ある日の<俺> 2016年10月15日。 月影さやかに 1
月の影が、濃い。
いつもは街灯の間を埋めている闇が、月光に怯えて縮こまってるみたい。時折、薄い雲がレースみたいに月を覆うと、そろっと闇は広がろうとする。だけど、雲が過ぎるとまたぎゅっと縮こまるんだ。
鬼ごっこみたいだな。もしくは、だるまさんが転んだ。
「今日はお天気が良かったから、月も明るいですね」
隣を歩いている柘植さんが話しかけてきた。この人を駅前のビジネスホテルまで確実に送り届けるのが、今夜の俺の仕事。顧客の瓜生さんから頼まれたんだ、今日ひょっこり訪ねてきたこの旧友を、足の悪い自分の代わりに送って行ってやってほしいって。
「ええ。爽やかで、本当に気持ちのいいお天気でした」
でも、夜は冷えますねぇ、と言うと、上着を持ってて良かったですよ、とくすくす笑う声が聞こえた。
陽光あふれる昼間とは違う、月光に満たされた世界。それは何だか異世界の景色のようで。
「今日はねぇ、何でも屋さん……久しぶりに古い友人に会えて、僕はとてもうれしいんですよ」
歩を進めるたび足元で踊る短い影。柘植さんの声は弾んでる。
「何年ぶりかなぁ、瓜生に会ったの。卒業以来会ってなかったから……」
六十年ぶりくらいかな、と呟き、また面白そうに笑った。
「年賀状だけはお互いずっと出し合ってたんですがね……毎年のそれ、取っておいたら六十枚になるのか……」
「──そう考えると、何だかすごいですね」
一年に一枚の年賀状、六十年続ければ確かに一人分だけでも六十枚になるな。重みを感じる。
「僕は、乗り物が苦手でね。特に転居してからは同窓会とか出掛けられなくて。だからせめて、年に一度の年賀状くらいは書かないといけないと思って頑張ってたんですよ。……本当は筆不精なんだけどね?」
秘密を打ち明けるようにお道化てみせた後、年賀状の宛先の友人たちの中には、音信普通になった者や、外国に行って戻って来ない者、この年にもなると鬼籍に入ってしまった者も多い、と淡々と続ける。
「櫛の歯が欠けるみたいに、皆いなくなって……。瓜生と、あと二人だけですよ、特に親しくしてた中で残ってるのは。二人には、今年もう会いに行ったんです。瓜生で最後」
これで思い残すことは、もう無いなぁ、と柘植さんは呟く。
「またぁ。そんなことおっしゃらないでくださいよ。まだまだお元気じゃないですか」
軽口ふうに言ってみると、そうだねぇ、と柘植さんは笑う。
「駅から瓜生の家に行くのに、道に迷って一時間も知らない街を歩き続けるくらいには、まだ元気だね。警邏中のお巡りさんに会わなかったら、どうなっていたやら」
親切に送ってくれて助かった、と続ける柘植さんに、俺は訊ねてみた。
「その……あなたは重度の方向音痴って瓜生さんはおっしゃってましたけど、そんなにですか?」
また軽い笑いが聞こえてくる。足元の影が揺れる。
「そんなに、なんです。そのくせ、車は苦手だからタクシーにも乗れないし。電車は大丈夫なんだけど……」
「俺も、子供の頃はバスに乗ると酔ったなぁ……」
「そうそう。僕もそうなんだよ。大人になっても治らなかったけど。バスで本なんか読める人って、あれは神経どうなってるんでしょうね?」
「本どころか、ゲームとかしてる人もいますよ。俺の場合、中学生になったあたりからだんだん酔わなくなったけど、本とかゲームとかは無理だなぁ。それやったら今でも確実に酔っちゃうと思います」
「こうやって地面を踏みしめて歩くのが一番ってわけだ」
楽しげに、柘植さんは笑った。
駅前の喧騒が近づくにつれ、道は明るくなる。月の光は街の明かりに紛れて、足元の影が複雑になる。
「えっと、クローバー・ホテルでしたね?」
駅裏だけど、改札から出てすぐ看板が見えてるから迷いようが無いはず。
「そう。そこの305号室。ホテルの玄関先まで連れて行ってもらったら、さすがに僕だって迷いませんよ」
瓜生には心配掛けてしまった、と柘植さんは反省しているようだ。
「何度か行ったり来たりすれば、方向音痴なりに道を覚えるんだけども……、初めての場所はやっぱりダメでした」
「そういえば──、瓜生さんの前に会いに行かれたというご友人のお宅には、どうやって辿り着いたんですか?」
そこ、やっぱり疑問に思いますか、と苦笑する声。
「一人は駅から電話したら歩いて迎えに来てくれました。もう一人の家は駅から遠くて、仕方なくタクシーを使ったんです。駅に着いてからこれから行くと電話したので、乗り物酔い対策の濡れタオルを用意して待っててくれましたよ。呆れ顔で……。近くに来たなら言ってくれれば出掛けて行ったのに、って言いながら」
でも、その友人はもう車の免許を返上したって年賀状に書いてたし、悪いと思ったんですよ、と柘植さんは言う。
「瓜生の家は駅からそんなに離れてないみたいだし、本人は足を悪くしてるっていう話だから、これは一丁びっくりさせてやろうと思って、ホテルに荷物を置いてすぐ出かけたんです。──だけど、失敗だったなぁ」
瓜生には「己の方向音痴ぶりに対する認識が甘い!」としこたま叱られました、と大袈裟に溜息を吐いてみせるので、俺は思わず笑ってしまった。
「三人とも、それぞれいきなりの訪問だったから、不在だったりで会えなくてもしょうがないと思ってたけど、会えて良かった」
「それにしても……どうしてそんな、『突撃! 隣の朝ゴハン』みたいな訪問を思いついたんですか?」
と、とつげきって、と絶句し、柘植さんは笑いに噎せてしまった。しょーもない譬えをしたことを謝りながら、俺は背中をさする。本当、ごめんなさい。そんなにウケると思わなかったんです……。
「だ、大丈夫ですか……?」
まだ咳をしながら、柘植さんは、大丈夫、というように片手を上げた。そのまましばらく息を整える構えだ。何度か咳払いして、ようやく元に戻ったらしい。
「なんか、すみません……」
「い、いや。確かにそんな感じだったかな、と思ってね、三人にとっては」
○ネスケが突撃してきたみたいだよね、と柘植さんは笑う。