、昼間は近くの食堂で夜はスナックで働きスキー、忘年会、新年会など温泉街が忙しい時には月岡温泉で芸者さんの手伝っていると言った。そして、お酌したりして宴会のコンパニオンとして働いてるようだ。閉鎖的な田舎の生活に飽きて、安田達が月岡温泉に行った時も、宴会が突然キャンセルされて憂さ晴らしに飲んでいた。そこへ安田が夕食を食べに来たので、からかい半分ちょっかいを出したと知らされた。東京に出たいが、そのつてもなく仕方ないので田舎町で細々と生活するしかないと話した。
ハイエースは働いてるスナック兼レストランで買い出しや、お客さんの送迎に使ってる車で自由に使わせてもらっていると言った。生活が苦しいというわけでもなく贅沢もできずという感じで、若さをもてあましていると愚痴っていた。冬は暇なので付き合ってくれないと彼女が言い月岡温泉の宿に着くのが遅くなるわよと言い、とにかく寒いから温まろうと言うので安田は君に任せるよと笑った。夕食を終えて20分くらいでモーテルに入り2人で風呂に入り、いちゃついて盛り上がったところでベッドインして彼女のさみしさを埋めてあげた。よほど優しさに飢えていたのか長時間にわたり逢瀬を楽しんで疲れ果てた。その後、買いこんできた、おにぎりとパンとつまみを食べて夜22時にチェックアウトした。
「今度、暇な時には、東京に来い」と、
「安田が夢子に言った言葉に涙を浮かべ楽しみにしてるわ」と言い、
「彼女が暇なシーズンには電話するね」と言った。夢子さんに、
「明日、良かったら一緒にスキーしないか」と安田が聞くと、
「えー、行くわと言い、喜んでくれた」。
「じゃー宿に朝10時に迎えに行くね」と夢子の声が弾んでいた。宿に戻り、もう一度、温泉に入って熟睡した。翌朝、9時に朝食を食べてフロントの脇で夢子さんを待った。
「10時に明るい声で、おはよーというに夢子の声でハイエースに乗り込んだ」。
胎内スキー場へ到着し、レンタルスキーを借り、ゲレンデへ、彼女が、
「安田さんは、上級コースでも大丈夫」と聞くので、
「腕前は中の上と言った所かな」と笑って答えた。じゃーリフトで頂上まで行って、最初は林間コースを滑ってスキー場の全体を見て
「斜度に身体が慣れて来たらチャンピオンコースも滑りましょう」と言った。
「安田が夢子さんはスキーが上手そうだから教えてくれよ」と言うと、
「喜んで教えるけど厳しいわよ、ついてこられる」と笑って言った。4本のリフトを乗り継いで頂上へ着き、準備運動、特に快感の屈伸と手、足、膝、足首の屈伸を入念にしてから、スキーを履いた。
「続いて林間コースを行くのでついて来て」と言うので安田は夢子の後をパラレルでついていった。
「転ばないのを見て、大丈夫そうねと言い」、
「今度は、彼女が長めに滑って、下で待ってるから、上から滑ってみて」と言われたので言うとおりにした。数百メートル先で彼女が上げたストックを下げてスタートの合図をしてくれたのでパラレルで滑ってみた。最初なので、多少、後傾が気になったが倒れることなく、彼女の所まで滑った。
「彼女が悪くないわね」と言い、
「悪い点はどこか、わかる」と質問するので、
「滑り始めて後傾である事、左回りは良いが、右回りがぎこちない」と言うと、
「わかってんじゃない」と笑った。
「後傾は傾斜に常に直角に立つ事を心がけること、緩斜面で直滑降をして感じを掴めばわかる」。
「ターンがスムーズにいかないのはプルークボーゲン・足をハの字して左右に体重をかけて曲がる技術を練習し、膝の屈伸をして完全に体重を移動すること練習すれば良くなる」と言われた。
「この2つをこの先で、練習していきましょうと言ってくれた」
「そこで、膝の曲げ伸ばしを多少オーバーにした」
「次にプルークボーゲンで回転したい方向の足に体重を完全にのせて滑った」
「そう、上手、都会の人にしては十分、上手と誉めてくれた」
そして何回も練習しながら、ゆっくりとゲレンデを一番下まで下りた。