ある日の<俺> 2016年10月30日。 流行作家も風邪を引く 後編
「はぁ……しみる……」
背中を丸めて豚汁をすする姿には、哀愁が漂ってる。スプーンで具をすくって口に入れ、しみじみ噛み締め、息をついた。──ついでに、ハナをかんでいる。
「おかわり入れてきましょうか?」
「いや……これ一杯だけにしときます。あんまり満腹になるのも、ちょっと……」
眠くなっちゃうんだろうな。
「でも、温かいな……力が湧いてきそう」
「それは良かったです。たくさん作って置いてあるので、次食べるときあっためてください。マグカップに入れてレンジでチンでもいいですし──そういえば、朝は食べました?」
「んー……昨夜は携帯食食べたかな……大豆のやつ?」
虚ろに呟きつつ、もうひとつの海苔巻きおにぎらずを片手にタイピングを始める。三口くらいで食べてしまうと、本格的にキーボードを叩き始めた。早い。あれ、考えながら打ってるんだよな?
カタカタ、カタカタカタ、タタタタタタ
──頭の中に既に完成原稿があって、それをそのまま打ち込んでるみたい。
タタタタタタ カタタタタタ タタタタタッ
トップスピードに入ったか、と思いきや。
「ハークション!」
途切れるタイピング、引っ張り出される鼻ノーブル。ぶー、とハナをかむ音。モニターから目も逸らさずにぽいっと投げられた鼻ノーブルは、吸い込まれるようにゴミ箱の中へ。
カタカタカタ タタタタタタタ タタッ タタタタタタ
すぐに元のスピードを取り戻して、次々と黒い文字が白い画面に放たれていく。
「……」
とりあえず、ゴミ箱のゴミをコンビニ袋にまとめるか。鼻ノーブルのタワーが出来そうだし。
キッチンを片付け、ゴミも分別して(ビタミンCドリンクの瓶は、ちゃんと洗って水切りしておいた。アルミ蓋は資源ごみの袋に)、頼まれていたトイレ掃除と風呂掃除も済ませたので、暇乞いをしに仕事部屋に戻ってみると、いつの間にかタイピングの音が消え、権藤さんが残りの海苔巻きおにぎらずをぼんやりと齧っているところだった。
「──お疲れさまです。休憩ですか?」
「ええ……さっき完成したので、食事の残りを……」
完成って……。俺は驚いた。週刊誌に連載する小説って、どれくらいの量書くのか知らないけど、あの勢いからすると原稿用紙でもかなりの枚数になるんじゃないのかなぁ。たしか、まだ手を付けてなくて真っ白、とか言ってたと思うんだけど。権藤さん、この短時間でどんだけ……。
「そ、それだったら、また豚汁入れてきます。すぐなので、ちょっと待っててくださいね」
慌ててキッチンに戻り、あの大きなマグカップにまだそんなに冷めてなかった豚汁を入れて、レンジで温め、盆にのせて仕事部屋へ。
湯気を立てる豚汁を見ると、権藤さんはうれしそうな顔をした。気に入ってもらえたみたいで何よりだ。ようやく椅子から降りてカーペットの上に座ると、両手でマグカップを抱えて豚汁を堪能している。お疲れだなぁ……。そう思いつつ、また山盛りになってる鼻ノーブルをコンビニ袋にまとめるために一旦外に出る。
空になったゴミ箱を持って戻ってくると、権藤さんは封筒に今回の仕事料を用意して待ってくれていた。
「いや、ほんと、助かりました……」
「いえいえ。日常のちょっとしたご不便や、お困りごとに対応させていただくのが何でも屋の仕事なので。──それにしても、権藤さん、書くのが早いとはお聞きしましたけど、キーボードに打ち込む姿がまるでピアニストみたいでした」
ラ・カンパネラ? を弾いてるみたいでした、音がいっぱいあるやつ。そう言うと、権藤さんは笑った。
「暗譜してるみたいに?」
「あんぷ?」
楽譜を全て覚えていることですよ、と教えられて、俺は目を瞠った。
「ああ! 確かにそんな感じでした。知ってる曲を、いとも簡単に弾きこなしているみたいでしたね」
そう言うと、権藤さんは懐かしいものを見るような、どこか曖昧な表情になった。
「……昔、友人にも同じことを言われたことが……でもね、これ……自分のを打つのはいいけど、そうじゃないものを原稿を見ながら打ち込もうとすると……とたんにスロー、にッ」
くしゃみ、鼻水。鼻ノーブルで、ぶー。
「──仕事終わったんなら、もう休みましょう?」
鼻は赤いし、目は涙の膜が張って濡れてるし。風邪って、食べても寝ないと治らないよ、権藤さん。
心配する俺を制し、権藤さんはもう一回ハナをかんだ。
「はぁ……いつもならね、週刊のぶんなら半日ずつで一日しかかからないから、あとは遊んでられるんだけど。今週はあと一本、月刊誌のぶんもあるから……はぁ……」
風邪さえ引かなきゃね、と溜息をつく。
「ま、それくらいなら一日もあれば書けるし……ちょっと横になることにします。何でも屋さんのお陰で腹も温まったし……」
やっぱりまともなもの食べないと、ダメですね、と権藤さんは呟いた。頭脳労働もけっこうなカロリーが必要だというし、そりゃあなぁ……。
「失礼ながら……あんまり期待してなかったけど、豚汁も海苔巻きもそれなりに食べられるものでしたよ」
──なかなかシビアな評価だけど、一応褒めてくれてるみたいだから、素直に喜んでおこう。
「あはは……」
すごく美味しい、ってわけでもないだろうけど、家庭料理としてはそこそこじゃないかと思ってる。──前にうちに来た娘のののかと智晴にふるまったら、美味しいって言ってくれたし。うん。
「じゃ、これ」
「ありがとうございます」
手渡された封筒の中を一応確認させてもらうと、え、諭吉がいっぱいいるよ? 千円札だと思ったのに。
「権藤さん、これ……?」
熱のせいで英世と諭吉を間違えたか?
「間違いじゃないです……とにかく今日は助かったので。──実は僕、編集から嫌われてるんですよね……。でも売れてるから、彼らとしては歯軋りしつつも使わざるを得ない。でも……」
また、くしゃみ、鼻水、鼻ノーブル。
「ふう……。原稿落としたら、それ見たことかとね。彼ら、虎視眈々と狙ってるから、引き摺り下ろすチャンスを……。そんなわけで、僕を嫌ってる奴らを喜ばせずに済んだんで、そのお礼」
大丈夫、僕、稼いでるから。
そう言ってにっこり笑う顔が、やたらに眩しい。次の瞬間にはまた、ぶー、と鼻ノーブルでハナかんでても。
呆気に取られて見つめていると、権藤さんはそのまま立ち上がり、手をひらひらさせながら寝室らしきドアの向こうに引っ込んでしまった。
「……」
こんなにもらっていいのかな? と戸惑いよりも罪悪感がつのるけど、仕事に満足してくれた報奨金だと思えば……。いいのかな、本当に? 元の仕事料の何倍?
「……」
豚汁の入ってたマグカップと皿くらい、洗ってから帰ろうか。うん。
後日。神埼の爺さんのお使いで本屋に行ったら、権藤さんの本が平積みされてた。さすがは流行作家、と書店ポップを見てみたら、書き下ろし新刊らしい。
何気なく手に取り、パラパラと流し見て、奥付の初版発行日に驚いた。俺が買い出しとおさんどんに行った日から、一週間ほどしか経ってない。それでこのハードカバー二段組三百ページもの量を……?
カタタ、タタタタタッ
頭の中に、あのホロヴィッツかフジコ・ヘミングかという華麗なまでに滑らかなタイピングの音が響く。
「……」
思わず買ってしまった。いつか機会があったら“権藤礼”のサインもらおう。