ある日の<俺> 2016年8月26日。 入道雲と貧血
青い空を囲むようにして、入道雲が湧いている。これは夕方夕立来るかな?
今日の午後は通院の付き添い。波多野の爺さん、貧血になっちゃったんだって。原因は不明らしい。ただ、やたらに疲れやすくて身体が怠くて、最初は夏バテだと思っていたそうだ。
検査するまで全然分からなかったらしいけど……確かに、俺が同じような感じで貧血って言われても、なかなか信じられないと思う。貧血って、何となく女の人がなりそうな感じじゃないか? そんなこと言うと偏見って言われそうだけど。
「予約時間、余裕で間に合いますから、バスにしますか? タクシーはお嫌いなんですよね?」
「そうだなぁ……」
波多野さん、溜息をつく。
「身体が怠くて……病院へ行くより家で寝ていたいものだ……」
「ダメですって。放っておいたらそうやって診察さぼっちゃったでしょう? だから息子さん、出張前にわざわざ俺に付き添いを頼んで行かれたんじゃないですか」
外は暑いから、やっぱりタクシーにしますか? と訊ねても、返事ははっきりしない。
「鉄分の多いもの食べて、安静にしてればいいのではなかろうか」
またー。そんな幼稚園に行きたがらない子供みたいにぐずって、もう。
「これまでと同じ食事を摂っているのに、急に貧血になったから病院へ行かないといけないんじゃないですか」
「だけど、検査の結果には異常は無かったし……」
「だからこそ注意が必要なんですよ」
胃から出血してるわけでも、血便血尿が出たわけでもない。他の怖い病気の兆候も無いし、本当に原因が不明らしいんだよな。でもその不明なところが不気味なんだよなぁ。
「……」
波多野さん、黙ってしまった。
ま、原因、といってもいいかもしれないこと、あるんだよな。波多野さん、去年の暮れに四十年連れ添った奥さんを亡くしたんだそうだ。息子さんによると、当時は酷い気の落としようだったらしい。
この春くらいにようやく気を取り直し始めたところで、同居のお孫さんが地方の大学に進学。その辺りから少しずつ体調に異常を来たし始めたらしい。息子さんは出張が多いし、奥さんとは既に死別しているという。そうなると、波多野さんは家に独り。周囲の人的環境の激変に、ものすごくストレスを感じているんじゃないだろうか。息子さんはそう言っていた。
「波多野さん、犬好きですよね?」
「あ? ああ……」
好きだけど、亡くなった奥さんが犬の毛アレルギーを発症して飼えなかったって聞いてる。
「もう少し涼しくなったら、運動がてら犬と一緒に散歩してみませんか? 大きなグレートデン、俺が連れてるの見たことありませんか? よく散歩を任されるんですよ」
「ああ、遠目にしか見たことないけど、あの犬は大きいな……」
「あのグレートデンはね、伝さんていうんです。一見怖そうだけど、とても温和しいいい犬なんです。他にも柴犬のシーバちゃんや、フレンチブルドッグの文さんや、セントバーナードのナツコちゃん……ちょっとやんちゃな子もいますけど、犬好きなら、どの子も見てるだけでも楽しいですよ」
「犬か……。好きだけど、飼う機会が無かったな……」
友人宅の犬をよく撫でさせてもらったな、と波多野さんは呟く。
「あの犬は雑種だったか……賢い犬だったな」
あんな犬、飼ってみたかったな、と溜息をついている。よし!
「実は、うちの顧客さんのところで、もうすぐ仔犬が生まれるんです。柴犬なんですけど、生まれたら飼い主を募集するって聞いてます。どうです、波多野さん。柴の仔犬の飼い主になってみませんか?」
「柴犬……」
「わりと飼いやすい犬種です。きちんと社会性を身に着けてからの仔犬なら、さらに飼いやすくなりますよ。犬といえど、命を預かるって大変なことだけど、その甲斐は充分あります。どうです?」
良かったら考えてみてください、と言うと、また黙ってしまった。でも、今度の沈黙はさっきと違って前向きな感じだ。
「さ、そろそろ病院に行きましょう。犬を飼うにはそれなりの体力がいりますよ。早く元気にならないと」
「そうだな……そうだな、何をするにしても身体が丈夫でないとな」
「そうですよ。身体が資本。俺、いつもそう思って健康を心がけてるんです」
でも、やっぱり風邪引いたりはしますけどね、と言うと、波多野さん、笑ってくれた。
「ちょっとバス停まで歩いてみるか……」
「ええ。ゆっくり行きましょう。帽子、被りましょうね。俺、前に熱中症で倒れたことがあって。夏は暑さ対策が大切だと悟りましたよ」
「そりゃ大変だったね、大丈夫だったかい?」
話しながら戸締りするのを見守って、一緒に歩き出す。アスファルトが熱い。
「お陰さまで。その前からエアコンが故障してたのも大きいんですが、倒れたのは今日みたいに入道雲の発達した暑い日でねぇ。それなのに帽子被ってなかったんですよ」
「そりゃあ迂闊なことだ。入道雲は太陽の眷属だからな」
やつら、どうやってこっちを焦がしてやろうかと見張ってるんだよ、と冗談を飛ばす波多野さんに、思わず笑ってしまう。
もしも寂しさがその身体を蝕んでいるのだとしたら、犬を飼うことはとてもいい薬になると思う。病は気からというし、少しでもこの人が元気になれるといいな。