ある日の<俺> 2016年9月26日。 柴犬チカちゃん第六感 後編
現場に案内されると、問題の照明器具は階段上がって三歩ほど先の廊下の天井に取り付けられていた。換えの蛍光灯の入った箱と、真下に椅子がぽつんと置かれている。
「ああ、あれですか」
「前のは電球を取り替えるだけで済んだんだけど……」
覆いを外さないといけないタイプだ。寺井さんの身長だと、椅子に乗っても難しいんじゃないかな。
でもまあ、こんなの楽な仕事だ。俺は蛍光灯の受け渡しアシスタントを寺井さんにお願いすると、椅子に足を掛けた。それを支点にもう片方を乗せようとしたら──。
「わっ!」
椅子が壊れた。正確には、四本の足のうち、一本が折れた。あのまま両足とも乗せてたら、俺は下手したら腰壁手摺を越えて危うく階段の下に……。おおう、危なっ!
「何でも屋さん!」
辛うじて落ち転ぶのを避け、壁にへばりつく俺を、青ざめた顔で寺井さんが見てる。
「だ、大丈夫です」
俺はなんとか笑顔で答えた。引き攣ってるかもしれないが。
「まさか、椅子の足が折れるなんて……」
思わないよなぁ。思ってたら乗らないし。
「ご、ごめんなさい。怪我しなかった?」
「あはは。反射神経で何とか」
ちょっと壁で腕とか背中とか打ったけど、床に叩き付けられたり、階段の下に落ちたりすることを思えば、どうってことはない。
「いやー、俺なら大丈夫でしたけど、これ、寺井さんだったら危なかったですよ」
──チカちゃん、これが分かってたのかな。
折れた椅子の足を見ると、裂けるように折れていた。出来は頑丈だけど古い椅子みたいだし、経年劣化だろうか。それにしても、危なかった……。
真っ青になってしまった寺井さんには下で休んでもらうことにして、後は難なく交換を終えた。椅子の前に使おうとしたらしい踏み台があったんだよな。こっちは椅子の座面より低いけど、俺には充分だった。
「ああ、何でも屋さん、本当に大丈夫?」
壊れた椅子と、取り替えた蛍光灯の入った箱を持って一階に下りると、ソファに沈み込むようにしていた寺井さんが飛び起きてきた。
「大丈夫です。寺井さんは落ち着いて──」
「何でも屋さん……」
まだ顔が青い。
俺は苦笑した。寺井さん、もし乗ってる時に椅子が壊れたら自分はどうなってたか分からないし、仕事を頼んだ俺は辛うじて無事だったけど、もしかしたらあのまま落ちて、最悪死んでたかもしれない。そう思うと、なかなか落ち着けないんだろうな。
「──チカちゃんを褒めてやってください。きっと、野生の勘みたいなので椅子が危ないのを分かってたんですよ。だから俺を連れに来たんです。俺だったらなんとかなるはず、って」
まだまだ若いし! とお道化てみても、寺井さんの表情は固い。そんな、泣きそうな目で見られても……。危なかったのは俺だって分かってるんですよ。不可抗力じゃないですか。ああ、それなのに、何だか寺井さん、元義弟の智晴が心配のあまりの理不尽逆切れ心理に陥ってる時みたいな感じに……いやいやいや。
「気持ちが落ち着かないなら、チカちゃんを抱っこしてるといいですよ。一緒に褒めてやりましょうよ」
そっと促して外に出る。チカちゃんは敷地の中では放し飼いなんだよな。玄関ドアを開けると、そこには本人ならぬ本犬が行儀よくちょこんと座って待っていた。まるで会話が聞こえてたみたいだな。
「チカちゃん、すごい勘だなぁ」
頭を撫でると、わんわん! と鳴いて俺の顔をぺろぺろ舐める。常に無い友好的態度だ。いつもは会ってもすれ違うだけだもんなぁ。
「犬の第六感が働いたのか? えらいぞ、よしよし。ほーら、ご主人様は無事だったよ。チカちゃんのお陰だよ」
わふっ、と返事して、今度は寺井さんをじっと見上げ、尻尾をふりふりふり。飛びつきはしないんだよな。チカちゃん、賢いなぁ。
「チカ……」
焦げ茶色の体を抱きしめる寺井さんの顔を、ぺろり、と舐めてくーん、と鳴く。心配だったんだな。
「きっとチカちゃん、俺に助けを求めに来たんですよ。事が起こる前に動くなんて、本当に賢い忠犬ですね、って、あ!」
洗濯物! 早く干さないと臭くなる!
「すみません、俺、早く帰って洗濯物干さないといけないんで、これで失礼します」
「あ、お仕事代」
お財布取って来なきゃ、と焦る寺井さんだけど、まだ顔色良くないから、もうちょっと心を落ち着けて欲しい。そういう心理状態は思わぬ事故を引き寄せるから。そうならないためにも、もっとチカちゃんを抱きしめたり、もふもふしたりすればいいと思うんだ。チカちゃんにはそれが一番のご褒美になるだろう。
俺だって恐ろしい思いはしたけど、これくらいでめげてちゃ脚立で屋根に上れないし、今はそれより何より洗濯物干したい。
「今度、チカちゃんの散歩で会った時にでも!」
言い置いて、走り出す。このところ朝夕涼しいからまだ大丈夫だと思うけど、せっかく洗った洗濯物、臭くなるのは嫌だ。今日はこのまま雨降らないか、それともまた急変するのか。走りながら空を窺う。
お、青い部分がだいぶ増えた。雲のそこここから明るい陽が差す。これは、一週間ぶりくらいの洗濯日和か?
「ありがとう……!」
後ろから、寺井さんの細い声が追いかけてきた。雲間からの光が、まるで真っ直ぐな矢のように目に飛び込んでくる。
雨続きの九月下旬。久しぶりに、太陽を眩しいと思った。