ある日の<俺> 2022年6月7日。 ヤクの売人?!
今年のこの日はこんな天気だったんだな、と思いながら読んでやってください……。
風はひんやり、空は灰色。
六月入って数日は暑いくらいだったのに、日曜から妙に冷えて、月曜と、火曜日の今日はちょっと寒いくらい。動くとそうでもないんだけど……やっぱり冷える。だからか、さっきからじんわり腹の具合が良くないような、そうでないような……。
無意識に腹を撫でながら、次の仕事の前に、一旦帰ってトイレに座っておくべきか、と思案しながら歩いていると。
「ちょっと、ちょっと姐さん……!」
今、まさに曲がろうとした角の向こうから、妙に潜めた声が。
「姐さん、ほら、こっち!」
あの声は……望月のご隠居かな? ああ、そうだ、この路地は、ちょうど望月さんちの生垣に沿ってるんだった。
「おや、ご隠居」
応える女性の声は、ちょっとハスキーだけど艶がある。なんだか、時代劇に出てくるような、婀娜な姐さんを思い浮かべてしまった。洗い髪を簪でまとめただけで、気怠げに煙管を使っている系の。
「例のブツ、今日はあるかい?」
「ふふ、ヤクならたぁんとございますとも。ほうら──」
え、ヤク?
「それじゃないヤクだよ……! わかってるくせに」
「まあ、ご隠居。アタシはただの末端の売人なんですよぉ。アタシの一存ではどうにもこうにも」
ま、末端の売人? まさか……こんな住宅街のど真ん中で麻薬の密売?
「そこを何とか」
縋るようなご隠居の声。
「ふふ……」
嬲るような含み笑いの後、女の声がさらに潜められる。
「──実は今朝、若いもんがひとり、トんじゃいましてねぇ」
「え? そりゃまたどうして?」
「さあ。何かしくじったらしい、という噂ですが……こういうのは詮索しないのが吉、ってもんで」
アタシだって自分の身が可愛いんですよ、と女は嗤う。
「一日一本、ヤクをキメなきゃ身体がシャキッとしない、なんてアタシにはありがたいお客様だったんですが──どうでしょう、そいつに卸すぶんを今回はご隠居に、特別にご融通いたしましょうか?」
「そいつはありがたい!」
歓喜の声。
「姐さんのお蔭で、家に居ながらにして極上品のヤクを手に入れられるよ」
「他のヤクも極上品でございますよ。ふふふ」
「あ……だけど、横流しして大丈夫なのかい?」
「ふふ、お気になさらず。ご隠居とアタシの仲じゃないですかぁ。そのかわり──」
そのかわり、何なんだ。もう隠れてなんか聞いていられない! 俺は路地の角から飛び出した。
「も、望月さん! 違法薬物の売買はいけません……よ……」
言葉が、尻すぼみになっていく。だって、望月家の玄関側の生垣の前で会話していたのは──。
「え? 何でも屋さん?」
俺のいきなりの登場に驚いて、きょとん、とした顔の望月のご隠居と。
「今日も一日、お健やかにお過ごしになってく、ださ……?」
言い差した言葉を途中で遮られて、ポカンとした顔のヤク〇トレディ。レディはあの、いつ、どこで見てもわかる特徴的な制服を着こんでるから、すぐわかる。そばには、商品を満載した大きなバッグを積んだ、ロゴ入りのレディ専用バイク。
「……」
混乱した俺が口をパクパクさせていると、状況を理解したらしいレディが、くすくすと笑った。
「たぶん、<ブツ>とか、<ヤクの売人>とかいう言葉でびっくりしちゃったんですね」
あ、そうか、とご隠居も頭を掻く。
「いや、これね。この人と俺のお約束のやりとりなんだよ。お遊びというか」
「今日はちょっと悪乗りしちゃったみたい。驚かせちゃってごめんなさいね、何でも屋さん」
望月さんに聞いていたよりずっと男前ねぇ、なんてお愛想言ってくれるレディは、人の好さそうなふくよかな女の人で、とうてい裏社会の住人には見えない。あの艶やかな声も、今は単にこの女性を魅力的にする彩りになっているだけだ。
「いや、あはは。すみません。俺、勘違いしちゃって」
は、恥ずかしい……!
「紛らわしい会話してた俺らが悪いんだから。確かに声だけだと、相当アヤシイよねぇ。見ればただの小芝居ってわかると思うんだけど、悪かったね」
望月さんもちょっと恥ずかしそうに、でも事情を話してくれた。
「ヤク〇トって、道行くレディに声掛けても、一本から売ってくれるっていうから、つい甘えちゃってねぇ。コレ甘いから毎日飲むのはキツくて。あんまりいい客じゃないから申しわけなく思ってるんだけど、姿を見かけるとついつい」
いつも悪いねぇ、と頭を下げるのに、レディは、そんなことないですよ、と同じように頭を下げて、にこにこと語る。
「ちょうどルートに入ってますし、声を掛けていただけるのはありがたいんです。ただ、ご希望の商品が品薄で、ご不自由をお掛けするのが申しわけなくて……。今日はたまたまキャンセルが出たものですから、望月さんにご購入いただけると思うとうれしくて、つい悪乗りを」
「いやあ、ヤク〇ト1000は滅多に手に入らないんだよ。レディの専売品なんだよね?」
「はい。私どもが自信を持ってお届けできる商品なんですが、ちょっとしたことで人気が出まして。今はご契約のお客様にしかお求めいただけなくなったんです。少し前までは多めに持って出て、時々の方にもご購入いただけたんですが……」
「それで、俺にも勧めてくれたんだよね、ヤク〇ト1000。普通のヤク〇トと飲み比べてみたりしてたんだけど、俺の場合は買っても週に一、二回くらいだから。1000のほうがいいかな? と思い始めた頃には、余裕がなくなってたんだよねぇ」
本当にご不便をお掛けして、とヤク〇トのスタッフとして詫びるレディに、望月さんは首を振る。
「姐さんに責任はないよ。それこそ、末端の売人だもの。需要と供給のバランスを考えるのは上の仕事だろう? キャンセル分を回してくれるだけで充分ありがたいよ。何でも屋さんだってそう思うだろう?」
もちろん、と俺は何度もうなずいた。あなたは悪くないよ、素敵な声のヤク〇トレディ!
「こっちのヤクなら、ホント、大歓迎ですよ! 実は俺、ちょうどいま、腹の具合が微妙で。せっかくだから、俺も買っちゃおうかな、ヤク。普通のならあるんですよね?」
「はい。お試しください」
にっこり笑ってヤク〇トレディ、バッグの中からあの小さな容器を取り出す。代金と引き換えに受け取って、柔らかい銀紙の封をめくる。俺、ストローはいらない派。一気に飲むと、馴染みのある甘味──子供の頃、今は亡き弟と一緒に、牛乳を混ぜてのばしたり、凍らせて食べたりした思い出が甦ったりして。
「純度百パーセントの、極上のヤクです!」
そう言うと、望月さんとレディはウケてくれた。──ちょうど通り掛かったジョギングの人が、びくっとこっちを見たのがわかったけど、気にしない。だってその人、すぐプッと吹き出して、遠ざかる肩が震えてたから。
「──実は今朝、若いもんがひとり、トんじゃいましてねぇ」
→ヤク〇ト1000愛飲者の若手社員さんが、突然の出張命令とかで朝から居なかった。