ある日の<俺> 2016年10月10日。 ブラック・スーツで出かけよう!
本日体育の日。まさに秋晴れ、ぬけるような青空。
この辺りの小学校では、どこでも今日が運動会。傍を通ると聞き馴染みのある音楽が聞こえてきて、郷愁を感じる。
娘のののかの学校も、今日が運動会だそうだ。──見に来ていいのよ? と元妻からお誘いがあったけど、離婚した父親が観覧に混じっていいものかと考えてしまって、遠慮しといた。何ていうか、世間体的にさ? 噂好きな人種ってどこにもいるからな。そういう大人の無神経な好奇心がののかに向けられたら、嫌だもん。
仕事もあるしさ。
この連休に旅行に出かけてるお宅のペットの世話とか、草刈りとか。まだまだ元気だな、草。街路樹の銀杏がまだらに色づいてきてるから、もうすぐ黄色一色になるんだろうな。そしたらまた落ち葉掻きだ。──まあ、仕事頼まれたらの話だけど。
「あれ、何でも屋さん、どうしたんすか、おめかしして。どこかへお出かけですか?」
駅前公園の脇で、シンジに声を掛けられた。もとチンピラ、今はたこ焼き屋のオヤ……、いや、お兄さんと言っておいてやろうか。
「久しぶり、シンジ。そういえば最近、俺こっち来なかったもんな」
ソースの焼ける匂いはやっぱり胃袋をダイレクトに刺激してくるな、と思いながら、景気はどうだと聞くと、情けなさそうに眉を下げる。
「いやー、雨続きで大変でしたよー。商売上がったりっす。それより、何でも屋さん。商売替えしてホストにでもなったんすか?」
「誰がホストだよ! 仕事に決まってるでしょうが。助っ人だよ、助っ人」
「だってブラックスーツなんて着てるんだもん。客引きホストのカラスかと思いましたよ」
たこ焼きピックでたこ焼きを転がしながら、シンジは言う。
「あー、でもそうか。るりちゃんに聞いたことあるな。披露宴なんかの新郎新婦のどっちかの友人とか、親戚とか、職場の同僚の役をしたりするあれでしょ?」
「おお、それそれ。いわゆるサクラってやつ。なんか、披露宴会場の広さに比べて招待客が少ないらしい。しょうがなく俺みたいな何でも屋でも紛れ込ませて、これこそ枯れ木も山の賑わいってやつだなぁ」
何ですか、それ。と言いながらシンジは笑う。
「そんなに少ないんじゃ、他にもご同業がいそうっすねぇ」
「そうかもな。うん、会話には気をつけるよ。ダミーなんか座らせてるって、どっちかの親族にバレても困るからな」
「そっすね。じゃ、頑張ってきてください!」
たこ焼きピックを振りながらエールを送ってくれるシンジに笑ってみせ、俺は改札口に向かった。披露宴前後入れて三時間くらいか。善き友人役のお仕事、頑張って務めることにしよう。
──祝日の昼間。いつもの最寄り駅前は、さっきまでいた披露宴会場のホテルのある街と比べると、閑散として見える。
プシューと音と立てて開いた電車のドアから、俺はぼとっと零れ落ちるように降りた。疲れていた。魚の死んだような目をしてると思う、多分。
とぼとぼと駅を出て、空を仰ぐ。ああ、いい天気だなぁ……。
「……」
腹が鳴る。今日は美味いもん食べられるはずだったのに、俺、何でこんなに虚しく腹減らせてるんだろ。
そう思ったとき、微かな風に乗って、ソースの焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。ふらふらと、俺はその匂いの源に引き寄せられて行く。
「シンジぃ……!」
今もお客を一人さばいたシンジに、俺は声を掛けた。うう、腹減った。
「二人前、くれ」
「あれ? こんなに早く、どうしたんすか? ……何か嫌なことでもありました?」
訝しそうにしつつも、心配してくれるシンジに、癒される。
「嫌なことっていうか……」
本日、サクラとして参列した披露宴は最悪だった。招待客お迎えと新郎新婦入場から始まって、媒酌人祝辞、来賓祝辞、それから乾杯、ウェディングケーキ入刀というところで──。
「新郎と新婦、両方の浮気相手が突撃してきたんだよ……」
「ええっ!」
「示し合わせたとか、そういうわけじゃないらしいんだ。偶然、同じタイミング。で、披露宴どころじゃなくなった」
「……修羅場っすね」
「そう! 本当に修羅場だったよ。何なんだよ、あいつら……」
結婚前の火遊びって、何? 恋愛結婚だって聞いたんだけど。それでも浮気するの? しかも双方とも。いや、どっちか片方だけならいいとかいうわけじゃないけど、好き合って結婚しようっていう相手がいるのに、浮気? 俺には理解出来ないよ!
「なあ、シンジ」
「なんすか?」
「お前、るりちゃんいるのに、浮気したいとか思う?」
「思うわけないっす!」
シンジはぶるぶる首を振る。るりちゃんとはシンジの恋人で、高級ではないけどそこそこのクラブ、<夜の夢>で働くホステスだ。これが出来た娘で──っていうのはいいや。シンジの考えを聞きたいんだから。
「そりゃ、道行く女の子を見て、美人だな、とか可愛いな、とか。胸が大きいなとか、足がきれいだな、とか、うなじが色っぽいとか、思うことはいろいろ思いますよ、ヒップから太ももにかけてのラインがグッとくる、とか、ふくらはぎの形が好みだとか」
「お、おう」
足フェチか? シンジ。
「だけど、好きなのは、あ、愛してるのは、るりちゃんだけっすから! 他の女なんていらない。俺にいるのはるりちゃんだけ。るりちゃん以外いらないっす!」
「そうだよな、シンジ! お前ならそう言ってくれると思ったよ」
好きな女、一筋。欲しいのは一人だけ。そういうところ、こいつと俺は似てるんだ。
「はぁ、なんか安心したよ、シンジ。あんなの目の当たりにしたら、もう。世の中、そこまで乱れてるのかって思っちゃったよ。ああいうののほうが、少数派だよな?」
「──浮気、するやつはしますけどね。女も」
シニカルに笑う、シンジ。いつも剽軽ににこにこしてるやつなのに。不意打ちの微苦笑にちょっと気圧されてると、「俺だって、世の中の裏側の端っこあたりで生きてましたから。それなりに色々見たんすよ」とまた苦く笑う。
「男も女も、浮気するやつはする。しない奴はしない。俺はしない奴なんです。それだけ。るりちゃんもしない女なの。それだけなんです」
何でも屋さんもしない奴でしょ? と言われて、俺はうんうん頷いた。離婚はしてしまったけど、元妻以外に目移りしたことなんてなかった。離婚原因だって浮気じゃないし。元妻もそんな女じゃなかった。
「そっか……今日の二人は似たもの同士ってことか」
「そうっすよ」
しゃべりながらもたこ焼きを焼いていたシンジが、経木の船にそれを山盛りに盛り付け、お持ち帰りバージョンに手早く包んでくれた。
「ほら、ちょっとコゲたやつとかサービスしときますから。ソースも鰹節も大盛りで。今日は嫌なもん見ちゃったんすね。これ食べて、元気出してください」
「シンジ……」
やさしさが、胸に沁みる。ありがとな、と礼を言ってお代を渡す。
「食べる前にそのスーツ、脱いだほうがいいっすよ。汚れたら大変」
「あー、そうだな。そうするわ」
こんなハレの日に着るような服持ってなかったから、元義弟の智晴に借りたんだよな。──ズボンの裾、けっこう内側に折り込んで止めてるのは内緒だ。袖もちょっと長い。スタイルいいもんな、あいつ。ふん!
「あと、仕事料は大丈夫ですか? ちゃんともらわなきゃダメっすよ?」
「先払いで振り込んでもらってるから──いや、ホントにありがとう、シンジ。話聞いてもらってだいぶ楽になった。るりちゃんにもよろしくな」
「はい! るりちゃん、何でも屋さんもいつかお店に来てねって、前に言ってましたよ」
「ははは……」
いや、そんな贅沢出来ないし。はあ……。シンジもるりちゃんも、見た目チャラかったりお水だったりするけど、堅実なんだよな。いいよな、あの二人。見てると何だか安心出来るわ……。
もう一度礼を言ってシンジに手を振ると、今度は真っ直ぐ家路につく。ソースの匂いが鼻と胃を刺激しまくってくれるけど、いいトシして歩き食いとか出来ないから我慢。服も汚せないし。
近くに見える小学校の庭から、切れ切れに聞こえる音楽と歓声。昼の部が始まったくらいかな? とても賑やかだ。今はまだ小学生のあの子供たちが大人になったとき、どういう人間になってるんだろう。どういう相手と結婚するんだろう。
娘のののかも、いつかは結婚するだろう。ののかは俺と元妻の娘だから、浮気しない女に育つはず。だから、相手は浮気しない奴だといいな。──する奴だったら、俺がぶっ飛ばす!
まあ、まだまだ先の話だ。この青い空の下で、今日はののかも運動会で競技をしてるはずだ。元妻や元義弟の智晴、ののかのお祖父ちゃん、お祖母ちゃんも運動場の片隅でそれを応援してるだろう。
爽やかな体育の日。皆の心と身体が健やかでありますように!