ワタシの可愛いポポちゃん
【ワタシの可愛いポポちゃん】
その日は雨でした。窓から見える空は憂い気で、激しい水音が響いていました。その日、本当だったら学校があったのだけれども、爆弾を送っただとか、そんな脅迫状が来てくれたおかげで休校でした。ずっと爆弾が送られてしまえばいいのになんて、私は思います。
けれども休みの日にすることはさほどなく、遊びに行くにしても雨だからそんなやる気はしませんでした。だから自分の部屋でスマホをぼんやりと眺めて、時折ソシャゲのスタミナを消費することに執心していました。けれども、その鳴き声は不意に聞こえたのです。家の外、庭のほうから弱りきった小動物らしき声でした。
今にも雨に消されてしまいそうな声でした。最初は面倒くさくて、無視しようかとも思いましたが、私は結局好奇心に負けて部屋を出ました。庭まで向かうのに傘を差して、芝生を踏んで声の元に行きました。
それはいました。犬でも猫でもないそれに、私は一瞬だけ動揺しました。脳髄を鷲掴みされたような衝撃が全身を走りました。けれども次の瞬間にはただただ、可愛いという感想だけがありました。
私はそれが一瞬ぬいぐるみか何かだと思いました。該当する生物がいなかったのです。つぶらな瞳が私を見詰めていました。大きさは膝よりも低く、でもチワワよりは大きいくらいでした。まるでマシュマロのような体をしていて、脚はまんまると短かったです。
一番似ているものはなんでしょうか。よくあるRPGゲームの最初の敵みたいな見た目でした。それが一体なんなのか。思考を巡らせてもまるで分かりませんでしたが、恐怖感はありませんでした。
蜂のように攻撃することもありませんし、ヤスデのような気持ち悪さもありません。それに、本当に可哀想なことに雨で体が冷えてしまっているのか、体をぷるぷると震わせていました。
「はにゃいい!!」
可愛過ぎて、呂律が回りませんでした。その動物はぷにぷにとこれまた愛らしい足音を立てながら私の足元に擦り寄ってきたのです。見た目どおり柔らかで、スライムのような心地よい反発性もあり、とても言葉にしがたい心地よさが頭を酔わせました。
「ポ……ポ…………」
その動物は奇妙な鳴き声を発した。どんな動物とも似ていない独特な声だったが、今すぐにでも動画を撮りたいくらいには愛らしいものでした。
「と、とにゅかく体を拭かないと!」
回らな口で私は自分に言い聞かせた。足元でぷにゅぷにゅしていたポポちゃん(たった今命名。ポ……ポと鳴くので)を抱え上げました。
ひんやりとした感触。ココナッツみたいに、包み込むような甘い匂いがしました。
「ポ~……」
「大丈夫にゃよ。すぐにゅ暖めれあげりゅりゃら」
私はすぐにその子を家へと入れました。私自身も濡れていたから、すぐにシャワーを浴びようと思いました。見たこともない動物だったがこの子のことが不思議と理解できました。食べたいものとか、お風呂が大好きってこととか。
私はすぐに濡れた服を脱いで、この子と一緒に浴室へ向かいました。シャワーのノズルから温かなお湯が頭上から足元へと流れていきます。
ポポちゃんはご機嫌にシャワーのお湯を飲んだり、水飛沫で遊んでご機嫌な様子でした。
――――ああああああああああああ、可愛いなぁ。
ボディソープの匂いか、または泡が好きなのでしょうか、ポポちゃんは私が体を洗い始めると、何度も跳び跳ねました。こんな愛くるしい生き物がいままでいたでしょうか。
「きゃわぁぁ!」
思わず奇声を上げました。この日ばかりは髪の手入れよりもこの子に執心して、いつもより適当に洗いました。
シャワーを上がって、自分より先にポポちゃんの体を拭きました。真っ白なタオルで丁寧に水滴を拭っていると、タオルが楽しいのかゴロゴロと床に転がったりして、それはもう涙が出そうなくらい私の心はより一層握られました。
ドライヤーできちんと乾かしたあと、ポポちゃんを私の部屋まで連れていきました。
私がベッドに座ると、ポポちゃんもそっと隣に座って、小さく丸みを帯びた足を私の腿に乗せてくれました。それは肉球のように、けれどもその体に以上に弾力をもっていました。
「ポ、ポポポ………」
「はわあああああ……! 癒される……」
至福の時間はしばし続きました。全てが私を天国へと向かわせました。愛らしい姿、甘い匂い、奇妙な鳴き声……。私はゆっくりと眠気に襲われて、そのまままどろみに落ちました。
――――わたしはすぐに妹の名前を叫びました。由利! 由利! 名前を叫び続けて、ようやくいつも以上に幸せそうに眠っていたわたしの妹は目を覚ましました。それでも焦燥と、意識の奥底から湧き出る戦慄は止まらなかった。
寝ぼけ眼を擦る由利の隣、それはいました。
意識してそれに向けると、吐き気のするくらい甘ったるい臭気が鼻を酔わせました。悪夢にのように淀んだ白い体液が薄皮を透かして濁流のように蠢いているのが見えました。それは特別大きな生物ではありませんでした。けれども由利の脚を覆うように這いでいました。
泡のような足が弾けては、形成しを繰り返して、そのたびに果物が腐ったような異臭を広げていました。不定形の体が体液の流れに合わせて揺れ続けていました。
「むぅ……せっかくポポちゃんと寝てたのに。どうしたの? お姉ちゃん」
「は、早くそれから離れて!」
わたしはすぐ近くにあったモップを手に取って構えました。恐怖を拭いきれなくて、手足が震えていました。
怪物の、いくつあるかも分からない虚ろで、絵の具のような瞳がいくつもわたしを睨んでいました。
「……ああ、ポポちゃんのこと? 大丈夫だよ。この子は私を食べたりはしないよ。それに可愛いよね! お姉ちゃん、ポポちゃん…………飼ってもいいよね」
妹の正気を疑いました。狂ったような真っ白な粘液質のそれを、ぬいぐるみでも持つかのように優しく強く抱き締めたのです。
「ポポポ……ポ…………」
怪物の口はいくつもありました。歯はなく、渦を描いて外皮を窪ませたものでした。渦の中心だけは黒々として、深淵の底からそんな鳴き声を発したのです。半濁音とも濁音とも取れるような音。怪物は嘲り、由利に体を巡らせていく。
「お願い……妹を返して!」
「お姉ちゃん、大丈夫だよ。ほら、ポポちゃんが祝福してくれるって」
由利がそう発言すると、首筋に甘い香りが滴りました。それは服の内へと入り、背筋を伝って足元まで流れ落ちました。
「嫌……!!」
全身を嫌悪感がまさぐって、苦しみを紛らわすように呟きました。異臭が上へと昇る感覚は、底冷えた熱が脚へと絡み付くと共に頭痛を伴わせました。
「助ケて……」
怪物が私の首元まで昇り詰めて、黒い眼が私の引き攣った相貌を映し出していました。
嗚呼、気付くのがあまりにも遅かったのです。それは一匹ではなかったのです。脳髄を鷲掴みにされた感覚がしました。それから、恐怖は忽然と消え失せました。
ぽっかりと空いた虚無感を埋め尽くすように、恍惚さと狂喜が満たしていくのです。目の前の凛々しい瞳が美しく見えました。
腐り落ちた臭いであろうと、そこには生命の脈動がありました。私は後悔しています。この慈しむべき存在に怪物だとか、悍ましいだなんて感情を抱いていたのですから。
「ふふ……いい名前ね。ポポちゃん」
「ポポポポ~」
名前を呼ぶと嬉しそうに純白の体を揺らしていました。私達は祝福されたのです。この世界が尊むべき存在に認められたのです。
この子の思考がすぐに読み取れました。どうやら繁殖をしたばかりでお腹が空いているみたいです。
「由利、一緒にポポちゃんのご飯を取りに行こう? お隣りさんでいいかなぁ……」
――今、私はとても幸せです。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
街はレースのカーテンが掛かったかのように、おぞましいほどの白色で満たされていた。ビルとビルの間を幹のように太く絡み合った糸が繋いで、街全体を支配していた。銃声が幾度となく轟いた。装甲車が白い粘液で覆われた道路を進んでいく。制圧は多大な被害を出しながらも終わりを迎えようとしていた。
今、一軒の家の戸を蹴り破り、自衛隊の一人が銃を構えた。廊下に張り巡らされた純白の糸を払いのけて、ゆっくりと部屋をクリアリングしていった。
「浴室……以上なし。リビングにもいません。一階に【ダブリュー】はいません」
男は無線で外の仲間に伝えた。
『了解。この家が最後だ。絶対にいるはずだ。注意しろ。デルタもそちらへ向かう。それまで待機せよ。上で動きがあれば必ず連絡するように』
「了解」
やり取りをして数分後、五人の自衛官が家へと足を踏み入れた。
「……上へ向かうぞ」
階段はより一層白い糸とゼラチン質の管が巡っていた。それらは生きているかのように光を脈動させていた。一段、一段上がっていくほど甘く腐った臭いが彼らの鼻を刺激した。
「吐きそうだ……」
「こらえろ健治。この家で最後だ。どうせ生存者なんかいないが……いや、待て。生存者だ! 生きている人がいた! 二人もだ!」
自衛官は喜びを伴った声で連絡した。その目には部屋の隅でうなだれる二人の少女が写っていた。白い糸が体を覆うように張り巡らされていたが、息はあるようで、微細な動きに合わせて糸が揺れていた。
しかし生気はなく、顔を俯かせていた。体を震わせており、自衛官は慌ててその二人の少女に歩み寄った。
「大丈夫ですか? 怪我はありませんか?」
「あなたたちは……?」
少女たちはゆっくりと顔をあげた。
「我々は自衛隊です。この街を襲った怪物はもう鎮圧されました。さぁもう大丈夫です。すぐにこの場所から離れましょう。歩けますか?」
自衛官は手を差し伸べた。しかし少女達はその手を取らなかった。絡み付いた糸を気にする様子もなく、悠然と立ち上がり、たった一言発した。
「死なないよ」
自衛官はその言葉の意味が理解できなかった。ただ漠然と恐るべきなにかを感じ取り、たじろいだ。背筋が凍り付く感覚を覚え、顔を歪めた。
「……なにがだい?」
「ポポちゃんは、死なないの。殺したつもりなんでしょ? でも無駄。死なないもの」
少女は嘲笑した。歩み寄って、手を伸ばした。それは服の袖から這い出た。汚泥が流れるような音を鳴らし、泡の足が割れて、作られてを繰り返していた。その強欲な瞳が彼らを視界に捉えていた。
「この街で祝福を受けていないのはあなただけ。……おめでとう。あなたたちは戦う力があるから。祝福を受けさせてあげるって。ポポちゃんが言ってる」
「ポポちゃん……? 何を言って――――」
自衛官が疑問を投げかけようとした直後、それに答えるかのごとく無線から何度も連絡が入った。機械から発せられた無機質な絶叫と悲鳴。それは断続的に部屋に聞こえ渡った。助けて。応援を頼む。怪物はまだ生きていた。その連絡は銃声にかき消されていたが、少女と対峙していた彼らには理解ができた。
その怪物が既にこの部屋中にいたことも、遅れて理解した。
――――通称ダブリューの管理方法および観測された被害に関する資料。
平成三十年七月九日。東京都調布市柴崎一丁目【REDACTED】にて観測された尋常ならざる存在のひとつです。
全長はおよそ40センチメートル。重量は測定が出来ていません。外見データは同時添付されている画像を閲覧ください。
今回の災害発生によって行方不明者は一万人を越えています。確認された生存者は二名。鎮圧、救助のために派遣された自衛隊対尋常外陸自第一師団は壊滅し、精神汚染を受けて第二師団と戦闘。第一師団を殲滅しました。
追記:彼らを捕縛した際、その肉体は炸裂し、ダブリューの体液を撒き散らしました。これに触れた者はダブリューに対し愛情を覚え、精神が汚染されます。
街にいた生存者二名もダブリューによる汚染が進行しており、日常生活が不可であると判断され、ダブリューとは別の施設に収容されました。
彼女たちはダブリューの世話、繁殖のために奉仕することのみを思考しており、精神分析による心理学的治療も効果はありませんでした。彼女達は自らのことを祝福者と名乗り、ダブリューのことを【ワタシの可愛いポポちゃん】と呼び盲愛しています。
ダブリューは肉食で、主にヒトの肉を好んで摂食します。しかしその口に取り込まれた分、体積が伸びることはなくきわめて強力な消化器官または物理法則を無視した事象を行えると想定されております。排泄の確認は現在されておりません。
構造物に張り巡らされた白い糸。および管の材質は未確認の物質であり、非常に強靭です。有効活用が可能であるかを検討中です。
ダブリューはある程度の日本語、英語を理解しており、我々の会話に視線を向けるときがあります。しかし絶対に目を見てはいけません。また、その外皮、体液に触れた場合も精神汚染が開始されます。直視をしない場合汚染値が低くなることが確認されています。そのためダブリューに干渉する際は防護服の着用を義務付けます。
精神汚染を受けたヒトはただちに監禁してください。ダブリューを収容室から開放する可能性があります。ダブリューが脱走した際、テイザーガンを使用してください。電気に弱いことが確認されており、動きを封じることができるようです。
以上で現在確認されている事は終わりです。再審の注意を払い、【REDACTED】――――の可愛いポポちゃんを傷つけないように管理してください。あれはとても素晴らしい高等な存在です。