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シオンはその言葉に、声もなく目を見開いていた。
そして何とか口を開いたが、晴の言葉をそのまま繰り返すだけだった。
「時空……犯罪者?」
「そ。罪状は無断時空間渡航ね。あ、公務執行妨害と、もしかしたら器物損壊も付くのかな」
晴は悪びれもせずに言った。
今度こそ、シオンは言葉を失った。
時空管理局の定める法律――「時空管理法」の適用される範囲は、時空管理局に協賛する世界に限られるものの、今や300を超える世界がこの法の下に生活している。もっとも、内容は時空を股にかける事例に限られ、多くの世界はこれとは別に、細かな事例まで記載した個別の法律を持っている。
時空犯罪者とは、それに対して区別する意味で使われる、時空管理法を犯した者の呼び名だった。
無断時空間渡航罪は、時空管理法では殺人罪に匹敵する重犯罪である。法律の条文では、死刑、無期懲役、7年以上の有期懲役のいずれかを科す、となっているが、64年の判例において、有期懲役で収まった者はほとんどいない。その上余罪が加わるとなれば、言うまでもないことである。
「どうする? 時空管理局員として、僕を捕まえる?」
晴はからかうような気安さで、シオンに問いかけた。
晴の膝の上で、アカリがピクリと動いた。その耳はピンと立っている。晴が右手で、大丈夫だよとゆっくり撫でると、薬指の小さな青い宝石がきらりと輝いた。
シオンは大きく深呼吸をしていた。
ゆっくりと3回、吸って吐いてを繰り返すと、少し硬さの残る声で言った。
「いえ、休暇中ですからね。逮捕する義務も権限もありません」
「屁理屈だね」
晴は、聞くや否や、そう言った。
にやにやとした笑みを張り付けながら――こう言えば、真面目なシオンは必ず言い返すだろうと考えて。
「ですが事実でもあります」
シオンはそう言った。
ほら来た、と晴は思った。
晴は笑みを深めながら、先の返答を予想しつつ言葉を繋げていった。
「そうだね。でも、報告義務はあるんじゃないかな? 時空管理局員としてではなく、その庇護下にあって平和を享受する一市民としては」
「いえ、そもそもここは管理外の世界ですよ? 時空管理法は適用されません」
「あはは、時空犯罪者は、管理外に逃げると同時に無罪放免になっちゃうんだね」
「そうではありません。今の私には、法の庇護も、順守する義務も存在していないということです」
「なるほど、なるほど。――つまりシオンの立場は、そういうことでいいんだね?」
「そういうこととは?」
「時空管理法との関わりがないってこと」
「ですから、そう言っているではありませんか」
シオンの言葉にうんうんと頷く晴は、もはや零れ落ちそうなくらいの笑顔だった。
その膝でアカリは耳をふにゃりと曲げ、気持ちよさそうに眠っていた。
晴はそれをそっと抱き上げて席を立つと、入れ替わりに椅子へ降ろした。そしてテーブルを左手で伝いながら、軽快にシオンへと歩み寄っていく。白い髪がふわりふわりと飛び跳ねるように広がった。
晴の左手が紅茶の入った容器に触れかけ、シオンは慌ててそれを引き寄せた。
その間にすぐ近くまで来ていた晴は、右手でそっとシオンの肩に触れた。そのまま上へ伝っていき、首筋から頬へと右手が動く。シオンはその感触に、「んっ……」と小さく声を漏らした。
「ねえ、シオン」
囁くような声で言う。
どちらの性も感じさせない声は、蕩けるような甘みを帯びていた。
晴は息がかかりそうな距離まで顔を近づけた。
右手は頬を撫で、さらに耳、目、鼻と触れていた。さらに左手も加え、シオンの顔を半ば覆うようになる。目の見えない晴は、そうやってシオンの顔の形や表情を確認していた。
シオンは目を閉じて、じっとそれを受け入れていた。
「それなら、シオンがここから更に別の世界に渡っても、何ら問題はないってことだよね」
両手で頬を包み込むように触れたまま、晴は言った。
シオンの目がハッと開かれる。
その視界にはひたすらに白く染まる美貌が広がっていた。
長い睫毛はその付け根までも白い。毛先の少し乱れた髪の毛は、流れる滝のようだ。肌に少しだけ残る汗の流れた跡が、かえってその純白さを象徴している。鮮やかな紅の唇だけが、色を主張する。
そんな美しい顔は、自信に満ちて、悪戯っ子のように笑っていた。
「――何をお考えなのですか、隊長」
シオンの疑問は、ごく自然な口の動きで紡がれていた。
本当に僕は周囲に恵まれたな、と晴は思う。
(副支部長も、最後まで部隊長と呼んでいたな……)
生真面目で、クローディアの右腕で――顔に触れた事はないけれど、きっとシオンと同じような目をしているんだろうな。
晴はリサのことをそう思い返して、「あはっ」と声を漏らした。
はぐらかされたと思ったのか、晴の両手にムッと顔をしかめるのが伝わった。晴はごめんごめん、とその頬をむにむにとほぐした。シオンの右手が、止めてください、と晴の左手に重なった。それでも振り払おうとはしない辺り、甘いなあ、と晴は思った。
晴は左手だけをその頬に残し、右手でシオンの手を掴んだ。
シオンのすぐ目の前で、青い光がちらついた。
そして晴は、またしても気軽に言った。
「ちょっと、時空一周の旅でもしようかと思ってね」
「……そんな、ちょっと散歩に行こうみたいに言うことではないかと思いますが」
「実際そんなものだよ。僕にとっては、ね」
「隊長だけなら可能でしょうけれど、その場合、私はついていけないのでは?」
シオンの疑問はもっともだった。
晴に固有の能力である「時空船を必要としない時空間渡航」は、あまり大きな質量を伴うことができなかった。晴自身の質量と、猫であるアカリの僅かな質量とを足して、その余裕はおよそ3、4キログラム。それは、赤ん坊でさえ生後1ヶ月もすれば超えてしまう程度の重さだった。
故に、晴の意図は別にあった。
「そう、シオンにはやってもらいたい事があるんだ。もちろん、やりたくなければやらなくてもいい。やってくれたら、僕はとても助かるけれどね」
晴は我ながら、ずるい言い方だと思いながら、シオンの返答を待った。
すると待つというほどもなく、シオンは言った。
「何をすればよいのでしょうか」
「迷いがないね。内容を聞く前から、引き受けるって言っているみたいだ」
「――ですから、そう言っているのですよ」
左手だけでもわかるくらいに、シオンは笑みを浮かべていた。
(ここまで全く疑われないというのも、かえって恐ろしいね)
時空管理局員を辞めようとしていた理由も、犯罪者になった経緯も、これからの目的も。何一つまともに話していないのにも関わらず、シオンの言葉には全く揺れがなかった。真っすぐな信頼だけが伝わってくる声だった。
晴は思い切って、聞いてみることにした。
「僕が本当に悪意を持って、犯罪者になったとは考えないのかい?」
「それはありえません」
今度は少しも間を置かなかった。
「この青い指輪は、見かけだけの物ではないでしょう」
シオンは晴の右手の薬指を見つめていた。
青は、クローディアを象徴する色だ。その瞳の色は青く澄み渡り、その魔力は蒼く輝きを放つ。見た目だけではなく、支部長としての公平さ、誠実さも青を連想させる。
「クローディアが最も嫌う行為を、隊長が訳もなくするはずはありません」
シオンの右手を掴む晴の手が、少し緩んだ。
シオンはその手を逆に握り返した。
「だからクローディアも、上手く隊長を逃がしたのではありませんか?」
今度はシオンの言葉に、晴が面を食らう番だった。
確かに思えば、クローディアの暴走は不自然だった。がむしゃらに魔力を放ち、強制的に魔法として発現させるようなやり方は、いくら動揺していたとしても彼女らしくなかった。緻密に魔力を編み上げ、正確で鋭い魔法によって、確実に相手を捉える――それが晴の知る、本来のクローディアの戦い方だった。もし結果的に、あの魔法によって部屋のシステムが機能を停止し、室内を監視する記録映像までも紛失していたとしたら――その意味するところはシオンの言う通りだろう。時空管理局員として当然の行動と見せかけた、逃亡幇助に他ならない。
考えれば考えるほど、辻褄は合うように思える。
しかし疑問が残っていた。
何故、その場に居なかったシオンに、クローディアの考えが予想できたのか。
「隊長の驚いた顔は、とても可愛らしいですね」
シオンは仕返しだと言うような口調で言った。
その自慢げな様子が、晴には不満だった。自分が気づかなかったことを言い当てたばかりか、逆にからかうなんて生意気だ、と思った。だから晴は、仕返しの仕返しに、またシオンの頬をつねった。
シオンはそんな晴の行動も笑って受け流して、穏やかな調子で言った。
「立場は遠くなってしまいましたが、これでも10年来の親友ですから。多少の事ならその場に居なくても――見なくても、わかりますよ」
わざわざ言い換えた言葉は――晴とアカリがそうであるように、と。
言外にそう言っているような気がした。
晴の記憶が明確なのは、天才と呼ばれるほどの記憶力をもってしても、3、4歳ほどの頃からだった。アカリはそれ以前から晴に付き添っていたが、晴が「アカリ」と名付けたのはその頃だった。当然、クローディアに関する記憶もそれ以前にはなかった。
アカリとはそれ以来、ほとんど離れた記憶がなかった。
お風呂には一緒に入る。トイレすら便器の前までは誘導してもらう。当然のように同じベッドで眠る。時空管理局の仕事もアカリが居なくては始まらない。そんな風に、晴のどんな記憶にも、アカリは居る。
しかしクローディアとは、彼女が時空管理局に入ってからの事を考えれば、一緒に居た時間は少なかった。晴にとっての実質的な思い出は、5年分あるかどうかだった。
シオンとクローディアがいつ、どのようにして出会ったのかも、晴は知らなかった。彼女が家に遊びに来たことはなかったため、クローディアと親友だというのも、晴が時空管理局員になってから知った事だった。晴は仕事でシオンと話すことは多かったが、休日まで共に過ごすことはなかった。
――シオンは、晴の知らないクローディアの姿をたくさん知っているのだろう。
やっぱり生意気だ。それに、悔しい。
目で見えないなら、触れればいい。触れられないなら、話せばいい。
けれども、それをするだけの時間がない時は、どうすればいいのだろうか。
晴は頬をつねる手を緩め、今度は人差し指でつんつんと突いた。
「隊長も、まだまだ子どもらしいところがありますね」
くすぐったいですよ、と言ってシオンは笑った。
年長者であることを感じさせるそれが、クローディアのくすくすという笑い声に、晴の脳裏で重なった。晴はシオンの頬をいじるのを止め、ゆっくりと手をおろした。
「早く大人になりたい、なんて思ったことはなかったけれど――なんだか今は、お酒でも飲みたい気分だよ」
晴は冗談交じりに、少しだけ真剣な声色を乗せて言った。
「お飲みになりますか? 何せ今の我々は、法の下にはいないのですから」
「……止めておくよ。酒の臭いは、アカリに嫌われそうだ」
シオンの返した冗談に、晴はそう言って苦笑した。