歌う小鳥は子猫を拾う
グランドールという名の国がある。金剛石を中心とした宝石の生産地として有名なこの国は、財政的にも豊かで人々の暮らしにも活気がある。
山の多い土地柄、緑も多く水の流れも清らかだ。鉱害を防ぐために浄水装置などの設備が義務づけられ、すべての鉱山が国に厳しく管理されている。
欲に目が眩むような為政者が生まれないよう、執政は王の独裁とはなり得ず、血筋だけでなく民間の秀才を積極的に取り入れている。その姿勢も民衆の受けが良いもので、他国で蔑ろにされる優秀な平民が流れてくることも多かった。
遙か昔、長く争いを続けていたこの国を統一した始祖は英雄王と讃えられ、今なお吟遊詩人の御伽話に登場しては老若男女みなの人気を得ており、緑を大事にするという指針はこの英雄王の意向であるという。
英雄王の時代にはまだ沢山の部族と人種が存在していたそうだが、長くつづく平和で血はならされ、馴染めなかった者たちは国の外へと流れていった。
そんな国にある、王都へと向かういくつか前の街で、その日いつもと違うものが道に落ちていた。
数日降り続いた雨が晴れた早朝。久しぶりの光が降る路地の片隅で、一つの影がかすかに動く。
呼び出されて外の出ていた帰り道、それに気付いて彼女が近寄ると、影には手があり足があり頭が付いていた。薄汚れた頬を朝日が照らしている。
乱れた髪が目元を隠しているが、まだ少年と言っていい年齢だと顔の輪郭だけで分かった。
「おーい、死んでいるの? ……ああ、まだ生きているね」
雨に濡れ、泥に汚れ、打ち捨てられた襤褸のような有様で、しかしその少年は途切れそうな息を続けていた。
いまにも呼吸が止まってしまうのではないかという有り様だが、人の気配を感じたのかわずかに身じろぐ。
髪が散って覗いた瞼がゆっくりと開いた。
現れた瞳は綺麗な二色で、強く瞬いてこちらに訴えかけてきた。
──まだ死にたくない、死ねない、生きるのだと。
***
「ユージーン。ごめん、開けてー」
背負っているもののせいで扉を開けることの出来ないヴィアは、部屋の中に居るはずの連れに向かって声を掛けた。
朝早いと言っても人々の寝静まっている時間はとうに過ぎているので、遠慮無く声を張ることが出来る。
部屋の中から物音がして連れが近づいてきているのを感じながら、ヴィアは既に限界を超えそうな体をぷるぷると震わせていた。
「こんな朝から何事ですか? ヴィア」
扉を開けて出てきたのは、三十前後の男だ。がっしりとした体躯は厳めしいが、そこに乗っている顔は柔和で、どこか人の良さが滲んでいる。
まだ起きたばかりなのか寝癖が付いた髪を押さえながら、ユージーンは少女が背負っているものに目を瞬かせた。
ヴィアは連れを見上げながら照れたように笑う。
「拾って来ちゃった」
そう言ったのを最後に、ヴィアは背に掛かる重さに耐えかねて力尽きた。
背中の少年と一緒に床に沈んだ彼女の上に、助けることもなく「あ、潰れた」と薄情なユージーンの声が落ちた。
背負っていた少年をユージーンの力を借りて寝台に寝かせると、ヴィアは肩をぐりぐり回しながら少年を覗き込んだ。
改めて顔を見てみると、随分と整っていることに驚く。
髪色や顔立ちに出身が分かるような特徴は無いが、鳶色の髪はさらさらで、目鼻立ちはくっきりとしている。引き結ばれた唇は頑固そうだ。
今は閉ざされている瞳がとても綺麗だったことを思い出す。
着ている物は泥まみれのうえ、あちこち破けており無残な有様だが、よく見ると元の質はかなり良さそうである。華奢な見た目よりは全体的に筋肉が付いていそうで、ある程度鍛えているのかも知れない。持って居た短剣は質素だが使い込まれているようなので、一応没収してある。
泥だらけの手袋を外してやったヴィアは、そこで「おや」と目を瞬かせた。
節ばりの出始めた指に指輪が填められている。
人差し指に填められたその指輪は金で、中心には小さな緑の石が据えられていた。どう安く見積もっても、これ一つで普通の一家が十年は遊んで暮らせそうな代物だ。
ヴィアは少し悩んでから、少年の指から指輪を抜き取って少年の手と指輪を清潔な布で拭ってやった。
手よりも指輪を拭くのが慎重になったのは仕方ないだろう。綺麗になったそれをもともとの指に填めてやる。
そうしてヴィアが少年を見分している間に、ユージーンが着替えの用意や薬の準備を終えていた。
「着替えはわたしのを使ったら? 対して体格変わらないよ」
男女の違いはあれど、十六歳のヴィアと同年代に見える少年はそれほど体格差は無い。
そうでなければヴィアが彼をここまで背負ってくるのは無理だっただろう。
「流石に女の子の服を着せる訳にはいきませんよ。ヴィアは食堂で何か胃に優しい物を貰ってきて下さい」
「はーい」
傷の治療をして着替えさせるのだろうと察して、ヴィアは素直に部屋を出た。もともとこの宿の人に話があったので丁度良い。
裾の短いマント型のフードを被り、朝の騒がしさを感じさせる食堂に向かって歩き出す。
ヴィア達が泊まっているこの宿は、街の規模から考えるとかなり大きい方だ。
それはこの街が王都へ向かう街道のすぐ側にあることで、旅人が多く利用するからだろう。街にはこの宿の他にも立派な宿が何軒か建っていた。
柔らかな日の差す窓の向こうに、朝の水くみを言いつけられた子供たちが桶を抱えて駆けている。いつもは競うように駆けていく彼らだが、さすがに今日ばかりは溌剌とした気配はない。
その背中を見えなくなるまで見送って、ヴィアは食堂への扉を開いた。
昼夜には街の食堂としても開けられる為、中は軽く三十人は座れるくらい広い。大きさの違う円卓が程よい距離を空けて置かれ、簡素だが丈夫そうな椅子が囲っている。
食堂の中には既にまばらに人が居て朝食を食べている。朝に利用出来るのは宿泊客だけなので、いま居るのは二階に泊まっている客だろう。
一階にある三つの客室の内、二つはヴィアとユージーンが使っており、残るひとつは空室だった。
この宿には宿泊客の為に、食堂の大きな扉を開けずに入れる入り口がある。
二階に上がる階段の横を通らねばならないが、ヴィアが誰かに見咎められることなく少年を連れてこられたのは、一階に部屋を取っていたお陰だろう。
むしろ二階だった場合、背負って上れた自信はない。
他の客に会釈をしながら奥にある厨房に近づいたヴィアは、その中で忙しそうに立ち回っている女将を見つけて声を掛けた。
「すみませーん。お粥か何か作って欲しいんですけど」
ヴィアの声は澄んでいて高い。
よく通る声にすぐに女将が気付いて近づいてきた。
「おはよう、ヴィアちゃん。お腹でも悪くしたかい。昨夜はよく冷えたからね」
恰幅の良い女将は、小さな目を心配そうに細めてヴィアを見下ろしてくる。
女将はとても明るく元気で、一時の客でしかないヴィアの事もよく気に掛けてくれる。主人のほうは逆に寡黙で物静かだが、落ち着く宿の雰囲気そのままの人だ。
夫婦揃って人が良く、街の人間にも旅の者にも好かれている。
そんな女将に勘違いで無駄な心配をさせてしまい、ヴィアは急いで首を振った。
「おはようございます。体調はいたって良好だよ。ああ女将、宿泊もう一人追加しても良いかな。部屋はユージーンと一緒で良いから」
「そりゃあ、構わないけどね」
「良かった、ありがとう。普通のご飯は二人分お願いね、部屋で食べるから。それからね、女将に少し聞きたいことがあるのだけれど」
いったい誰が来たのかと聞かれる前に、さっさと話題を変える。流石に人の良い女将にも、行き倒れを拾ったとは言えない。
「昨日、この街で悲しい事件があったでしょう」
「ヴィアちゃん、知ってたのかい」
「わたしの仕事があれだからね。今朝呼ばれて、親御さんがもし良かったらって」
「ああ、あの子はヴィアちゃんの声が好きだったからね。うちにご飯を食べに来る度にヴィアちゃんに強請ってさ。……わたしからもお願いするよ」
「うん。だから女将にあの子の話を聞きたくて」
涙目の女将にハンカチを渡すと、女将はそれで鼻をかんで「勿論」と請け負ってくれた。
そうして暫く話をしている内に、他の宿泊客が食堂に姿を現し始めた。
少し忙しくなるのか、女将が厨房を振り返る。
「ありがとう、女将。もう十分だよ。他の町の人にも色々聞いてみるね」
「そうしておくれ。ああ、ちょうど食事が出来たみたいだよ」
出来上がった料理をワゴンに乗せて女将が渡してくれる。
ヴィアはお礼を言って、まだ小さく鼻を啜る女将と別れた。
ワゴンを押して部屋に戻ると、無事に着替えが終わったようで、清潔になった少年が寝台に寝かされていた。
「ご飯もらって来たよ。冷めないうちに目を覚ますと良いんだけどね」
少年は腕に包帯を、擦りむいていたのか頬にはガーゼが張られている。
「細かな傷は多かったですが、どれも浅いものでしたからね。じきに起きるでしょう」
心配ないと言うユージーンに頷いて、ヴィアはワゴンの上のサンドイッチを摘まんだ。瑞々しい野菜と甘辛く味付けされた鶏肉が、絶妙な加減で口の中で馴染む。
ヴィアはあっという間に一つを食べ終わると、もう一つを手に取って寝台に腰掛けた。
覗き込んだ少年の顔色は、確かに悪くはない。ただこの年頃を思うと、少し頬が痩けているだろうか。
(ご飯、あんまり食べてないのかな)
お腹が空いているならば、食事の匂いに誘われて目を覚ますだろう。
「それよりもヴィア。一体この方はどこのどなたなんですか?」
「さぁ。宿の裏に転がってたんだよ」
「犬猫じゃないんですから、安易に拾って来ちゃ駄目でしょう」
「じゃあ捨ててくる? 薄情だなー」
「そうではなくて……」
説教を始めそうなユージーンをさらりと躱して、ヴィアは二個目のサンドイッチにかぶりついた。
「お行儀が悪いですよ。ヴィア」
「あ、これチーズが入ってる」
聞いていないヴィアにユージーンが溜め息をついた時、横からかすかな呻き声が上がった。
見ると少年の眉間に皺が寄って、青い瞼がゆっくりと持ち上がっていく。
「……う」
「おはよう、少年。辛い所はない?」
「……だれ?」
ヴィアが声を掛けると、天井を彷徨っていた少年の焦点が、枕元に座っていた彼女に合う。
まだ頭が覚醒しないのか、覚束ない声で誰何された。
名乗ろうと口を開いたヴィアは、しかし盛大な腹の虫の音に邪魔をされた。発信源は言わずと知れよう。少年も恥ずかしそうに顔を赤らめる。
取り敢えずヴィアは、少年の口に持って居たサンドイッチを突っ込んだ。