ある日の<俺> 2016年9月9日。 重陽の節句
「おや、何でも屋さん、風流だねぇ」
「え?」
何が? 草むしりを終えて立ち上がったところで、ここん家ご隠居さんに声を掛けられたんだけど、俺が風流?
首を傾げてると、機嫌の良いご隠居さん曰く。
「背中に菊の花が付いてる。今日は重陽の節句だから、縁起がいいねぇ」
「菊? ああ……」
この千代見さん家の庭では、夏菊秋菊寒菊、ほとんど一年中菊の花を咲かせてる。背中に引っ掛かっているというのは、今元気に咲き誇ってる夏菊のどれかの花だろう。
「きっと長生き出来るよ。……とはいっても、知らない人が見たら何だと思うかも知れないから、取っておこうか」
背中向けて、とご隠居が言うので、恐縮しながら取ってもらった。
「すみません……折ってしまって……」
花びらだと思っていたら、ご隠居の手には黄色い菊の頭。さっきその辺りの雑草を重点的にむしってたから、知らない間に折ってしまったのかも……。
「いやいや、一心不乱に草をむしってくれてたのは知ってるからね。軒下のカタバミは、なかなか手強かっただろう」
「はあ。あれは球根でも匍匐でも種でも増えますからね。今日もかなり真剣にむしりましたけど、日を置くとまた出てくるかも……」
ほんと、逞しいよなぁ、雑草。
「菊に手を掛けてると、環境がいいのか雑草も元気でねぇ。見つけたら抜くようにはしてるんだけど、いつの間にか蔓延ってるんだよ」
「いや、まあ。英語では<憎まれっ子世に憚る>を、Weeds never die. って言いますもんね。雑草は決して死なない、って、本当にその通りだと思います」
あはは、と二人で笑いあった。雑草との闘いを知っている人間のみに通じ合う何かがあるな、うん。
「私もこんなふうに膝をやられる前なら、カタバミと戦えたんだが……」
ご隠居は杖をつく手を見つめ、溜息をついた。
「そういう時の何でも屋なので、お気軽にお申しつけください。それにしても、いつもきれいに菊を咲かせていらっしゃいますよね」
俺は千代見さんちの庭を見渡した。
植木鉢には今はまだ早い大菊、冬菊などが植えられていて、夏菊は直植えにされている。色んな色、形の花が面白い。
「婆さんが菊の花が好きでねぇ……身体が弱くてあまり外に出られなかったから、せめて庭にでも菊の花をたくさん咲かせて見せてやろうと始めたんだが……」
先に逝ってしまったなぁ、とご隠居は呟いた。自分より十も若かったのに、と。
「万病を避け、不老長寿をもたらす薬効があるとされているのに、婆さんには効いてくれなかったようだよ……まあ、それが寿命だったんだろうが……」
秋菊が咲き誇る、旧暦の重陽の節句に逝ってしまった、とご隠居は寂しそうに言った。
「お棺の中には、庭中の菊を入れてやろうとしたんだが、さすがに入りきらないし、孫たちが違う花も入れたいというから。死に装束の白い着物が菊の花模様になるように、色とりどりの小菊を裾のあたりに散らして、手には一番立派に咲いた大菊を持たせてやった」
最後には息子たちも孫たちも好きな花を入れたから、一段と派手な花衣になったけれども、と遠い目になる。
「今では、仏壇と墓に供えてやるためだけに菊を造ってるみたいなものだ……」
それもだんだん難しくなってきた、とご隠居は言う。膝が傷むので、花壇も縮小せざるを得ないというのだ。
ん? でも、それなら。
「屈まなくてもいいように、台を使ってみたらどうでしょう。育てられる数は減るかもしれませんけど……」
「園芸用の台か……使ったことなかったから、思いつかなかったなぁ」
「良かったら、俺、作りますよ。植木鉢だけじゃなくて細長プランターだって置けるし。あ、でも。それより園芸用の椅子の方がいいかもしれません。車輪が付いてるから、座ったまま移動出来るんです。かなり楽になると思いますよ。座面も回転するし、高さ調節も出来たはずです」
ただ、そういうタイプの椅子は近くのホームセンターでも売ってるかどうか分かりませんから、一度、息子さんかお孫さんにネットで調べてもらったらいいですよ、と付け加えると、ご隠居はどこか呆れたような顔をしていた。
「……次々とアイディアが出てくるね。すごいな」
「え? そんなことないですよ。ほら、俺何でも屋だから、あちこちで仕事するでしょう。そうすると、色んな道具や色んな便利なもの、見る機会が多いんですよ」
園芸用の椅子は、名探偵のミス・マープルも庭いじりの時使ってましたよ、と言うと、マープルは安楽椅子探偵じゃなかったのかい、とご隠居は吹き出した。
「園芸椅子探偵、って、なんか締まらないですね。でも、ミス・マープルは結構アクティブに出歩いて事件に遭遇してたから、安楽椅子よりも園芸椅子くらいのほうが、気軽な感じでいいのかもしれません」
「でも……そうか。私はちょっと近視眼的すぎたかもしれないねぇ。膝を痛めてしまったからと、そこで諦めてしまっていた。痛いなら、痛くならないように工夫をすれば良かったんだね」
思考の硬直化ってやつなのかな、と苦笑している。
「この手の道具は、知る人ぞ知る、みたいなのが多いですから。俺だって、知らなきゃ絶対知らないと思うんです」
変な言い方だけど、そうなんだよな。知る手掛かりが無いと、知ることすら出来ない。情報は、まず情報を得るところから、って、謎のインターネット情報屋<ウォッチャー>こと、<風見鶏>が言ってた。
俺の言いようが面白かったのか、ご隠居がまた笑ってる。
「きみと話してみて良かったよ、何でも屋さん。今日は庭に出てくるつもりは無かったんだ、膝の調子がすぐれなくて……。でも、部屋の窓から見るきみが、あんまり一所懸命に草むしりしてるもんだから、ちょっと興味が湧いて」
じっと見てたら、屈んでいた俺が伸び上がった拍子に、そこに咲いていた小菊の首がひとつ折れ、そのまま背中に引っ掛かったのだという。
「その黄色い菊の花に、ちょうど向こうの屋根の隙間から太陽の光が当たって、まるで光ってるみたいにきれいでね……つい声を掛けてしまったんだ」
びっくりしただろう、悪かったね、とご隠居さんは頭を掻く。
「いえいえ。風流で縁起がいいなんて言ってもらったし。教えてもらわなかったら、今日が重陽の節句だなんて思い出しもしませんでしたから」
風流からほど遠い、落ち着きの無い毎日を送ってますからね、と俺も頭を掻く。
「ああ! きっと、亡くなられた奥様のお引き合わせだったんですよ。菊の花がお好きだったんでしょう? だからそれを使って」
思いついて両手を打つと、ご隠居は、まさかそんな、と苦笑いしている。
「ああ、だけど……そうだな、婆さん、悪戯好きだったから、それくらいするかもしれない……。最近、嫁にも心配されててねぇ。活を入れたかったんだろうか」
連れ合いに先立たれると、どうにも張り合いが無くて、と呟くご隠居の声には力が無かった。とその時、トンボがついっと飛んできて、ご隠居の頭にとまった。
「あ、トンボ」
「え?」
「頭の上に──あ!」
声に驚いたようにそのトンボが離れると、どこからか、さらに三、四匹のトンボが飛んできた。透明な翅を銀色に輝かせ、ついっ、ついっと夏菊の間を集団になって乱れ飛ぶ。
「──なんか、いいタイミングでトンボが来ましたね」
「まあ、もう秋だからねぇ……」
やっぱり活を入れにきたのかな、とご隠居は呟いた。
「……さっき、きみの教えてくれた園芸用椅子、調べてくれるように嫁に頼んでみるよ」
「それがいいです。亡くなられた奥様は、きっと旦那様の造る菊の庭がお好きだったんでしょうね……」
俺が言うのにご隠居は黙って頷き、しばしトンボの飛び回る庭を眺めていた。微かな風が、そこ
で咲き乱れる菊の香りを運んでくる。
ひんやりと少し寂しい、秋の匂いがした。
今日は重陽の節句。初秋の日差しの中で静かに佇む菊の花を愛でる日。