ある日の<俺> 2016年8月24日。 猫の舌
俺は見た。見てしまった。
昼飯食べに戻った午後十二時四十分。朝、テーブルに置きっぱなしで出かけた水の入ったガラスコップに覆いかぶさる、その影。
ぴちゃぴちゃぴちゃ……
居候の三毛猫が、舌を伸ばして水を飲んでいる。
ぴちゃぴちゃぴちゃ……
「こらっ!」
三毛猫は、上っていたテーブルから飛び降りて、ぴゃーっと走って風呂場に逃げて行った。
「……」
残されたコップ。その中には、下からほんの一、二センチくらいしか水が残っていない。ちゃんと猫用の皿にきれいな水を入れてやっているのに、何でわざわざ猫的に飲みにくい形状のはずのコップの水を飲むのか。
それにしても、縦長のコップの、底にまで届こうかというあの長い舌はどういうことなんだ。普段、皿から水を飲む時はあんなに伸ばしてないと思う。その姿はなんだか、まるで……。
妖怪──!
ぺろっ、じゃなく、べんべろべーんと伸ばした、異様に長い舌。やつの正体が実は猫又だと言われても俺は驚かないと思う。
「……」
怖いこと想像してしまった。夜中、俺が熟睡してる間に、あの舌で顔とか舐められてたらどうしよう。俺、味見されてる?
ここは、昔見た『まんが日ノ本昔話』で見たエピソードを見習って、釜の蓋と絶体絶命の時しか使っちゃいけない予備の鉄砲玉を用意しておくべきだろうか……。
「にゃん?」
ほとぼりが醒めたと思ったんだろうか、三毛猫が風呂場から出てきて餌を催促する。そんな可愛い顔して人外ならぬ、猫外なのかお前は。そりゃ、こいつは世にも珍しい雄の三毛猫だけどさぁ……。
餌は入れてやったし、水も取り替えてやったのに、俺が昼飯作るのに使ったサラダオイルの蓋、舐めてた。行灯の油の代わりだろうか。
俺、そのうち化け猫の祟りで乱心するのかもしれない。──なぁんて冗談に決まってるのに、夕刻、暗くなってからの犬の散歩時に出会った会社帰りの赤萩さんに、ものすごく引かれてしまった。なんでそんなにドン引き。
「ね、猫が夜中に顔を舐めるのはそういう意味ですか?」
そっちか。
赤萩さんはこの春から豆狸という名の猫を飼っている。
「いや、ただの想像というか冗談ですよ。そんなんだったらどうしよう、みたいな。俺は顔を舐められたこと無いです。ただ、猫が人間の手とか舐めるのは毛繕いのつもりらしいですよ」
「俺、たまに豆狸に舐められて目を覚ますんですが……」
「それ、餌のおねだりじゃないですか?」
「あ、そういえば、そんな時はだいたいにゃんにゃん鳴いて、餌入れの前まで走っては俺の顔を見ます。だからカリカリを入れてやるんだけど……何だ、味見じゃないんですね」
「……」
この人は、猫が怖いんだか好きなんだか。この辺りに越してくるまで猫に縁が無く、野良猫の発情期の声を「赤ちゃんの出てくるホラー映画を見たせいで聞こえてくる、赤ちゃんのホラーな泣き声」と思って怯えるくらいだったのに、今年はいきなり猫を飼っている。それなのにまた冗談を真に受けかけて……。
「猫って、たまにちょっと変だけど、可愛がってくれてる人に害をなしたりしませんよ。この間だって、豆狸ちゃんのお陰で怖い夢から逃れられたでしょう?」
「そういえば。疑ってゴメン、豆狸……」
なんか、しゅんと反省している。実家でずっと犬を飼ってたというから、犬と猫の違いに未だ戸惑っているのかもしれない。
「猫って分かりにくいから不気味、という人もいますけど、犬と同じくらい分かりやすいですよ。そのうち、慣れますって。案外お馬鹿だし」
賢いのもいるけど、賢いお馬鹿だったりする。お馬鹿だけど賢いのもいるし。
ただ。
「猫の舌は、実は暑い時の犬並みに伸びます」
それはもう、にゅうっと。そう言うと、赤萩さんは「猫って、素で化けてるみたいなものなんですね」と妙な納得の仕方をしていた。
うん、まあ多分。その認識で合ってると思う。猫はとっても不可思議ないきもの。