ある日の<俺> 2016年10月15日。 月影さやかに 2 終
3394文字→3403文字。細かいところが少し変わっただけで、話の内容に変わりはありません。
「──そのうち会おう、ただそう言ってるだけじゃ、もうずっと会えないと思ったんだ」
笑いを収めた柘植さんは、そう言った。見上げる空のその先に、白い月がある。
「毎年、そう、六十年もの間。年賀状の決まり文句に、そのうち、そのうちと書き続けて、結局一度も誰にも会わなかった。<そのうち>だと、いつでもいい代わり、いつでなくてもいいんだ。つまり、永遠にその時は来ない。──そんなことに、この年になってようやく気がついたんだよ。だから、もう二度と会えなくなる前に、方向音痴だろうが形振り構わず会いに行くべし、と思い至ってね」
柘植さんは、自嘲するように笑ってみせた。
あまりにも明るすぎる月の光と、駅前のチカチカと目まぐるしいような明かりの間に立つその姿は、不思議な陰影を帯びて、まるでたった一本だけ砂漠に取り残された古い樹木のように見えた。
樹齢を重ねた樹木だけが持つのだろう、深い孤独の影。
俺はただ頷いていた。何も言う言葉が無かった。
そのまま二人とも黙って歩き続け、ガード下を潜り抜けると、どこかうらぶれたような駅裏通りに足を踏み入れた。そう離れていないところに、<クローバー・ホテル>の小さなネオン看板が見える。
「ああ、あそこですね」
やれやれ、といった感じで柘植さんが大きく息を吐く。お疲れさまです、と俺は労った。
「瓜生さんのお宅からだと、だいたい徒歩二十分から三十分ってとこですね。改札はすぐそこですから……、明日、大丈夫ですよね?」
「何でも屋さんまで……瓜生にもさんざん言われたけど、そこまで方向音痴も酷くないよ。でなきゃ、電車で出掛けることすら出来ないじゃないですか……」
情けなさそうに眉を下げる柘植さんの表情に、ちょっと心配しすぎかな、と思ったけど──、ここから瓜生さん宅に行くのに、何故そっちに進んだか、と小一時間問い詰めたくなるほど明後日の方角に進んでたっていうから、やっぱり心配になるよ。
「良かったら、これ──」
俺は自作の名刺を柘植さんに渡した。ここはもうホテルの玄関先だ。
「明日もう一度瓜生さん家に行こうと思ったり、朝、散歩のつもりで出歩いてうっかり道に迷ったりしたら、この番号に連絡してください。迎えに来ますから。早朝でも大丈夫ですよ、犬の散歩のために早起きするので」
「──ありがとう」
そう言って、柘植さんは名刺を受け取ってくれた。
「……ねえ、何でも屋さん」
柘植さんはまた月を見上げた。ほぼ満月に見える、円い月。
「僕は、また来年瓜生に会えるだろうか」
明日の夜は、天気予報によれば曇らしい。それでも。
「会えるに決まってますよ」
雲の上では満月が皓々と輝いて、その表を銀色に照らしてるに違いない。
「──方向音痴の僕以外、瓜生も他の二人も、みんな身体をどこか悪くしたり、連れ合いが入院したりして、遠出も出来ないのに?」
「それでも、です。だって、柘植さんは形振り構わないことにしたんでしょう? たとえ、その……絶望的なまでの方向音痴であっても。だったら、会えますよ」
「……」
楽観を語る俺を、老人は見定めるように凝視してくる。それに気づかぬふりをして、俺は続けた。
「今日、瓜生さん、よく喋ってたでしょう」
「あ、ああ……」
急に話題を変えた俺に、訝しげにしつつも相槌を打つ。
「あんなに喋ってる瓜生さん、俺見たことないです。それに、いつもよりずっとシャンとしてた」
「そう、なのか……?」
探るような目に、俺は大きく頷いてみせた。
「近所に住んでる娘さん曰く、奥さんが亡くなってからどっと老け込んだんだそうです。いつも無気力で、ソファに寝転がってぼーっとテレビばかり見てる。お母さんとはあんなに仲悪かったのに、やっぱり寂しいのかしら、って不思議がってらっしゃいましたが」
男って、そういうところ弱いですよね、と言うと、柘植さんは黙っていた。──この人も、もしかしたら連れ合いに先立たれたのかもしれないな……そう思いつつ、続ける。
「それに、男って、みんな見栄っ張りじゃないですか? 同じ男に対してのほうが見栄っ張りなんです。女性に対するよりも、ずっとね」
覚え、ありません? と訊ねてみると、少し笑いかけて咳き込んだ。今度はすぐに復帰すると、大きく息を吐き、溜息のように呟いた。
「弱ったところは、見せたくない、か……」
それには軽く頷くだけにしておいた。
「今日だけで、瓜生さんすごく頑張ったと思うなぁ……」
「……」
「他の御二方も、大なり小なり瓜生さんと同じなんじゃないかと思いますよ」
「そうだろうか……」
懐疑的な柘植さんに、だって、と俺は続ける。
「かつて友に絶望的とまで言わしめた方向音痴という弱点を、柘植さんは堂々と晒して勝負に出てきたわけですよ。いきなりの無謀なお宅訪問は、つまりそういうことじゃないですか? そこまでされたら、同じ男として引き下がるわけにはいかない。そうでしょう?」
「……」
「だから柘植さん、また近いうちに瓜生さんを訪ねてきてくださいよ。瓜生さん、きっと必死に見栄を張って待っていてくれますよ。ぼーっとしてる場合じゃない、シャンとしてなくちゃ。アイツに笑われたくないって、ね」
見栄もほどほどなら適度なスパイスになりますよ、と言うと、ぶっと吹き出した。
「何でも屋さん……あなた、面白いね」
「……よく言われます」
いつだって、そんな面白いこと言ってるつもりは無いんだけどな。
「でも、そうだね」
吹っ切れたように、柘植さんは言った。
「次は、ちゃんと予告してから訪ねて行くことにするよ。瓜生のところに行くときは、何でも屋さん。あなたに道案内をお願いしていいですか?」
「もちろん!」
笑顔で請け負う。
「だから、柘植さんも俺に見栄張ってください」
「僕が、何でも屋さんに?」
面白そうに訊ねてくるのに、俺は頷く。
「はい。柘植さんが、俺に。──昔の友人たちを訪問して回れるくらいには、自分は気力と体力が充実してるんだって。そういう見栄を、俺に張ってみせてください。柘植さん一人で三人を挑発するなら、俺はその柘植さんをこうやって挑発しますから」
もちろん、風邪引いたりしたときは無理しないでくださいよ、と言っておく。
「人間、何か張り合いが無いと元気が出ないと思うんです。俺だって、その、色々あって離婚して、一人娘が別れた元妻のところにいるんですけど、俺、その娘のための養育費を稼ぐと思えば頑張れるんです。成人式には振袖買ってやりたいな、なんて。実際、そういうのは母方の祖父母が買ってくれるんだろうけど……」
帯だけでも買わせてもらえたらいいな、なんてまだまだ先のことを夢想している。
「働くのは自分のためでもあるけど、やっぱり、それだけじゃちょっと味気ないっていうか。柘植さんも、お友達を励ますばかりじゃ疲れるでしょ? だから俺が代わりに励ますっていうか、ちょっくらあの何でも屋に元気なとこ見せつけてやるか、とか思うと、少しだけ楽しくなりません?」
「……」
柘植さんは黙って俺の顔を見てる。……あー、だんだん何言ってるのか自分でも分からなくなってきた。俺、恥ずかしいヤツ。
「だから、あの──」
「分かったよ」
柘植さんはゆっくりと俺を遮った。月と建物の外明かりの下で、微笑んでいるようだ。
「分かったよ、何でも屋さん。僕はあなたに見栄を張りに来るから、あなたも僕に見栄を張ってください。お互い、元気でやりましょう、それぞれの大切な人のために。誰も一人では生きられないんだ、あの月のように──」
二人で空を見上げる。円い円い月が明るく輝いている。
「あの月のように、誰もが誰かの光を受けて輝いてる。誰かが誰かの光となり、互いに照らし合っている。それは、やさしい光だ……」
そこまで言ってから、軽く手を振り、柘植さんはゆっくりホテルの入り口を潜って行った。俺は黙ってその後姿を見送る。
──今夜、俺は柘植さんを照らす光のひとつになれたんだろうか。彼の残した言葉は、間違いなく俺を照らす光のひとつになってくれた。
「……」
もう一度見上げた空には、静かに輝く月。どれだけ眺めていても眩しくない、やさしい光だ。
俺は踵を返した。月影と夜闇の鬼ごっこでも眺めながら、ゆっくり帰るとしよう。帰ったらひと風呂浴びて、メシ食って。今夜は早めに寝ようかな。
俺はそっと息を吐いた。
元妻には張り切れなかった見栄を、父親として娘には張り続けたいと願う。だから、明日も頑張ろう。頑張って、生きていこう。