ある日の<俺> 2018年8月23日。 時には心にモザイクを
今日の空はやたらに明るいのに、よく見るとかなり雲が濃い。のっぺりと輝く白には薄く翳りがあり、どこか不穏だ。
そして、不穏なのはお天気だけに限らないようで……。
……ごぼっ……ちゃぷん
うん、水音は普通。
ふう……。やるか。
ごっぽごっぽごっぽ
ごっぽごっぽごっぽ
ごっぽごっぽ……
あー、蒸し暑いなー。
ごっぽごっぽごっぽ
そりゃまあね、ここんちは寝室とリビングにしかエアコンないみたいだし……。
ごっぽごっぽごっぽ
っていうか、個人宅でトイレにまでエアコン入ってるのって、よっぽどの大邸宅だけなんじゃないか? それか、大きな商業施設とかホテルとか。
ごっぽごっぽ
それにしても、不穏なトイレだ。びくとも水が減らない──もう無理かなぁ。
「な、何でも屋さん……」
全開にしてるドアから、ここんちの住人、邑石さんが顔をのぞかせた。
「やっぱりダメですか……?」
「うーん……もう少し頑張ってみます」
押し込むときではなく、引くときが大事。ゆっくり押して、ぎゅっと引く。それがすっぽんのコツ。
ごっぽごっぽごっぽ
……引かない黄金の水。
邑石さんはぎゅっと唇を引き結び、泣くのを堪えているように見える。
ごっぽごっぽ
「本当に、そんなもの見せちゃってごめんなさいね……」
うるうるの瞳が、今にも涙の玉を結びそうに……。
「いやいや! こういう時のための何でも屋なんですから、気にしないでください! ──でも、これ以上やってダメだったら、すみません、専門家に任せてください……」
水のトラブル○○○円の、専門業者さんね。俺、ただの何でも屋だから、今使ってるすっぽん? ボンテン? ラバーカップ? ほら、あれだ、ゴム製のお椀に長い柄のついたような形のやつ。これでダメだったならどうもしようがない。
トイレが詰まるにも原因はいろいろだし、そこまで詳しい専門知識も道具もあるわけじゃ無いしなぁ。何だっけ、確か資格とかあるんだよな、排水設備工事責任技術者の──。
「そうね、そうよね……」
ごっぽごっぽと腕を動かしながら、意識を遠いところに飛ばしていると、本当にごめんなさい、と邑石さんの涙声が聞こえる。俺は慌てた。
「いや、いやいやいや。こういうの、しょうがないですよ。誰だって自分ちのトイレが詰まるとか思わないじゃないですか!」
「このところ流れにくくて、変だなとは思ってたのよ……」
そう思ったときに業者さん呼べばよかったわ、と呟く。
「でも、だからって何も……のときに詰まらなくてもいいじゃない」
とうとううつむいてしまった。大小は時の運というか、いやいやいや。
「た、体調はひとそれぞれですし!」
「こんなものを人様の目にふれさせてしまうなんて……」
小さくハナをすする音。齢を重ねたりとはいえ、邑石さんは淑女。排泄物を他人の、しかも男の目にさらすなんてそりゃあ……。
「大丈夫! 俺、今、心にモザイクかけてるんで!」
「モザイク……?」
「そう! 俺はプロの何でも屋だから、お客様の見せたくないものは見ません。見えてません。だから大丈夫!」
そう言いながら、注意深く排水口に押し付けたすっぽんを、ひときわ注意深く引いたとき。
ごぽっ……!
「お?」
黄金の水が引いていく。それから、いつもはこれくらいが溜まっているだろう水量に落ち着いて……。
「──邑石さん、これいけたかも。でも、ここでレバーを捻ってもし水があふれたら困るので、そこに用意したバケツ、ちょっと……」
邑石さんによけてもらって、廊下に置いたバケツから、浮かべておいた洗面器で水を汲み、注意深くトイレに流してみた。
「お、お、お……」
水面が不自然に上がることなく、水は減っていく。これは!
俺はトイレのレバーを捻った。
じゃー!
ごごごごご……
「直りましたよ、邑石さん!」
「本当?」
ドアの隙間から、邑石さんがこわごわと顔を出す。タンクに水が溜まるのを待って、もう一度レバーをぐっ! と。
じゃー!
ごごごごご……
きれいに流れて、あとは平和な水面。
「流れたわ! 何でも屋さん、ありがとう!」
廊下で飛び跳ねるようにして喜ぶ邑石さん。童女のような笑顔だ。
──よかったぁ、老婦人を泣かせるようなことにならなくて。
それから、すっぽんを洗いがてら何度か水を流して異状がないか確認し、周囲に敷いていた新聞紙をまとめてごみ袋に始末した。
「本当に助かったわ、何でも屋さん」
ありがとう、とまた感謝してくれる。
「いえいえ。でも、たまたまお仕事頼まれててよかったですよ」
そう、今日は大きな台風の来る前だからって、午前中から買い物代行頼まれてて、ちょうど戻ってきたところだったんだよ。声を掛けてもなかなか返事がなくて心配してたら、どうやら邑石さん、トイレで悪戦苦闘してたらしい。
いや、力のない老婦人に、あの洋式トイレ用すっぽんは無理だよ。ゴムが硬くて、けっこう力が要るんだ。
「これ、お仕事料。買い物代行ぶんと──」
トイレのぶん。そう言って、きれいな花柄の封筒を渡してくれた。請求書兼領収書を渡すために失礼して確認してみると、やたらと多い。
「え? こんなにいただけませんよ」
「いいの。これくらい払わせて。トイレの、というか──何でも屋さんのプロフェッショナルなモザイク処理に、感謝したいのよ」
恥ずかしくて、情けなくて惨めでたまらなかったけど、あんなふうに言ってくれて、救われた気分なのよ、と邑石さんにっこり笑った。
「じゃあ、俺も邑石さんのお気持ちに感謝して、ありがたくいただいておきます。──仕事にご満足いただけて、何でも屋冥利に尽きますよ」
またよろしくと笑顔で見送られ、外へ出た。
してもらって、させてもらって。互いに感謝し合う。
ああ、俺、顧客様といい関係築けてるなぁ……。
──少し風が出てきたようだ。邑石さんちのトイレには平穏が戻ったけど、お天気はこれからさらに悪化するはず。
なんの! 台風になんか負けないぞ!
何でも屋の仕事を、俺は頑張るのみだ。
台風が過ぎたら、樋掃除の依頼が増えるだろうな……。