ある日の<俺> 2021年4月10日。 みどりのさくら 後編
「だけど土が合わなかったのか、御衣黄だけが植えてしばらくは花付きが悪くてね。珍しい種類だから、カミさんが楽しみにしてたんだけど……」
「今は樹勢もいいですね。どの木にも花がたくさん咲いてるし」
本当に花盛りなんだよ。下から上まで、けっこう大きめの緑の花がいっぱいついてる。
「これって、花期が八重桜とちょうど同じ頃なんですねぇ」
「うん、そうだね。咲き始めは緑色だけど、だんだん中心部に赤みが差してきて、薄緑と薄紅のグラデーションみたいになる。そして全体が薄紅に染まった頃、散るんだよ──」
最後のほうは独り言のようにして、広瀬さんは俺に背中を向けて御衣黄を見上げる。
「──カミさんとは見合い結婚でね。厳しい家に育ったせいか、あの人はいつもきっちりしてて、きっちりしすぎてて……でも今は、私を見ると頬染めて、まるで少女のようなんだ。あれがあの人の本質だったのかなぁ……」
もっと甘えてくれてよかったのにな、とぽつんと呟いた。
「今年こそ、ここに連れてきてやりたかったよ。満開の御衣黄を、見せてやりたかった」
「……」
背は高いけど、痩せた背中。奥さんとともに歩いてきたであろう、幾年月もの歳月を感じさせる。
「──写真。写真撮りましょうよ。今日のこの花の姿。あ、スマホお持ちですよね?」
「持ってはいるけど、使い方がよくわからなくてね」
ゆっくりと振り返った広野さんは、困った顔で電話とメールだけは覚えたけど、と苦笑する。
「俺が撮らせていただきます! 写真撮るの、案外簡単なんですよ。ガラケーと大して変わらないし」
俺、けっこう上手なんですよ、とアピールすると、そうかい、と黒いカバーをつけたスマホを貸してくれた。目の前で、ここ、このカメラのマークを押して、と説明しながら、満開の緑を撮影していく。
「広野さんも映りましょうよ、花といっしょに」
「……写真、苦手なんだ」
「いいじゃないですか。ちゃんと男前に撮りますから」
せっかくだし、奥様に見せてさしあげてください、と言うと、黙って俺の指示する位置に立ってくれる。でも、カメラ向けたとたん、仏頂面。真面目顔というか、緊張しちゃうのかなぁ。うーん、もうちょっとこう、くだけた感じにならないかなぁ──。
「じゃあ、撮りますよ……あっ、カラスが桜餅食べてる!」
驚いた顔を作って広野さんの斜め向こうを指さすと、え? という表情でそっちを見る。素の表情を、パシャッと。
「あはは。今のは冗談です。いいお顔が撮れましたよ」
「何だい、何でも屋さんは。一瞬本気にしたよ」
言いながら、こっちを見て苦笑いする広野さん。そんな顔ももちろん撮る。
「すみません。でも、自然な表情が撮りたくて。──ねえねえ、広野さん。俺、緑色の桜を見てたらヨモギ餅食べたくなりました」
草餅でもいいんですけど、なんて続けたら、ツボにはまったのか大爆笑。笑顔を撮る。パシャパシャと撮る。緑の花陰、葉陰の中で、青白かった頬に赤みが差し、なんだか少年みたい。
「いい画がたくさん撮れましたよ!」
「はあ、もう……笑い過ぎて腹が痛い。かなわないなぁ」
ちょっと疲れて、気が抜けたような広野さんにスマホを返しながら、すみません、と謝っておく。
「えっとね、今撮った写真を見るには、ここをこうして……たしか、そうそう。このマークを選ぶんですよ。ほら、ね」
「あ──そうか、こんなふうになってるんだね。それにしても、たくさん撮ってくれたんだね」
満開の御衣黄の、時を留めて画像データがみどりに染まる。
「あはは。つい張り切ってしまって。ほら、これなんか広野さん、いい感じで映ってますよ」
選択して、拡大すると大きな口を開けて笑っている広野さん。我ながら、いい写真が撮れた。
「今はいろいろ便利になって、コンビニの複合機で写真も印刷できるんですよ。よかったら、何枚か印刷しませんか? 次回の面会のときにお見せしたら、奥様も喜ばれるかなぁ、なんて思ったんですけど……」
差し出がましいかな、と思いつつ、頑張って提案してみる。
「スマホから? そんなことができるのかね?」
「はい! お客様のご依頼で、やったことあるんですよ。けっこうきれいに印刷できました」
「そうか……なら、頼んでみようかな」
スマホの画面は小さくて、たぶんカミさんには見にくいだろうから、とどこか寂しそうに言う。
「普通の写真なら、見てくれるかもな」
「クリアファイルに挟んだら、写真もヨレたりしないし、そういうの何枚か作って、枕元に置いてもらえば──」
「あの人も、満開の御衣黄に囲まれる、か。そうだな……そうだね……」
広野さんは小さく呟いた。
そして、微笑む。
「ありがとう、何でも屋さん。次の面会日が楽しみになったよ」
「いえ! 俺のほうこそ……ありがとう、ございます……」
俺の拙い気遣いを、気遣ってくれた。
大きい、人だ。
「ありがとうございます、連れてきてくださって。緑色の桜、本当にびっくりして、きれいで。俺も、娘に見せたいな! ガラケーですけど、俺ので撮っていただけませんか?」
そう言って携帯のカメラを起動し、ここ押してください、とお願いする。
「えっと、じゃあ──」
広野さん、にやっと笑って。
「何でも屋さんの後ろに、草餅をくわえたカラスが!」
一瞬目を瞠り。そして俺は吹き出した。
同時に、パシャっとカメラの音。
──空は青空 花はみどりに 風光る