ある日の<俺> 2020年6月21日。 令和二年、夏至
本日の夕暮れは、ちょっと不思議な薄むらさき色。
雲を染め、空を染め、合い間に見える水色は、琥珀硝子を通して見たように黄味がかっている。
梅雨の中日か、今日はだいたい晴れだった。それほど気温も上がらず、湿度も低めで過ごしやすい。外仕事日和で、ペンキ塗りが捗った。あれは下処理に時間がかかるから、晴れてくれててありがたかった。あとは買い物代行や、留守宅見回り、犬の散歩──。
「なあ、伝さん」
「おうん?」
「今年もさあ、もうそろそろ半分が過ぎるよ。早いと思わないか?」
「おん!」
吉井さんちのグレートデンの伝さんと歩く、いつもの散歩コース。
「今頃はまだいいけど、梅雨が明けたら暑くなるんだろうなぁ」
「おん」
「そしたら、こんな時間に散歩できないよなぁ。伝さん、肉球やけどしちゃう」
「おぅぅん」
「真夏のアスファルトは、フライパンみたいだもんな」
「おんおん!」
そんなふうに、いつもの会話っぽいコミュニケーションを楽しんでいたら。
「わ、なんだ!」
「うおん!」
角を曲がったとたん、リアル藪から棒、紫陽花の繁みからステッキ。同時に、何か小さい金属がアスファルトを跳ねる音がして。
「す、すみません、驚かせて」
「あ、はぁ」
ステッキというか、杖を持ってよろよろと立ち上がったのは、ちょっとふくよかなご老人。何でか息が上がってる。
「うっかり家の鍵をこの紫陽花の中に落としてしまってね、根元のほうで見つけはしたんだけど、手が届かなくて。杖で押し出そうと」
今が我が世とばかりに咲き乱れる紫陽花は、ここんちの敷地ぎりぎりに繁り、道路とのあいだの浅い溝を覆わんばかりになっている。そっちからだと片足がいけない身には危なくて、仕方なく玄関先の石段に這いつくばるみたいにして探してたらしい。お年寄りにはけっこうきつい体勢だったかも。
「成功したんじゃないでしょうか、さっきそんな音が──」
確かこっちあたりに跳ねたような、と思って見まわしていると。
「おんおん!」
すぐに伝さんが見つけてくれた。
「すごいぞ! ありがとうな、伝さん」
大きな頭をがしがし撫でて褒め、銀色の鍵を拾ってご老人に渡した。
「いや、助かりました。だんだん暗くなってくるし、そういうときに限って門灯が切れてるしで、どうしようかと思いました」
家に入れないかと、と力なく笑う。
「良かったですね、見つかって。さあ、どうぞお家のほうに。──さ、俺たちも行こうか、伝さん」
「おん!」
「あ……そのグレートデン。もしかして、きみが何でも屋さん、かな?」
「あ、はい。何でも屋です。日常のちょっとしたご不便、お困りごとがおありでしたら、お気軽に声をおかけください!」
そう言って、すかさずウエストポーチから名刺入れを取り出し、一枚手渡す。
「そうですか。よく気が利いて親切な人だと聞いてます。朝夕はよく大きな犬と散歩してるとも。──神崎さん、ご存知ですね?」
「ああ! 神崎さんとお知り合いなんですね。ええ、よくお声を掛けていただいてます」
思わぬところに、繋がりが。
「私は飯綱といいます。明日でいいので、何でも屋さん、この門灯を見てもらえませんか?」
「あ、はい。またお電話いただけますか? ご都合の良い時間にお邪魔します」
「わかりました」
うなずく足元、コツンと杖の音。
「あ! 足は大丈夫ですか? さっきの無理な姿勢で、どこか痛くしたりしてませんか?」
「ありがとう、大丈夫。ちょっと息切れしただけだから──しかし、考えてみればさっきは危ないことをしてしまったな。きみにも伝さんにも当たらなくてよかった……本当に、驚かせてすみませんでした」
痩せなくちゃねぇ、と苦笑いしながら杖をつき、飯綱さんは玄関の鍵を開けて中に入って行った。暗かった家に明かりがともる。ああ、もう日が落ちて、すっかり暗くなってしまったな。
「行こうか、伝さん」
「おん!」
リードを軽く引き、一人と一匹、歩き出す。
「俺と伝さん、なんかこの界隈で有名みたいだな」
「おん!」
「伝さんと神崎の爺さんのお蔭で、顧客様が増えるかも」
「うふん」
「がんばらなくっちゃな」
「おんおん!」
一年で一番長い日もいつの間にか暮れて、一年で一番短い夜が始まった。季節の転機、今日を境に昼夜の長さが少しずつ逆転していく。静かに、確実に。有無を言わさず。そうしてまた季節が巡る、びっくりするほど早足で。子供の頃はあんなに毎日が長かったのになぁ……。
いやいや、人生にたとえるなら俺はぴかぴかの真昼。黄昏にはまだ早い。伝さん送って行って、帰ったら風呂入って飯食って寝て起きて、明日もまた精一杯頑張るぞ!
「よし、ちょっと走っちゃおうか、伝さん!」
「おん!」