ある日の<俺> 2016年9月14日。 碁敵は憎さも憎し
梅雨とは違う、ひんやりとした湿っぽさ。この間からいる秋雨前線はまだ健在なようで、今日も降ったり止んだり。
雨樋関係の仕事は、外れたのと、落ち葉が詰まったのの二件だけ。少なくて良かった。それにしても、この頃は安心出来ないというか、雨樋を盗まれることがあるらしい。あれかな、墓から銅製の花立てを盗んでいくのと同じ輩の仕業かな。
嫌だなぁ、と心の中で呟いた時、遠くから消防車のサイレンが聞こえてきた。
ウ~カンカンカン ウ~カンカンカン
……火事か。物騒だな。酷くないといいけど……。しかし、あのカンカンカンはやっぱり半鐘の音から来てるのかな。古い物見櫓の小さい鐘。江戸の昔、かの八百屋お七が振袖姿でよじ登って叩いたという……
ウ~カンカンカン ウ~カンカンカン
最初は高い音、だんだんと低い音へ。いわゆるドップラー効果ってやつだな。小火程度で済めばいいな……。
「どうしたんだね、何でも屋さん」
へ?
「次、そっちの番だよ。白」
「あ、はい」
ぱちり、白。
「また嫌なところに……」
ぱちり、黒。
「あれ?」
目を白黒させながらも、ぱちり、白。
「ああ、負けた……」
大仏のご隠居がまた投了してしまった。
「わし、ボケてきたのかな……」
「だってご隠居、今日は全然集中してないじゃないですか」
落ち込んでいるご隠居に、俺はついに指摘してしまった。
「黒番でも白番でも、どっちも負け続けなんていつもならあり得ないでしょうに」
俺、別にそんなに強いわけじゃないし。面白いとは言われるけどさ。
「そろそろ、神崎さんと仲直りしませんか?」
「あやつは“待った”ばかりするから、ダメだ!」
卓球のカットを切るみたいに即答するご隠居、気になってるの丸分かりだ。
「ご隠居だってするじゃないですか、“待った”」
「むう……あれは将棋だから」
「神崎さんだって碁だからですよ」
大仏のご隠居は碁、神埼の爺さんは将棋。たまに呼ばれてそれぞれのお相手を努めていた俺を通じて、茶飲み友だちになったご老人二人だが──。
「俺はどっちもちょぼちょぼだけど、ご隠居は碁のほうが得意でしょう? だけど、将棋は得手じゃない。神埼さんは逆で、将棋が得手で碁は不得手だ。碁でも将棋でも得意なほうが寛大な気持ちで待てばいいと思うんですが」
「だけど、あやつは将棋でも待ったを掛けるんだ……」
「ご隠居もたまに碁で待った掛けるじゃないですか」
──こんなふうに、相手に対してお互いに臍曲げる時があるんだよな。仲がいいのか悪いのか。俺の見るところ、気が合いすぎるのが原因なんだと思うけど。
「そういえば昨日、スーパーで神埼さんちのお嫁さんと会ったんですけど、神崎さん、風邪引いちゃって元気が無いって言ってたなぁ……」
独り言みたいに呟いて溜息をついてみせると、ご隠居、何やら慌ててる。
「──あの日は傘も無駄なくらいの大雨……その中を無理に帰ったから……」
ぶつぶつ言いながら、落ち着かない様子だ。
「今日はこんな空模様だけど、明日の天気は曇ときどき晴だそうですよ……。あ! そうそう、この季節、和菓子が美味しいですよねぇ。戎橋心斎堂の栗きんとん、この間試食させてもらったんですが、すごく美味しかったです。神埼さんは、あそこの栗きんとんが大好物なんですって」
わざとらしく情報を出しながら、横目でちらっと伺うと、ご隠居、無意味に碁石を並べてる。あれ、その石の進め方、将棋みたいですよ?
「神崎さん、部屋で独り碁石並べてぼんやりしてるって、お嫁さん言ってたなぁ。将棋のほうが好きなはずなのに、って」
おかしなお義父さん、とお嫁さんは笑ってた。大仏のご隠居と、またつまらないことで喧嘩したの、すっかりお見通しなんだろうな。
「……えーと。それじゃ、そろそろお暇しますね」
一応暇乞いしたけど、ご隠居さん聞こえてるかな?
明日、お見舞いに行くんだろうな、栗きんとん持って。
大仏のご隠居と神埼の爺さん、寄ると触ると勝負をネタに気短くやり合うのに、ちょっとしばらく顔を見ないと張り合いを無くして、互いに気持ちが間延びしたみたいになるようだ。近づいたり離れたり、光とも音とも違う、それはどんな波なのか。碁敵の熱波か棋友の漣か。定点で観測したら波千鳥のドップラー効果を確認できるかもしれない──。
なんちゃって。
まあ、なんだ。このご老人二人は、喧嘩してるうちが華。
碁敵は憎さも憎し懐かしし
──古川柳
棋友とは得難きものよ逢い難し
──詠み人<俺>