表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

兵衛

作者: 原晴衣

  其の壱 邪鬼


 昔、山に囲まれた村があった。たいそう豊かな村であった。


 そこの村長には一人の娘がいた。とても美しい娘であった。

 その美しさを一目見ようと、近隣から人々がやってきた。

 中には、旅の途中で娘の噂を聞き、わざわざ遠回りをして村に立ち寄る者もあった。


 やがて、娘は年頃になり、結婚相手を決めることになった。

 遠くから、近くから、沢山の男達が娘の元を訪れた。

 海の国から、山の里から、強い男に優しい男、大金持ちから歌人まで、

色々な男達が娘の心を射止めようとした。

 しかし、娘は決して首を縦には振らなかった。

 どんなに美しくても、どんなに金持ちでも、それだけでは決して、うんとは言わなかった。


 ある時、村長は娘に尋ねた。

「お前は、これまですべての求婚を断り続けてきた。

一体、なにが不満なのだ。一体お前はどんな夫を望むのだ。」

娘は答えた。

「私の夫は、美しく、才知豊かな都の人で、まず何よりもお金持ち。

どれが欠けても許さない。

私は若く美しい。これぐらい望んでしかるべきだと思います。」

父親は、もう何も言えなかった。


 そんなある日のことである。

 一人の若者が、娘の家を訪れた。

 若者は、大変美しく、きれいな、しかし、奇妙な色の服を着ていた。

 何処から来たのかと尋ねると、「東の山の向こう側、剣流山からやって来た。」と言った。


 若者は、話が上手かった。優しい微笑みを絶やさずに、いろんな国のいろんな話を、

身振り手振りと共に面白おかしく語った。

 娘の両親は、若者がとても気に入ったので、是非、娘の夫にしたいと思った。

 若者は、

「私に異存はありません。しかし、娘さんは私を気に入るでしょうか。」

 そこで娘に会わせることになった。


 娘は、一目で若者の美しさに心惹かれたが、着ているものが気に入らなかった。

 娘は尋ねた。

「あなたは何処から来たのです。」

「東の山の向こう側、剣流山から。」

都の人でないことが、娘の気に入らなかった。


 「あなたの家は大きいの。」

「私の家は小さいけれど、緑と花に囲まれた、森の奥の美しい家です。」

家が大きくないことが、娘の気に入らなかった。


 「あなたは、どれぐらいの人を使っておいでなの。」

「私は誰も使っていません。けれども、山の小鳥や動物達はやって来ます。」

従者の一人もいないのが、娘の気に入らなかった。


 「あなたは、どれほど黄金をお持ち。」

「私に黄金はありません。しかし、私の土地は豊かです。

緑の木々に四季の花、清い水には魚が泳ぎ、豊かな幸を恵みます。」

黄金を全然持たないことが、娘の気に入らなかった。

 まったく、すべてが気に入らない。


 そして、とうとう娘は言った。

「お帰り下さい。屋敷もなければ、従者もいない、黄金も持たぬ田舎者。

あなたのような男とは、私は一緒になりません。そのおかしな着物も見たくない。」

 若者は、怒りに震えながら立ち上がると、青ざめた顔で叫んだ。

「我は、剣流山に棲む山の神だ。千年に一度の花嫁を探しにやって来た。

美しい、姿も心も美しい娘を探しに、この里まで降りてきた。

だが、お前は、顔は美しいが、心は貧しく醜い。」

 そうして、娘の腹に唾を吐きかけると、呪いの言葉を浴びせた。

「孕め、孕め、孕んでしまえ。

きれいな姿に醜い心、お前の心そのままの、醜い赤子を産むが良い。

それがお前に相応しい。まことの幸の何たるか、知らぬお前に相応しい。」


 驚き、怯える娘と村長を残し、若者は風のように去って行った。


 しばらくして、娘の腹は大きくなり、人目から隠さねばならなくなった。

 やがて、月が満ち、ひどい痛みにのたうち回る娘の腹から、赤子は自分の力で這い出すと、

腰を抜かした産婆を見上げて、産声を上げる代わりにケケケと笑った。


 それは、見るも恐ろしく醜い赤ん坊だった。

 色は赤黒く、痩せこけた手足に、腹だけがぽこんと飛び出し、目は大きくぎらぎらと光り、

そして、その額の真ん中には、太くて短い三角の角が生えていた。


 あまりの苦しみに、髪は白くなり、老婆のようにやつれ果てた娘は、

このわが子を見た途端、悲しみ驚き、恐ろしさのあまり息絶えた。

 村長夫婦も途方に暮れたが、それでも、娘の忘れ形見を自分たちの子として育てることにした。


 この奇っ怪な赤子のことは、いつしか村人の知るところとなり、

人々は、だんだんと村長の家を避けるようになった。

 そして、こう囁き合った。

「あれは、神様の呪いを受けて産まれた子、すなわち邪鬼だ。」

と…。



  其の弐 白痴


 ある日、一人の僧が、村を訪れた。

 長い旅をしているらしく、衣は垢染み、笠は破れ、日に焼けた手には、太い錫杖が握られていた。


 村は、静まり返っていた。

 これまで、どこの村でも、僧が戸口で経を唱えると、村人がなにがしかの施しをしていたが、

ここでは、戸は閉め切られ、道端で遊ぶ子供はおろか、まだ日は高いというのに、

畑仕事をする者の姿も見えない。

 旅の僧は、一つ一つの家を回り、経を唱え、時には戸を叩いた。


 やがて、日も傾き始める頃、一つの家の戸が開き、老人が顔を出した。

「お坊様、まもなく日が沈みます。早く、村を出て、お山を越えて、隣の村へお行きなさいませ。

ここは、あぶのうございます。」

「ここが危ないとは、どういう訳だ。どうして、この村では、人が歩いていないのだ。」

「今夜は、満月でございます。満月の頃は、あの者達が早いうちから動き回りますゆえ。」

「あの者達とは。」

「おお、日が沈んだ。どうぞ、中へお入り下さい。詳しいお話を致しましょう。」

 老人は、僧を中へ招じ入れ、戸を閉めると、しっかりと芯張り棒をかった。

 その用心深さを、僧は不審に思いながらも、勧められるままに、囲炉裏端に座り、薄い粥を啜った。


 「さて、聞かせてもらおう。何故、この村はこんなに寂れておるのか。

お前達は、何を恐れておるのか。」

「お話しすると長くなります…。そう、あれは、今から十年ほど前のことでございます。」

 老人は、あの恐ろしい出来事、邪鬼の誕生を語った。


 「その後何年かして、村長夫婦も亡くなり、子供、邪鬼だけが残されました。

それから、恐ろしいことが始まりました。初め、彼奴は、一人で村の中を歩き回り、

村人に汚い言葉を浴びせては、ニタニタと笑っておりました。

皆、気味悪がって、相手に致しませんでした。

 ところが、ある日、邪鬼の雑言に腹を立てた若い者が、奴を激しく打ち据えたのです。

その後、何日か姿を消した邪鬼が再び現れたとき、一人の白痴を従えておりました。

それは、奴を懲らしめたあの若者だったのです。

それからというもの、白痴の従者は、一月か二月に一人ずつ増えていき、

日が沈むと、村をうろつき回り、夜更けに、村長の屋敷の中に消えていきます。」

「その者達は皆、この村の者なのか。」

「この村の者もあれば、近隣の者も、男も女もおります。

ある日、ふと姿を消したかと思うと、何日かして、白痴の列に加わっておるのです。」

「その者達は、何か悪さをするのか。」

「いいえ、ただうろつき回り、踊り騒ぎ、汚い言葉で喚きたてるだけです。ただ…。」

「ただ…、何だ。」

「いえ、最近気付いたことなのですが、満月の頃には、必ず、白痴が一人減っておるのです。

何処へ行くのか、何が起こるのかは分かりませんが、とにかく一人いなくなるのです。」

「ほお。」

僧は、腕を組み考え込んだ。


 と、何やら騒がしい声が、外から聞こえてくる。

「何事だ。」

「奴等です。」

老人は、怯えた目をして呟いた。

 僧は、無言で立ち上がると、しっかりと閉め切られた明かり取りを、細く、そっと開け、

外の様子を窺った。


 それは、確かに、おぞましい光景だった。

 十人ほどの男女が、淫らがましくもつれ合い、喚き合いながら踊り狂っていた。

彼等の衣服は破れ、ぼろ布のようになり、あらわな肌が、月明かりに妖しく浮かび上がる。


 それらの一団の中央には、四人の男達に担がれた輿がおり、そこには、一人の子供が座っていた。

 窓の隙間から見えるのは、その、毒々しい色のぼろを何枚もまとった身体だけであったが、

何かの拍子に、輿が下がり、月明かりに照らされたその顔を見た時、諸国を経巡り、

多くの怪異を目にしてきた僧も、身の毛が逆立ち、血も凍るほどに震えるのを抑えることができなかった。 


 それは、おぞましいと言うだけでは、言葉が足りず、

かと言って、それ以上の言葉も見つけられない、

正に、この世の者ならぬ面相であった。

 ぼろの間から、朽ち木のように伸びた頚は、筋張り垢じみており、

すぐその上には、異常に発達した顎。

口は大きく、耳まで裂け、大きく尖った歯がズラリと並び、

それを、薄く、他の皮膚の色には不釣り合いなほど紅い唇が縁取っていた。

 大きく張り出した頬骨の間から、節くれだち、先が尖った鷲鼻が立ち上がり、

頬骨と、それ以上に前方に迫り出した眉骨が作る二つの深い窪みの奥では、大きく、吊り上がった目が、

人ならぬ光をたたえて、いやらしく、狡猾に輝いていた。

 そして、伸ばし放題のざんばら髪と、禿げ上がったような広い額の間には、

太く短い、肉色をした角が、妙に艶めいて、存在を主張していた。


 その一団は、やがて少しずつ遠ざかって行った。

 僧は、窓を元に戻すと、老人に尋ねた。

「あの者共は、村長の家に入って行くと言ったな。」

「はい。」

「そこで何をしているのだ。」

「分かりません、誰も近づきませんので…。」

 僧は、何事か思案しているようであったが、やがて、意を決したように顔を上げた。

「老人、私はこれから村長の家に行って、奴等がそこで何をしておるのか確かめて来よう。」

 これを聞いて、老人は顔色を変えた。

「いけません。お坊様にきっと良からぬことが起こります。」

「心配するな。私には御仏がついておられる。

奴等が何者であろうと、このような怪異な者共が衆生の中にのうのうとはびこっておるのは

許されることではない。」

そう言うと、老人が止めるのも聞かず、村長の家に向かった。


 そこは荒れ果てていた。

 障子も襖も破れ、朽ちかけた骨組みが辛うじて穴だらけの屋根を支えている。

 僧は、繁り放題の庭の木の陰から家の中の様子を窺った。


 かつて囲炉裏であったところに明々と炎が燃やされ、

それを取り囲むように、邪鬼と白痴達が並び、何かを待っているようであった。

 白痴達は、先程とは打って変わって、黙したまま、邪鬼の方を食い入るように凝視していた。

 邪鬼は、薄笑いを浮かべながら、一同を見渡し、

一人の女の白痴の上で視線を止め、ゆっくりとその女を指さした。


 その途端、それまでどんよりと濁っていた女の目に正気が戻り、

目の前の邪鬼を見ると、見る見るうちに顔が恐怖で歪んだ。

 女は、悲鳴を上げて立ち上がると、一目散に逃げ出した。


 それを待っていたかのように、他の白痴達が後を追い、女は、庭先に出たところで捕まり、

引きずり倒され、僅かな衣服も剥ぎ取られ、手足を押さえつけられた。

 そこへ男の白痴達がのしかかり、代わる代わる女を犯していった。

 女の悲鳴は、口に押し込まれたぼろ布でほとんど聞こえなかった。

 あまりの惨さに、僧は、目を背けそうになった。


 しかし、それで終わりではなかった。

 陵辱の限りを尽くされ、息も絶え絶えとなった女の腹に、

一人の白痴が馬鹿でかい肉切り包丁を突き立て、真っ二つに切り裂いたのだ。

 そして、そこに白痴共が群がり、その肉を貪り喰った。

 邪鬼は、その様子を面白そうに、満足げに眺めていた。

 そこへ、一人の白痴が女の生首を恭しく捧げた。

 邪鬼は、それを受け取ると、生首の両目に自分の両の親指を突き刺し、

信じられぬ力で頭を二つに割り、剥きだしになった女の脳味噌に食らいつくと、

さも美味そうにピチャピチャと音を立てて喰い始めた。


 物陰の僧は、もう見ていることが出来なかった。

彼等に気付かれぬように、そっと家を抜け出すと、老人の家まで必死で走った。

 途中、今見た光景を思い出しては立ち止まり、激しく吐いた。

 諸国を巡り、修行を積み、滅多なものには動じないこの僧にとってさえ、あまりに恐ろしい光景だった。 


どうにか帰り着いた僧は、老人に、己が目撃したことを手短に話すと、

「どうにかせねば、どうにか…。」

と呟くと、壁に向かって一心に経文を唱え始めた。

 老人もそれに倣った。


 そうして、夜が白々と明け始めたとき、僧は、老人に向き直って言った。

「私はこれから剣流山へ参る。

聞けば、剣流山には兵衛と呼ばれるものがいて、大変な神通力を持っているとか…。

邪鬼を倒すには、その者の力を借りるほかない。」

「しかし、剣流山は東の山の向こう、大変遠く、険しい道を越えて行かねばならぬと聞きます。」

「ではどうする、あのまま邪鬼を放っておけというのか。」

 老人は、僧の決然とした態度にもう何も言うことが出来なかった。


 その日のうちに、僧は剣流山へと旅だって行った、東へ、東へと…。



  其の参 兵衛


 ある満月の日の夕暮れ、老人は、いつものように早々に家に引き篭もり、

入り口に、しっかりと芯張り棒をかった。


 と、その固く閉ざされた木戸を叩く者がある。

 白痴共にしては、刻限が早すぎると思いながらも、おそるおそる炉端から、木戸に近付いて、

「誰じゃ、誰がこの戸を叩いておる。」

と、声を掛けた。

「私だ。約束通り戻って参った。」

 それは、あの、旅の僧の声であった。

「おお、あの時の。今開けます、少々お待ち下さい。」

老人は、芯張り棒を外し、木戸を半分ほど開けて顔を出した。

 そこには、確かに、あの時の僧が立っていた。

しかし、ぼろぼろの衣は更にみすぼらしくなり、破れ果てた笠の下の顔は頬がこけ、

真っ黒に日に焼けていた。


 「どうなさったのです。こんなにおやつれになって…、とにかく、中にお入り下さい。

今夜は満月、白痴共が派手に動き回りますゆえ…。」

老人は、僧の腕をつかんだ。

 腕は、痩せ細ってはいたが、ここまでの旅路の厳しさを物語るように固く筋張っていた。


 「それが、今回は、私一人ではないのだ。」

僧の目は、その疲れた外見とは不釣り合いに、生気に溢れた輝きを放っていた。

「お連れ様がいらっしゃるので…。」

老人は、更に戸口から身体を乗り出して、周りを見回した。

 そして、僧の背後に、薄汚い少年が立っていることに気が付いた。

「このお子は…。」

 老人の訝しげな視線に動じた様子もなく、少年は、穏やかに無表情のままであった。

「驚かれるな。この子が、剣流山の兵衛だ。」

僧は、少年の肩を掴んで前に押し出した。

「こんな、子供が…、あの、当代一の神通力を持つという剣流山の兵衛…。」

「信じられぬのも無理はない。

私とて、剣流山の山中で、このお子に出会った時には、にわかには信じられなかった。

だが、この方こそ紛れもなく、あの兵衛なのだ。」

「まあ、詳しい話は中でうかがいましょう。」

 老人は、二人を中に招じ入れた。

 少年は、後ろを振り返り、低く、鋭い口笛を木立に向かって吹いた。

 老人の目には、木立の中に何物も見つけられなかった。


 「あれから彼奴等はどうしておる。」

囲炉裏端に車座になって座り、初めに口を開いたのは僧であった。

「相変わらず、夜な夜なうろつき回っては、馬鹿騒ぎを繰り返しております。」

「そうか…。」

僧は、目を伏せた。

 そして、去来するあの忌まわしい光景を振り払うように、力強く言った。

「だが、もう心配ない。兵衛がやって来た以上、もう彼奴等の好きにはさせない。」

「そうですか…。」

老人は、僧と少年を見比べていた。

「こんな、子供とは…。」

「確かに、名高い剣流山の兵衛が、年端も行かぬ子供ではにわかには信じられまい。

私も、あの山中で初めてこの子を見、名を聞いたときには、我が目を疑った。」

 僧は、少年を見やった。兵衛と呼ばれた少年も、その目をまっすぐに見つめ返した。


 「東へ東へと旅を続け、どうにか剣流山へ辿り着いたものの、今度は山中で道に迷ってしまった。

道なき道をさまよい、潅木をかき分け、夜な夜な聞こえる狼の声に怯えながら、私は、兵衛を探し続けた。

何日も、ほとんど飲まず食わずで…、ついに力つきて、倒れた私を、狼の群が取り囲んだ。

『これでおわりか…。』と思った私の前に、何の前触れもなく、このお子が現れたのだ。」

「しかし、どうやって、このようなお子が、あの邪気を退治ることが出来るというのです。」

老人は、まだ半信半疑のようであった。

「心配ない。おらのウチのモンがやっつける。」

兵衛と呼ばれた少年は、ボソリと言い、鼻をすすった。

 「他にもお連れの方が…。」

老人は、物問いたげに僧の顔を見た。

「いるにはいるが…。知らぬ方がよいと思うが…。」

珍しく、僧は言葉を濁した。


 「邪鬼の所へ行く。」

出し抜けに少年は立ち上がり、戸口に向かった。

「何もそんなに急いで行かなくても…。長旅で疲れているのでしょう。」

老人は、慌てて言った。

「坊様から、この村の人たちが、化け物に取り憑かれて困ってると聞いた。

だから、おらはここまで来たんだ。爺さま、みんな困ってるんだろ。」

少年は、老人に振り返った。

 その目は、深い山に湧き出る泉のように輝き澄んでいた。

「はい、このままでは、この近隣の村々に、若い者がいなくなってしまいます。」

「わかった。」

少年は、初めて笑い、すっかり暮れ落ちた夜の闇に消えていった。

 僧もその後を追った。



  其の肆 運命


 今夜もまた、宴が始まろうとしていた。

 邪鬼は、己のしもべ達を見回し、今日はどいつの脳味噌を食らおうか、そればかりを考えていた。


 この世に生まれ出てより、彼が、何かに愛着を示したことなど一度もない。

 その時ごとの欲望の赴くまま、月の満ち欠けの囁きのままに、

彼は、徘徊し、人を狩り、しもべとし、おのが糧とし、力としてきたのだ。

 それが邪鬼の邪鬼である所以だった。

 そもそもが、かの母親の心中に凝ったどす黒い煩悩の顕現であり、

そこに山の神の呪詛という精を浴びて世に出たのだ。


 人でも、獣でもなく、まして、神精霊の類でもない、ただただ肉の禍々しき生き物。

 欲望と、渇望と、妄執のみに支配された救われぬもの。

 それ以上でも、それ以下でもなかった。

 まして、邪鬼自身に、己の運命、行く末など知る由もなかった。

 あるのは、満月と満月の間にある、震えるような渇望と、満月の夜の高揚、それだけである。


 パチッと、薪が火の中ではぜ、生乾きの樹液がその上で、生き物のようにのたうち焦げていく。

 風が、炎を揺らす。

 その風に乗って、遠吠えが届く。

 初めは一つ、誰も顔を上げようとはしない。

 二つ、邪鬼が顔を上げ、風上の気配を窺う。

 三つ、四つ、やがてそれは、数え切れぬほどとなり、

大地を蹴る響きと共に、彼等の方に近づきつつあった。


 邪鬼は、二人の白痴に松明を持たせ、生け垣の向こうを窺わせる。

 彼等が、生け垣の崩れかけた門を開くよりも早く、無数の黒い固まりが飛び込んできた。


 それらは、あるものは、白痴の一人を土間に押し倒し、喉笛にその牙を突きつけ、

あるものは何頭かで、白痴の群を庭の隅に追いつめ、

今にも飛びかからんばかりに恐ろしいうなり声を上げていた。


 それは、今まで見たこともないほど、大きな狼の群だった。

 この近隣の村々から狼がいなくなってもう何世代も経つ。

 いったい何処にこれだほどいたのかと思う数であった。

 狼達は、白痴達を追いつめ、押さえつけ、脅しつけてはいたが、誰をも傷つける様子は見せなかった。


 そして、それよりも更に多数の狼が、邪鬼の周りを二重三重に取り囲み、

全く身動きのとれない状態にしてしまっていた。

 邪鬼は、取り囲む狼達に、汚らしい歯をむき出し、薪の丸太を振り上げて、追い払おうとする。

 しかし、狼達はひるむ様子もなく、一定の間を空けて、邪鬼を包囲したままであった。


 不意に、その分厚い輪の一カ所が開き、邪鬼に負けず劣らず薄汚い少年が入ってきた。

 兵衛である。

 狼達は、まるで自分たちの王であるかのように、恭しく道をあけて行く。

 邪鬼は、振り上げた丸太を下ろし、兵衛を見つめた。

 兵衛は黙って邪鬼に近づく。


 両者の距離が、手を伸ばせば触れ合えるほどになったとき、邪鬼が口を開いた。

「オマエハ、誰ダ?」

「兵衛。」

「何処カラ、来タ?」

「剣流山から。」

「何シニ来タ?」

「お前が悪さをするから。」

兵衛は、邪鬼に手を伸ばした。

「一緒に行こう。ここはお前の居場所じゃない。」

「イヤダ!」

「神様が、お前を連れて来いって。」

「カミサマ?ソンナモノ知ラナイ。俺ハ何処ニモ行カナイ。オ前ノ脳味噌モ食ッテヤル!!」

邪鬼の両の爪が、兵衛の顔に伸びる。

 しかし、それよりも速く、取り囲んだ無数の狼達が、邪鬼に襲いかかった。

 末期の声も聞かれなかった。

 ただ、狼達が退いた後には、ぼろの切れ端が数枚残っているだけだった。


 白痴達は、正気を取り戻し、自分たちの有様を見て、まるで赤子のように、一斉に泣き叫び始めた。

 その者達を、狼達は優しく舐め、冷えた体を温めた。


 僧は、この一部始終を見ていた。

兵衛は、言葉を失っている僧に歩み寄り、

「邪鬼は、神様の所にちゃんとつれて帰るから…。」

と、呟くように言った。

その声は、いつもの兵衛とはまったく別の者のように聞こえた。

「邪鬼の骨も肉も、みんなウチのモンの腹の中だから。」

「あの者達はどうする?」

正気に戻って、赤子のように泣き続ける白痴達を見て僧は訊いた。

「大丈夫、もうすぐ元通りになる。暫く、赤ん坊になって汚れを払うだけさ。」

「これはどうする?」

僧は、邪鬼の残したぼろ切れを拾い上げた。わずかに、赤く血に濡れている。

「赤い血は、人のものだから、お母さんと一緒にしてやればいい。」

 やがて、東の山の向こうから、ゆっくりと朝日が昇り始めた。

「坊様、おらは剣流山に帰る。じっちゃんも待ってるし、邪鬼も、神様に帰さないといけないし。」

「村のものが、礼を言いたがるぞ。」

「みんな、ウチのモン見たら怖がるから…。坊様から、爺様や村の人によろしく言っておくれよ。」


 街道に出た兵衛は、ピィーッと長い口笛を吹く。

 狼の群が一塊になって姿を現し、すぐに、街道脇の森に消えていった。

「それじゃあ、坊様も元気で、また何か困ったことがあったら、いつでも来ておくれ。」

それだけ言い終わると、兵衛も、街道脇の森の中に消えていった。

 駆けていくその姿は、まるで若い狼のようであった。

 僧は、その森の方角に黙って手を合わせた。

 朝日の彼方から、遠吠えが一つ、風に乗って、小さく聞こえた。



  其の伍 懺悔


 僧は、残された邪鬼の衣服を金の鉢に入れ、火をともして灰にした。

 そうして、村長一族の墓の前にそれを供え、ゆっくりと、一心に経を唱え始めた。

 件の老人を始め村の者達もその後ろに座り経を唱え始める。

 そうしてどれほどの時が経ったのか、

僧は、己の傍らに気配を感じ、振り返ると、奇妙な装束の男が、すぐ傍らに座り、黙って手を合わせている。

 不思議に思いながらも、僧は、読経を続けた。


 やがて、雑念が失せ、穏やかな、癒しの心に満たされんとしたその刹那、

一つの想念が、僧の中に入り込んできた。

 それは、明らかに、傍らの奇妙な男から流れてくることに気付きながら、僧は黙って、手を合わせ続けた。

 やがて、その念は、形を得、僧の心の中全体に広がり、

あたかも、その男の心に入り込んでしまったようであった。


 高い高い山。

 長い長い年月。

 深い深い孤独。

 重い重い運命。


 それらの果てに、伴侶を欲する気持ち。

 美しい容姿、美しい心。

 満たされる事への期待。


 美しい娘の噂。

 気高き心根を窺わせる噂。

 山を下り、娘に一目会う。


 美しい容姿。

 しかし、その心は、煩悩に凝り、瞳は物欲に曇っていた。

 落胆、憎悪、嫌悪。

 言ってはならぬ呪詛の言葉を吐き、山に駆け戻る。

 おさめ切れぬ怒り、悲しみ。

 七転八倒の苦悶は嵐を呼び、大地を震わせ、巨大な山津波となって、麓の村を襲う。


 残されたのは、尾根の上の炭焼き小屋、里家の柱の間にはまり込んでいた赤ん坊。

 拾ったのは、雌の狼。

 小屋には、炭焼きの老人。

 赤ん坊に兵衛と名付け育て始める。

 雌狼は、毎日乳を与えにやってくる。

 やがて、物心ついた兵衛にとって、家族は、爺様と山の狼。

 心は、人と獣を行き来する。


 西の村には、邪鬼がいる。

 東の山には兵衛がいる。

 どちらも、神の落とし物。


 「どちらも神の落とし物。」

僧はもう一度振り返る。

 相変わらず、男は黙って手を合わせている。


 救わねばならぬ者、救われるべき者。

 愛されるべき者、去るべき者。

 すべては出し所へ帰す。


 「始まりは、剣流山…。」


 西からの風が吹く。


 振り返ると、そこに男の姿はなかった。

 村人達は誰一人、男がいたことさえ気付かなかった。


僧は、また、旅の空にあった。

 あの村の、村長の家の跡には、小さな寺が建てられた。

 村人達は、僧に、そこに留まるように請うたが、残らなかった。

 代わりに、村の若者が一人、髪を下ろし、大きな寺で修行の後に、そこを預かることとなった。

 それは、一番初めに白痴にされたあの若者であった。

 知らぬ事とはいえ、己の身に付いた汚れを、残りの現世で償い、

あやめた人々の菩提を弔うつもりだという。


 また一つ峠を越える。

 遥か東の彼方、山々の向こうに、剣流山の、雪を被った頂がのぞく。

 僧はしばし手を合わせ、また、何処とも知れぬ旅に向かう。


 錫杖の音が、力強く、空に響いていった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ