備中への帰還と親父殿の死
出雲 毛利軍本陣
俺は大殿からいろいろ教えて貰ったあと、両川と話をした。
元春「今日も父と話をしていたが」
元親「尼子を潰した後のことについて」
隆景は笑みを浮かべて考えている。
『元親殿の頭の中には、既に帰趨が見えているようだな、父の命数まで測ってる可能性もある。』
元春は更に続けて「後か。お主は誰が攻めてくると考えている」
元親は東の方角を指し、一言尾張と。
元春と隆景はため息をついた。
続けて「尾張が攻めてくるまでに準備をしないといけないかと。尼子義久を降伏させたら、尼子の旧臣を全て召し抱えて下され。全て放置したら尼子の旧臣達は反旗をひるがえすかと。何故か?。
私の所にいる小西隆佐殿が教えてくれました。尼子にはもう一人、一族が京におるからです。
大殿の謀計にはまり、尼子晴久殿に潰された、新宮党の誠久の子が。
彼を引っ張り出す可能性がある。
尾張が後ろについたらその残党が結びつき、更に厄介なことになるかもしれません」
隆景は頷き、「もし、我々の地に攻めてくるのは誰が来るかな」
元親「智将謀将が多い気風の強い土地のため、臨機応変の将が来るかと、可能性としてはまだわからない」
二人はため息をつき、「見事なものよ。元親殿。儂等も同じ意見よ。それがいつになるか、そう遠い未来ではあるまい。それと備中はお主がいるから安心できる。問題は備前よ。あの宇喜多直家がおる。あれは油断ならぬ、下手したら、尾張を呼び込む」
元親は頷き「もう一つ厄介なことは足利将軍家の御教書が来たら、どう対応するか、近い将来、将軍家は恐らく尾張に追われる。その際、我々を頼られる可能性が高い。その時には大御所は既にいないかもしれない。後は本願寺も同じく頼るだろう」
三人とも憂鬱な思いに囚われた。
看過出来ぬため、隆景は『早い内に尾張に使者を送るのも悪くない、将軍家が落ちてきたら、九州に落ちて貰うか、父にも言っておこう。尾張の天下を認めて、領土保全で行こう、無理難題言ってくるかもしれんが、本願寺からの援軍を求めて来る可能性もある。安芸には門徒も多いし』
宿題の多さを見て暗い雰囲気に陥った。
二人に別れを告げて陣に戻り、親父から退陣することを聞かされた。
次の日、親父と俺は毛利本陣に赴き、備中に帰還することを大御所に告げた。
大御所は喜んで帰還を許した。
その夜、俺は大御所に呼ばれて、あの言葉をかけて貰った。
「元親殿、お主と会うのはもう最後かもしれん。
遺言として儂から最期にこの言葉を覚えておくと良い。『算(謀)多きは勝ち、少なきは負ける』」と、それとなく、俺を心配しているように思えてならなかった。
明くる日、親父と俺、景行は、兵二千とお土産として貰った銀を持って備中に戻って行った。
小早川隆景の見送りをうけて。
備中の国 鶴首城 三村 元親
備中に帰り、しばらくして毛利から輿入れしてきた。俺が欲しかった石州瓦を作る技術者とともに。
『宍戸氏からか。やはり、そうなったか。まあ覚悟してたから、とりあえずは毛利の援軍は受けられるが、宇喜多はどう出るか。手を出さない可能性があるが、親父殿が宇喜多に
手を出す。あるいは毛利に仲介を頼むこともあるかもしれん。
はたまた織田を呼び込むか、まあ四方に敵を持ってる段階だから、織田はまだ無理だ。織田の包囲網は破綻するが、中国地方に兵を出すのは後もう少し先だ。それまでにまだ人材を集めておかないとな。いるのは剣の使い手や切り込み役ってところだな。待て、一人いたか。タイミング的には京か、肥後か、わからんが、上泉の弟子の一人、相良に使えている丸目蔵人いや長恵か、下手な腕自慢などの大会を開いたら刺客が来かねないか。
どうしたものか、彼は指揮官としては花が開かなかったが、指南役としては十分だ。兵農分離の時代になる。
農家の次男や三男を集めて訓練させていく必要がある。全登がやってもよいが、指揮官としてやって貰わないとならないから、無理だろうし、苦労をかけてしまう。小西隆佐の一族を文官として、財政、経営、備中の運営をやって貰わないとならないだろう。
人材が欲しい、尼子の旧臣の引き取り出来たら、楽だろうけど。そう言えば石州瓦を作る技術者がきてたな、ありがたいな。
あれを試してみようか。井倉に行って石灰岩を得て、細かくし、粉にして水に溶かす。
セメントかコンクリートができる。今やっておこうか。』
しかし、考え事をしている俺に妻が心配していることに気づいてなかった。
同部屋 宍戸氏
毛利のお祖父様の命で備中の三村家へ輿入れして来ました。夫は深く考え込んでいます。
お祖父様や父上は夫のことを高く評価しています。
夫のことは噂で聞いたことはありましたが、
見た目は優しく、平凡な方にしか見えないけど。今はそっとしておきましょうか。
備中の国 鶴首城 三村元親
五年経ち、親父殿は備前、美作へ宇喜多領へ侵攻を開始して行った。俺は宍戸氏との間に子を為したが、それでも不安を拭い去ることが出来なかった。
一応、腕自慢大会を行うと目的の丸目蔵人は現れ、優勝したが、仕官しないか尋ねた、残念ながら断られた。
ただ彼に、困ったことがあれば備中へ来て欲しいという言葉をかけておいた。
史実の通りにならないように、油断なく、やってきたが来るべきときが来てしまった。
だが、暗殺ではなく、流れ矢だった。
しかも宇喜多直家の三家老の一人花房正幸だった。弓の名手ともなれば、どうにもならぬ。復仇戦を挑む声が上がったが、俺は黙らせた。
備中のまだ少し残ってる尼子方の豪族が生き返る可能性があるのと、親父という箍が外れたらどうなるかわからないためだ。
案の定、月山富田城を毛利に囲まれている尼子が現状を打破するため、尼子の将、秋上綱平が備中へ向かって、伯耆から1万に近い兵で南下してきた。俺は親父が出陣する前に清水宗治に備中高松城の城主に任命する許可を貰ってたため、親父が亡くなる前に赴任させ、宇喜多の侵攻に備えさせておいた。
作って増産させてた火縄を千梃持たせて。
そして賀茂川にも伯父の親成を西美作には全登を派遣させて、宇喜多の侵攻に備えさせ、俺は五千の兵で尼子を新見で迎え撃つことにした。二千挺の火縄と千梃の短筒を準備し、もちろん馬防柵を作り、四段の構えにし、狭い道と急な断崖のあるところで待ち構えた。
西国の長篠の合戦を再現することになる。