ある日の<俺> 2016年10月2日。 近頃の若者は
夕刻の空はラベンダー。遠くのビルをシルエットに抱いて、薄紫に霞む世界が美しい。
──雨降りそうだけど。だからあんな色してるのかな。
夕方の散歩、グレートデンの伝さんと歩く道は乾いてる。今日は降らないと思ってたんだけど、携帯で見られる天気予報によると、暗くなってから降るらしい。
「すっかり日が短くなったなぁ、伝さん」
「おん!」
お陰で、真夏に比べたら犬の散歩時間を調整しやすいから楽だけど。それにしても、もう、十月なんだな。
「本当に、日が経つのは早いなぁ」
「うぉん」
「今年ももうあと三ヶ月ほどで終わりだなんて、びっくりするよな」
「おぅん」
「冬来たりなば、っていうけど、秋来たりなばもう次の冬、って感じがするよ」
「おうぉおん」
伝さんとのいつものコース、公園巡りじゃなくて、こっちの公園から隣町の小公園を行って戻るコースを歩いてる。だいぶ長めになるから、このところの活発な秋雨前線のせいでちょっとストレス溜めてそうな伝さんのために、軽くジョギング風に早歩きしてみたり。──何でも屋始めた頃に比べたら、俺も体力ついたもんだよな。
「何でも屋さん?」
いつもの公園に戻ってきたあたりで声を掛けられ、振り返ってみると、飼い猫の豆狸ちゃんを連れた赤萩さん。シャム柄猫の豆狸ちゃんは、子狸みたいでとても可愛い。
「こんばんは。今は伝さんですか」
会社から帰ってから、豆狸ちゃんにハーネスをつけて散歩をさせる赤萩さんとは、わりとよく顔を合わせる。だから彼は俺がよく散歩させてる犬とは顔見知りだ。
「はい。隣町の公園まで行って戻ってきたところなんですよ。ちょっと長いコースで」
「大きい犬ですもんね。雨続きだと、散歩させるのも大変でしょう」
そんなこと立ち話してる間、豆狸ちゃんが伝さんの匂いを嗅いでいる。伝さんもしたいようにさせている。伝さんは小さいものに等しくやさしい。チワワのちーちゃんにに吠え付かれても、知らん顔で吠えさせてやってたもんな。飼い主さんは慌ててたけど。
「……それにしても、豆狸ちゃんて犬を怖がりませんね」
セントバーナードのナツコちゃんとも仲良しだ。
「前世、犬だったのかも」
赤萩さんもそんなことを言って笑う。
「野良猫に出会っても知らん顔してるんですよ。犬友だちも多いし、自分のこと犬だと思ってるのかも」
こんなふうに犬みたいに散歩させてるせいかなぁ、あはは、と笑ってとリードを軽く弾く。
「──日曜日の夕方に飼い猫と散歩なんて、侘しいなぁ」
ぽつん、とこぼれる言葉。若者の悩みか。
「赤萩さん、モテそうなのに」
まるきりオッサンの感想だけど、赤萩さんからは、大学時代、周囲にいたモテ男の匂いがするんだよな。
「……二股掛けられてて」
「あー……」
「今まで俺が二股掛けたことはあるけど、やられたのは初めてで、落ち込んじゃって」
「赤萩さん……」
思わず半目で見てしまう。やっぱりコイツ、モテ男だったか。いやー、オッサン、そういうリア充な人種のことは分からないわー。
「不誠実なのは、いけないと思います!」
冗談めかして言ってるけど、本気だ。不誠実な二人が不誠実合戦やって、今回は相手のほうが一枚上手だったってだけのことだろう? 狐と狸の化かし合いみたい。
「──俺、当分、豆狸だけでいいや。な? 豆狸」
俺の遠回しな非難に、遠回しに逃げようとした赤萩さんが豆狸ちゃんを抱っこしようとすると、豆狸ちゃんはぐぐっと藻掻いて腕の中から飛び降り、なんと、伝さんの足を伝って背中に上ってしまった。
「豆狸……」
赤萩さん、呆然としてる。俺は吹き出しそうになった。
「豆狸ちゃん、偽りの愛はいらないって」
「何でも屋さん……」
必死に笑いを堪える俺を、赤萩さんは恨めしそうに見る。
「まあまあ。その人と結婚を考えてたかどうかは知らないけど、籍を入れる前に分かって良かったんじゃないですか?」
「まあ、はい……」
伝さんの背中で、豆狸ちゃんは毛づくろいしてる。ぶっ! いかん、また吹いてしまう。
「お前……大物だな、豆狸」
赤萩さんは飼い猫の所業に呆れ顔。だけどさ。
「大物なのは、伝さんのほうですよ。猫が背中に乗るのを許してくれてるんだから。な、伝さん」
尻尾を振って伝さんは応えてくれる。吠えると揺れるから、豆狸ちゃんのために抑えてやってるんだろうか。
「伝さんこそ、真の漢です。どーんと構えて自分より弱いものにやさしい」
だけど、もうそろそろ行こうか? そう言うと、伝さんは肩越しに豆狸ちゃんを振り返って、「おん」と鳴いた。すると、完全リラックスしてた豆狸ちゃんはすぐに背中から降りる。
「──コミュニケーション取れてる」
「おん!」
その通りだぜ、というように、伝さんが吠える。驚く赤萩さんとしれっとして道に座る豆狸ちゃん、いつも通り凛々しい伝さん。
「ぶっ!」
ついに吹き出してしまった。
「そ、それじゃ、また!」
赤萩さんに挨拶を投げて、背中を向ける。
「何でも屋さあん!」
笑わないでくださいよ、と赤萩さんの声が情けなく縋ってくるけど、知らない。振り返らずに片手だけ振って応えておく。
他人の人生だし、刺されない程度にしとけよ、とは思うけど、彼の女性とのコミュニケーション能力は、伝さんと豆狸ちゃんのそれに完全に負けてると思う。
まさに以心伝心。犬と猫なのに。
「おぅん?」
どうしたんだい、相棒? みたいに伝さんが覗き込んでくる。
「伝さんは、やさしいなぁ」
そう言って耳のあたりをわしゃわしゃ撫でると、うれしそうだ。でっかいグレートデンだから、歩きながらこんなことが出来る。屈まなくていいもんな。
人間は複雑だから、犬や猫のようにシンプルにはなれない。色んな思惑が交差する世界で、だからこそせめて誠実でありたいと思う。──それもなかなか難しいんだけどさ。
ラベンダーの空はすっかり闇に呑まれて、かすかな薄明かりも消えようとしている。残ったのは、分厚い雲の気配。雨の準備をしてるみたいに。
「伝さんを吉井さんちに送って行って、俺が事務所に帰り着くまで空はもつかな。どう思う? 伝さん」
きっと大丈夫だぜ、と言うように、おん! と力強く応えてくれる伝さんに和みながら、足を速める。
今夜はこれから雨が降るけど、朝までには止むだろう。天気予報には人間の複雑な思惑が絡む余地は無い。誠意第一信用第一。とてもシンプルだ。間違うことがあるにしても。
明日も、俺は何でも屋稼業を頑張るぞ!