プロローグ 2/2
同時投稿後半部分です。
1/2からお読みください。
15時00分。
クローディアの目の前には正しく時間が表示されている。規則正しいノックと共に聞こえてきた声が、約束の相手のものだったなら、何の疑問も抱かなかっただろう。
しかし、聞こえたのはよく知る女性の声だった。
「休憩中のところ申し訳ありません。火急の報告があって参りました。何度か、執務用端末にもお送りしたのですが……」
クローディアがその言葉に手元の端末を確認すると、確かに時間を表示する以外にもデータ受信を伝えていた。彼女の言葉通り休憩中とはいえ、よほど深く考え込んでしまっていたらしい。
「……どうぞ、お入りください」
「失礼いたします」
スライドドアが開き、一人の女性が姿を見せる。
第8支部副支部長、リサ・ローウェル。
事務と交渉能力に長け、第8支部では、担当内の時空を監視し異常があれば対処指令を出す、時空監視室を主に指揮している。
時空管理局員の白い制服を乱れ一つなく着こなし、腰には銃のホルスターと警棒がかけられている。上下にフレームのない眼鏡の奥にある切れ長の瞳が硬質な印象を与え、いかにも真面目で冷徹そうな雰囲気の女性であるが、今はその表情に小さな戸惑いが浮かんでいた。
しかしそれを声に出すことはなく、手元のタブレット端末に目を落とし、抑揚も小さく読み上げる。
「報告します。本日、14時53分、第8支部本棟西側通路に空間歪曲を発見。魔力の反応は検知されませんでした。一帯は手近な局員数名で封鎖しています。巻き込まれた者がいないかどうかは現在調査中ですが、発見者によればそこに――」
淡々と報告される内容にクローディアが驚く間もなく。
ビーッ、ビーッ、ビーッ、と机上の端末がけたたましく警告音を吐き出す。
少し遅れ、外からは長いサイレンの音が聞こえてくる。
支部全体に鳴り響くその音は、第一級警戒態勢の合図。
それは時空管理局にとっての本来の役割であり、最優先事項である。
予定されていない時空間渡航の予兆を検知したという知らせであった。
クローディアは警告音を耳にするとすぐさま立ち上がった。目の前の情報端末にその位置を表示させるまで、数秒と掛からなかった。しかし、確かにその画面を目にしていたが、何度も目を瞬かせるばかりだった。そして、画面の伝える情報が頭に入るまでにはさらに数秒を要した。
クローディアは理解すると同時、跳ねるように飛び退った。
ふわり、と真っ白な糸束が揺れる。
短い風が吹き、机の書類を巻き上げる。
はらり、はらりと落ちていく白い紙の隙間に、白の芸術が立っていた。
純白の美しい髪の流れるのも。
クローディアとお揃いのスーツの袖から真っ白な肌が覗くのも。
その手で丸まる全身白毛の猫を抱くのも。
瞼は閉じられながら、うっすらと微笑みが浮かぶのも。
その全てが眩しく輝いている。
そこには、晴が立っていた。
クローディアは時が止まったように動けずにいた。
ドアの前ではリサが手元の端末を取り落とし、カランと軽い音を立てた。
だが両名ともに、その美しさに目を奪われたのではなかった。
第8支部全館に鳴り響いたであろう警報。
同時に局員の全てに共有されたであろう位置情報。
それと目の前の状況を照らし合わせて考え付く結論は一つしかなかったのだった。
「……晴?」
クローディアは絞り出すように声を出した。
「40秒くらい遅刻したけど、まだ15時0分の範囲だから約束はセーフだよね」
対する晴は、何事もなかったかのような軽い調子で微笑んだ。
呆気にとられたままのクローディア達に構わず、晴に抱かれているアカリも同じ調子で話しだした。
「ごめんね、クローディア。ボクはちゃんと止めたんだ」
「え、止められた覚えがないけれど」
「ほら、約束を破る選択肢は?って聞いたじゃないか」
「ああ……あれ、止めてたんだ?」
「気づいていなかったんだね。まったく、晴は猪突猛進なんだから」
「仕方ないだろ、クローディアから約束は守りなさいってきつく言われてるんだ。そもそも、アカリだって最後には賛成していたじゃないか」
「ブラッシングと引き換えにね。でも晴、そのクローディアがお怒りだよ」
「あっ……」
晴は背筋に悪寒が走るのを感じた。
その寒さは精神的なものばかりではなく、実際の現象として起こったものでもあった。
クローディアを中心に膨大な魔力が渦巻き、魔力の渦は次々に冷気へと変わっていく。
標高の高い山頂の吹雪のような、冷たく激しい風が室内に吹き荒れ、やがてガラスでできた窓は大きな音を立てて破片を散らした。机やソファには霜が降り、この一室は白銀に染まっていた。
室温は氷点下まで瞬時に下がり、リサは魔法による防御に失敗したらしく、勝手に震える身体を抑えて、へたり込んでしまっていた。
晴の周囲には、いち早く気づいたアカリによって箱状に防護壁の魔法が貼られ、気温を完全には遮断できないものの、吹き荒れる冷風からは晴を守っていた。
その惨状の中心にいるクローディアは髪を止めているゴムを左手で乱暴に取り払った。感情の見えない冷淡な表情の中に、空色の瞳だけが怒りの色を灯していた。
「藤咲晴、現時刻を持って、第8支部長直属特殊部隊隊長の任を解任し、無断時空間渡航の実行犯であなたを逮捕します。心配は要りません。あなたには現在までの時空管理局員としての実績がありますから、情状酌量の余地はあるでしょう」
クローディアが事務的に、一息に言い切ると、魔力の渦はさらに状態を変えた。
冷気から熱気へ。
急激な速度の温度変化に耐えきれず、机や壁までもがミシミシと嫌な音を立て始めた。霜が徐々に溶け出し、水へ、蒸気へと変わっていく。
クローディアの周囲だけが、台風の目のように凪いでいた。
降ろされた銀の長髪はそよ風になびく程度に揺れるばかりで、肌には汗の一粒も浮かんでいない。透き通る青の瞳に鋭い眼光を宿し、晴だけを真っすぐ見つめている。
へたり込んでいたリサは戻ってきた体温に息をつく間もなく、際限なく上がっていく室温に汗を流していた。その周りには、不完全に行使された防御魔法の光の残滓が壁を作ろうとさまよっていた。
はっと気づき、リサは入り口のスライドドアを開けようとする。
しかしパネルに触れた瞬間、あまりの熱さに、声にならない悲鳴を喉に飲み込んで手を離してしまった。ドアは結局1ミリたりとも動いていなかった。
晴を守る無色の壁も無数のヒビが入り、崩壊しようとしていた。アカリの防御魔法は即席にしては決して拙いものではなかったが、クローディアの魔法に対するには圧倒的に強度が足りなかった。
晴とクローディアとの距離は10メートルにも満たない。
遮るものがなくなれば、至近距離での暴力的な熱量は晴の意識を刈り取るだけの威力を持っているだろう。
晴もそれに気づいていたが、ごく自然にクローディアに向けて足を踏み出す。
「何度も引き留められて面倒だと思っていたけれど、あっさりと解任されるのは案外悲しいものだね」
「水蒸気爆発でも起こすつもりかな?」
「違うと思う。あれはただ、制御しきれてないんだ。湯水のように魔力を流せば強くなるってものじゃないからね、魔法は」
「あ、それもクローディアがよく言ってたね」
晴とアカリの口調は、それまでと何ら変わりない暢気なものだった。
晴はアカリを抱いたまま、まるで危機感も悲しみも感じさせない様子で、飄々と歩き続ける。晴が足を進めるたび、熱風を浴びた防壁がパキパキと悲鳴を上げる。防壁が耐えていられる時間も、残り十数秒といったところだろう。
しかしここでクローディアを止めなければ、たとえ水蒸気爆発とまで行かなかったとしても、支部長室を含めたこの一画が完全に機能を停止してしまうことは間違いないだろう。リサがこの中で動けていることからもわかるように、魔力の風は人を殺めてしまわない程度の温度には留まっていたが、魔法技術を多く使用した機械類などに致命的なダメージを与えるのは明白だった。
晴はすぐにでもこの第8支部を離れなければならない身だが、家族のように育ち、姉のように慕うクローディアが過剰攻撃として責任を問われるような状況を放置するという考えはなかった。
加えて幸いにも、近づきさえすれば簡単に止められる方法が晴の手の中にある。
そんな中、晴の進路に僅かに掠めている物に気づき、アカリが声を上げた。
「危ないよ、晴」
「わかってる。でもこのままじゃ支部長室が無くなっちゃうでしょ」
「そうじゃなくて、前」
アカリがそう言ったすぐ後、防壁はパリンと致命的な音を立てて形を失った。
とどめを刺したのは、ただ進路上にあっただけの机の角だった。
「……アカリ、もうちょっと上手く言えなかった?」
「無理だね。ボクだってただの猫なんだ」
人間の言葉で話ができて、これだけの魔法が使える猫がどれほどいるのだろうか、と晴は純粋に疑問に思った。そういった事情には詳しくないが、もしかしたら時空管理局の斡旋する身障者補助動物も皆こんな感じなのだろうか。
割れると合わせて、瞬時に作りなおされた魔力の壁を感じながら、晴は思った。
こんな皮肉屋なやつばかりだと大変そうだ、と。
クローディアは防壁を破壊するだけでは効果がないと見て取ると、右の手のひらを晴に向けて突き出した。
手のひらの先には魔力の光が溢れ、部屋全体に広がっていた熱量が引かれるように集う。次第に小さな火球が連なるように現れ、数珠のような円を描いていく。回る火球のスピードは徐々に上がっていき、その半径が狭まっていく。
防壁を超えて伝わる高温に、晴の額から一筋の汗が流れ落ちた。
いつもはまっさらな白い肌も、うっすらと赤みを帯びていた。
「晴」
「わかってる」
短く言葉を交わすと、晴は一息に駆け出す。晴は心の中で四歩数えると、五歩目で地面を蹴る。
全身で飛び込むような突撃に、クローディアは思わず右手を上に逸らす。
晴の頭上で防壁が火球とぶつかり、燃えるような音を鳴らす。
音が聞こえると同時、晴はアカリを腕の中から解き放つ。
防壁が砕け散る。
火球は接触の衝撃によって、そのエネルギーを解放しようとしていた。
アカリはギリッと歯を食いしばる。
そしてクローディアに向かって高くジャンプして、その胸の中に飛び込んだ。
前足がクローディアに触れた瞬間、アカリの首元から強烈な光が放たれる。
至近で光を受けたクローディアはもちろん、うずくまって見ていたリサも、目を開けていられず、顔を背けた。
晴は全力で駆けた勢いを殺しきれず、うつ伏せに床に激突した。そのまま「痛い」と一言口にして脱力する。
光の中、アカリの魔力の首輪から一筋の線が伸びる。
それはクローディアの右手首に届くと輪を作った。輪はキュッと締まって固定され、数分前の晴とアカリのように、クローディアとアカリが魔力の線で繋がれた。
するとたちまち、周囲の魔法は全て霧のように消えてしまった。
魔法として現象化する前の魔力すら欠片も残っていない。
晴は魔力を感じなくなると、倒れ伏したまま両手を広げて周囲を探りながら、のそのそと移動する。左手がトンとクローディアの足に当たると、そのままポンポンと叩いた。
ビクッとクローディアの震えが左手に伝わる。
「ごめんなさい、クローディア」
晴の頭の中には、暴走するなんて珍しいねとか茶化す言葉も浮かんでいたけれど、結局口にしたのはこの一言だった。
閃光から回復したクローディアの瞳には、彼女を見上げるように顔だけを上げる晴の姿が映っていた。
鼻先は転んだ時に擦りむいたのか、少し赤くなっていた。一瞬とは言え火球の熱を浴びたため、噴き出した汗で髪の毛が頬に張り付いていた。
右膝の辺りを強く打ったのだろう。添えられた右手の隙間から、破れかかったズボンの生地が見えていた。
口元に張り付いていた微笑みは消え、唇は一筋に閉じられていた。
晴は体勢を変えようともぞもぞと動いているが、ごろんと仰向けに転がったところで諦めたのか、大の字になって大きなため息をついた。不自然な手足の動きは見えている部分以外にも傷があることを感じさせた。
クローディアは内心、今すぐ抱きしめて回復魔法をかけてあげたいという気持ちでいっぱいだった。晴が傷ついた原因が自分の魔法であるというのも拍車をかけていた。
しかし、その気持ちをぐっと抑え、クローディアは再度右手を晴にかざした。
晴の姉である前に、時空管理局員。
その支部長としての自覚は、親愛の情の前にも揺らぐことがなかった。
けれども意思に反して、一向に魔法が発動する気配はなかった。
「無駄だよ。もうしばらく、魔法は使えない。魔力は全部ボクが頂いたからね。晴ほどじゃないけど、なかなかの量だった。これならもう少し精度の高い魔法も使えそうだね」
いつの間にかアカリはクローディアと晴との間を遮るように立っていた。
アカリの言葉通り、クローディアの右手には一切の魔力も存在していなかった。
それなら、とクローディアは直接手を伸ばすが、アカリの防御魔法に弾かれる。
今回の魔法は先ほどの2倍は大きく、半球状に晴とアカリを包んでいた。
「支部長、これを!」
しばし遅れて回復したリサが、クローディアに向けて銃をホルスターごと放り投げた。クローディアはちらりと一瞬だけ目を向けるが、アカリから目を離さずに片手でそれを受け取った。
魔法式拳銃。
戦闘訓練を修了した時空管理局員の標準装備であり、事前に魔力を込めておくことにより、引き鉄を引くだけでの魔法の射出を可能にした銃である。通常は6つのシリンダーに嵌まった小さなプレートに一発分ずつの魔力が込められており、シリンダーとプレートは3色に色分けされている。「青」が相手を捕縛する魔法、「黄」が気絶させる魔法、「赤」が実弾と同じ威力の魔法弾を撃ち出す魔法。この3種類が2発ずつという構成である。
ただし、魔法の効果は込められた魔力の質によって上下する。同じ捕縛魔法でも、鋼鉄のロープできつく縛ったような効果を持つものもあれば、一瞬動きを止めただけという結果に終わるものもある。
プレートに魔力が込められているかどうか、というところまでは魔力を持つ者なら誰でもわかるが、その質まで見抜こうとすれば、プレートを外して直接目を凝らして見るなどする必要があった。
しかし、クローディアの魔力を感知する能力は常人のそれを超えていた。
加えて、リサの銃に魔力を込めたのは、クローディア自身であった。
元々自分の体内で生成した魔力を感知するのは、他の魔力と比べて遥かに容易いことである。
クローディアは素早く銃を取り出すと、一目で自分の魔力が込められているのを確認した。この「赤」の魔法ならば、目の前の防御魔法も簡単に貫ける。クローディアはそう確信した。
(「赤」と同時に「黄」の魔法を撃ち込めば、いくらアカリでも防壁の再構築が間に合わないはず)
クローディアは一瞬にして頭の中でシミュレーションを終えると、照準を防護壁とその先の床に合わせる。
連続して2度、引き鉄が引かれた。
直後。
キィンキィィィィン……と、甲高い音が二度、鳴り響いた。
魔法の射出に大きな銃声は存在しない。空気の漏れるような作動音があるだけである。晴とアカリを守る膜には傷一つついていない。
それは、クローディアの魔法が呆気なく弾かれた音だった。
クローディアは、驚きに眉をひそめた。
そしてアカリの魔法を見つめて目を凝らすと、フッと表情を緩めて銃をおろした。その眼は鋭さを失うと同時に緩やかに閉じられ、唇は僅かに上向きのカーブを描く。
「流石、クローディアの魔力は質が良くて扱いやすいね」
欠伸をしながら、アカリは言った。足を踏ん張ってぐぐーっと上体を反らし、口は大きく開き、目は細められていた。
「本当に嫌味な猫ですね。晴が気に入っていなければ、すぐにでも時空管理局から代わりを手配していたのですけれど、やはり無理やりにでも引き離しておくべきだったかしら」
クローディアは言いながらも、笑みを零していた。
先ほどまでの怒気も威圧も、どこかへ消えてしまったようだった。
「支部長!?」
リサは叫びながら駆け寄ろうとしたが、振り返ったクローディアに手で制される。クローディアは口の動きだけで何かを伝えていた。晴にはもとより、アカリの位置からその口元は見えなかった。
リサは神妙な面持ちで立ち止まる。
クローディアはそれを確認すると、再びアカリに向き直った。
「本人の許可を得ずに他人の魔力を吸収できるばかりか、それを転用できるだなんて知りませんでした。今まで隠していたのですね」
「いいや? 今までもずっと使っていたじゃないか。あれは全部晴の魔力だよ。ボク自身の魔力じゃない」
「……晴から魔力の供給を受けていることは知っていますが、一体どれだけ吸っているのですか」
「さあね。晴の魔力は垂れ流しだから、吸わなくても勝手に貯まっていくし」
「晴はまだ魔力の制御ができないのですか。アカリはいつも一緒に居るのですから、教えてあげてください。一度教われば、晴ならできるでしょう」
「それがね~。できないんだ。もちろん、ボクは何度も教えたよ? それでもどうしても体中から魔力があふれ出すのが止まらないのさ。魔力の量が多いっていうのも考えものだね。そのせいで制御もできずに、うまく魔法が使えないんだから。あ、そうそう。ボクが晴の魔力を吸収して、量が少なくなれば制御できるんじゃないか、って思うでしょ。これが、全然減らないんだ。吸収するたび新しく作られて、すぐいっぱいになる。すごいね~。もはや神秘だよ、神秘。こんな人間は、広い時空の中でも晴くらいなんじゃないかな。それに――」
「アカリ」
話し出すと止まらなくなるのは、アカリの悪い癖だった。
晴は平常時ならむしろ喜んで耳を傾けていたが、時と場合によってはそれを止めるのも晴だった。
晴の声はアカリに比べて随分と小さかったが、アカリはそれでピタリと止まった。そして、ここに来て初めてクローディアから目を離すと、仰向きに寝たままの晴に歩み寄っていった。
「アカリ。その魔力なら、回復魔法も使えるよね」
「聞くまでもないね」
アカリは晴の胸の辺りにそっと片足で触れた。
触れた箇所から淡い蒼炎のような光が立ち上り、晴の身体全体を包んでいく。青い光は傷ついた箇所へと重点的に集まっていき、数秒もしないうちに傷を消し去ると、次の箇所へ、また次の箇所へと移ろっている。
やがて光が収まると、晴の身体には傷も痛みも残っていなかった。
「……服の傷みまでは戻らないか」
晴は少し沈んだ声で呟いた。
晴の右手は右膝に触れている。スーツの破れかかった部分はそのままだった。新品同様に戻すなら、それこそ時間を遡るくらいしかないだろう。そんな魔法は、アカリやクローディアをもってしても荷が重い。
服の傷みと同じく、細かな汚れや汗で張り付いた白髪もそのままで、戦闘の跡は未だ体のあちこちに残っていた。
「でも、よかった」
晴はズボンの左ポケットの中身を確認して、安堵を零した。
晴は小さくため息をつくと、ちょっとした後悔を心にしまい、ゆっくりと体を持ち上げた。頬に張り付いた髪を手で振り払い、スーツの全体を適当にポンポンとはたく。髪は毛先が肩の辺りで所々跳ねており、スーツの汚れも大して落ちてはいなかったが、こういったことは気分の問題だろう。
「おいで、アカリ」
腕の中にアカリが収まると、晴は慎重に立ち上がった。
クローディアと向き合うと、晴の顔には微笑みが戻っていた。
「とりあえず、クローディア。時間を稼いでも無駄だよ。ここの人達は優秀だけど、この部屋にたどり着くのには短くても20分くらいかかるはずだから」
「……何をしたの」
「ほら、この建物の中で空間歪曲してたでしょ。ここに来る前にちょっと拝借して、この部屋の周りに置いたんだ。けっこう入り組んだ歪み方をしてたみたいだから、正攻法だと時間かかるよ、あれは」
「……ちょっと、何を言ってるのかわからないのだけれど」
晴の言葉に、クローディアは再び表情を消し、敬語すら忘れていた。
プライベートな時間ならともかく、支部長としてのクローディアが敬語を抜きに話すのは、珍しいというのを通り越して異常とさえ言える。晴が違法渡航をして現れた事から始まり、クローディアの想定を遥かに超えて変化する状況に、さしものクローディアも思考がパンクしそうになっていた。
しかし、リサは晴の言葉と共に駆け出していた。
「ハッ!」
鋭く息を吐き出す声と同じくして、鋼色の警棒が振り下ろされる。
どちらかと言えば文官よりのリサだが、戦闘訓練を終えた振り下ろしは、一般人なら目で追えない程の速度がある。しかしそれでも、クローディアの魔力を使って展開された防御魔法を貫くにはほど遠い。
警棒は青い膜に弾かれると、リサの手を離れ、からんからんと転がった。
晴は声と音で状況を察すると、微かな苦笑を浮かべた。
「相変わらず、ローウェル副支部長は職務に忠実ですね。しかし忠実すぎて時折、状況を顧みず突撃してしまうきらいがあります。レンフィールド支部長の考えすぎるところを、少しだけ貰って頂けるとバランスが取れそうなものですけれど」
「……藤咲部隊長、あなたは――」
「もう部隊長じゃありませんよ。今はただの、藤咲晴です」
晴に言われて初めて、リサはまだこの少年を時空管理局員だと思っていることに気づいた。先ほど支部長であるクローディアが解任したというのに。
リサは自分の意識に動揺した。
彼女は自分のことを、もっと冷徹な、何事にも動じない者だと思っていた。しかし今、目の前に居るのはもはや犯罪者だ、と思おうとしても、その慣れ親しんだ感覚を振り払うのに苦労していた。
晴は黙したリサの動揺を感じ取ると、右手でアカリの首を撫でた。
アカリの首輪から細い線が伸び、晴とアカリは再び魔力で繋がれる。線は管となって、晴の膨大な魔力をアカリへと流していた。
「すみません、副支部長。少しだけ時間を頂きます。……アカリ」
「ほいよー」
アカリは軽快な声とともに、無色の魔力を放出した。
間髪入れず、リサの身体に魔力の弾丸が弾けた。
リサはあまりの衝撃に意識を手放し、その体はそのままふらりと傾げる。
リサの足が地面を離れた瞬間、クローディアが間に合い、その手の中にリサの体を受け止めた。クローディアはそのままゆっくりとリサを床に横たえる。
晴はアカリを、撫でる指先でとんとんと軽く叩いた。
アカリは、わかってるって、というように前足で晴の腕を叩き返した。
アカリから今度は青色の魔力が放出され、先ほど晴に使った回復魔法に似た、少し色の薄い蒼の霧がリサの体を包んでいった。見た目に変化は無かったが、確かな治癒の効果がある。これで、強い衝撃による脳震盪でも後遺症は残らないだろう。
アカリはリサに魔法をかけ終わると、するりと晴の腕の中から抜け出した。そして魔力の防護膜だけは維持しながら、晴の足元で大きく欠伸をして丸くなった。
「ごめんね、アカリ。もう少しだから」
アカリは、別にいいよと、尻尾を晴の足に巻きつけるように擦り付けた。
「リサを外させたということは、少しは話してくれるの?」
クローディアはとても静かな声で言った。
クローディアの唇は真一文字に閉じられ、肩は少し震えていた。
意図的に抜かれた言葉は、言うまでもなく晴には伝わっていた。局員を辞める理由を、あるいは今の状況に至った原因を、話してくれるのか、と。
しかし晴は、「いいや」と否定の言葉を返した。
晴の左手は、ポケットに突っ込まれていた。
リサを気絶させた理由。それは、クローディアに、そのポケットの中にあるものを渡す為だった。
「話すつもりはあったんだよ。でも、どうにもここは風通しが良すぎるみたいだし、時間の余裕も少ないし。強いて一つ言うなら、こうした方がいいかなって、そう思ったからこうしたんだ」
「……どうしてかしら、晴。私には晴が前からこうなることを予想していたみたいに見えるわ。むしろこの状況自体、晴が予定した通りに進めているかのような――」
「クローディア」
晴は短く名前を呼び、クローディアを制した。
「クローディアはいつも僕のことを高く評価してくれるけど、買い被りだよ。さっきも言ったけど、支部長になってからのクローディアは、あれこれ深く考えすぎなんだ。『適度に浅く、広く、全体を感じ取ることも覚えなさい』でしょ?」
「それ、私が言ったの?」
「そうだよ」
「……晴は、よく覚えてるわね。もう何年も前のことなのに」
「覚えてるよ。クローディアに教わったことは全部、覚えてる」
晴は噛みしめるように言って、「当然でしょ?」と笑った。
クローディアは頬を赤く染めて、思わず顔をそらした。
彼女はもはや捕縛の意志を失い、完全に気が緩んでしまっていた。そんな時に、晴の美貌が満面の笑みを浮かべるのは刺激が強すぎた。
支部長となってから日々の仕事に追われ、ゆっくりと話す時間も無かったため、クローディアが晴の無邪気な笑顔を見るのは随分久しぶりのことだった。
晴がクローディアと暮らしていたのはもう4年も前のことになる。
当時、いや、今でも衰えは見せないが、晴の記憶力には天才少年という月並みな風評以上の凄まじさがあり、一度教わればどんな知識も身につけていった。
その中でも、クローディアに関しては特別、鮮明に記憶されていた。
クローディアは晴にとって姉代わりという以前に、晴が初めて接した異性でもあった。晴のその感情は憧憬に似た輝きで、今も晴の心の大きな部分を占めていたのだ。
「さて、クローディア。そろそろお別れだよ」
しかし、晴の声には愉快な色さえ浮かんでいた。
クローディアは何か言おうとして、口を噤んだ。
晴は唇の前に右手の人差し指を一本立てて、悪戯っぽく笑っていた。
晴が左手をポケットから出すと、そこには小さな箱が乗っていた。
箱は横幅が縦の倍ほどある長方形で、色はちょうど晴とクローディアの着るスーツのような薄い黒をしている。表面は右半分に白、左半分に青の細いラインが入っており、開け口の切れ目にはその逆の位置関係で、青と白の金属質の意匠が凝らされている。
晴はクローディアに見えるように、そっと箱を開いた。
クローディアはそれを目にし、思わず両手で口を押さえた。
そこには、一対のペアリングがあった。
小さな青の宝石はサファイア。透明度が高く、紫がかった青は、透き通った海のような瑞々しさをたたえている。リング自体は極めてシンプルに、綺麗にラウンドカットされた宝石を留めている4本の爪は細く、最低限に主張を抑えられている。
小さな無色の宝石はダイヤ。その透明な輝きには、一点のキズも曇りもない。同じくシンプルなリング、細い爪に、ラウンドカットの宝石が嵌まる。
晴は青に輝く指輪を手に取ると、自らの右手の薬指に嵌めた。
そして箱を閉じると、クローディアに向けて放り投げた。
アカリの防御魔法は、外から中への干渉を遮るが、中から外へ出ていく分には無関係である。箱はクローディアの位置から僅かに逸れた放物線を描いて、防護膜をすり抜ける。
クローディアは慌てて追い、辛うじてそれを受け止めた。
「クローディア、これは約束だからね」
晴は指輪を見せつけるように、右手をひらひらと揺らした。
クローディアは知らず、その手を目で追っていた。彼女は指輪の箱を受け取った体勢のまま、しばし硬直していた。しかしやがて、ふっと破顔すると、大きく息を吐き出した。
「まったくもう。晴はいつも、突拍子もないことを平気な顔でやるんだから……」
クローディアは箱から無色の煌めきを取り出すと、そのまま右手の薬指に嵌めた。指輪のサイズは寸分違わず、彼女の指にぴったりと嵌まった。
(私の指のサイズなんて、いつ測ったのよ)
クローディアはそう思うと、くすくすと笑みを漏らした。
なんだか余裕を感じる笑い声に、晴は少し不満を感じた。
「おかしいな、もっと動揺してくれると思ったんだけど」
「初めからずっと動揺しているわよ」
「そういうのじゃなくて」
晴は言うと、これ見よがしに口を尖らせた。
クローディアは、晴の子どもっぽい仕草に、さらにくすくすと笑った。
晴の絵画から抜け出してきたような美しい顔に、そんな仕草はかえって現実味をつけ足していた。晴がこれだけ感情のわかりやすい子じゃなければ、弟のようだなんて思えなかっただろう、とクローディアは思う。あるいは今、晴の望むような「動揺」をしていたかもしれない。
晴の姿は空気に溶けるように薄くなっていた。どこまでも白い髪や肌も、そこに残る戦闘の跡も、全てが徐々に色を失っていく。
晴の足元を尻尾で触れているアカリも、その白い体躯を透けて灰色の床が見えていた。
時空間渡航。
クローディアがこれを見るのは二度目だった。
通常の時空間渡航は、「渡航」と言う事からもわかる通り船を使う。それも合金製の、従来の概念で言うところの宇宙ロケットを超える強度の船である。
時空を渡るというのはそれだけの負荷がかかる行為であり、一定以上の強度を持つ「時空船」を使わなければ、安全な渡航は望めない。一回きりの渡航で良ければ質の悪い船での渡航も不可能ではないが、最悪、船が何もない時空上で崩壊し、乗員ごと消え去ってしまうこともある。
このことから、時空を越える為に必要な時空間転送装置は、時空管理局が発足して以来、時空船の製造に対応する完全受注生産体制が組まれるようになった。そうして今や時空船を使った時空間渡航は安全性が高まり、全て時空管理局の管理下ではあるものの、観光目的でさえ行われている。
クローディアも職業柄、時空船を利用して多くの世界を股にかけていた。
時空船を使った時空間渡航ならば、そう珍しいことではなかった。
しかし、晴の時空間渡航は常識を覆していた。
もはや渡航ではなく、転移と呼ぶべきそれは、魔法ですらない。
時空船や時空間転送装置は言わずもがな、魔力すらも必要としていなかった。
ただその身一つで時空を越える、魔法を超えた奇跡。
「まあいっか。クローディア。次に会う時は、絶対にびっくりさせるから」
「くすくす。次に会う時は、晴を捕まえる時だと思うわよ?」
「いいや、それより先に迎えに来るよ」
「それじゃあ、どちらが先か――」
「「競争ね」」
クローディアは子どもに戻ったように笑い――
晴は時空の先に消えゆく中で、いつも通りに微笑んでいた。
晴とアカリが完全に消え去った後も、クローディアはしばらくその場所を見つめていた。その瞳に憂いはなく、むしろ少し前よりも強い意志を宿している。右手の薬指では、応えるようにダイヤが煌めいていた。
クローディアが視線を外すと、ドアの先に局員たちの声が聞こえた。割れたガラスの先には、魔法で飛んでくる十数名の姿も見える。どうやら、晴たちが消えると同時に、部屋を包んでいた空間歪曲も消えたらしい。
床で意識を失っていたリサも、音に反応してピクリと動いた。
室内には破れた書類や割れたガラスの残骸がそこかしこに散らばっている。調度品は歪んだり変色したりと、見るからにもう使い物にならない。直接の破壊や爆発は免れたものの、机の上の情報端末や入口のドアの横のパネル等、魔法技術を使った機器も、無事というのは望み薄だろう。
「さて、どうごまかしたものでしょうか」
クローディアは自らの魔法が生み出した惨状を前に、楽しげに呟いた。




