ある日の<俺> 2016年8月18日。 熱中症ヲ阻止セヨ! 後編
水分と電解質分、摂ってもらわないと熱中症まっしぐらだから、いらないって言わないでください。
「いいや……ただ、疲れは自覚したかな。冷静になったともいえる」
昔は頭が朦朧となりながらもシャトルを追っていたような気がするよ、と古尾谷さんは呟いた。
「あれも夢中っていうのかな。あの頃はバドミントン以外何も目に入ってなかった気がするな。……どっかで、水、飲むべきだったんだろうか……」
体育館の開け放った出入り口から下窓へ、温い風が吹きぬける。外の狭いグラウンドには人影も無い。
「高校時代、俺とダブルス組んでたやつがいてなぁ……」
そんなことを語り始めた古尾谷さんの目は、どこか遠くを見ていた。
「お互い、何でこんなやつと組まないといけないんだろう、って思ってたくらい気が合わなかった。しょっちゅう言い争いして。それでも、技量的に釣り合う相手が他にいなくてなぁ……」
どちらもシングルスでやりたいと思っていたけど、他校には強豪が何人もいて、個人の実力ではどちらも試合では上位に行けないだろうとコーチにも顧問にも言われていたという。
「だけど、その区域はダブルスのレベルが全体的に低かった。そして俺たちのペアはその中では断トツに強かった。仲は悪かったのにな。だからペア解消して他のやつと組むことも、シングルスに転向することも許してもらえなかった」
あの頃は部活に行くのが辛かった、と古尾谷さんは視線を落とした。
「最後の大会、俺たちは終始無言だった。口もききたくなかった。ただ、試合には勝たないといけないから、お互いの動きには神経を研ぎ澄ませていた。後ろに聞くシューズの擦れる音、息遣い、対戦相手の動きに反応する気配。──同じように、相方は後ろから俺の動きと相手の動きを視界に収めて、常に対応出来るように気を張っていただろう」
俺の後姿を見れば、筋肉の動きやクセで、次にどう動くかは百パーセント分かると、あいつは言ってたな、と微かに笑う。
「だから、俺たちはフェイントが上手かった。俺がカットすると見せかけて、対戦相手がそれに反応しかけたところで、相方が後ろから走りこんで強烈なやつを決める。俺たちはこれを試合中に何の合図も無しにやった」
息が合わないように、息を合わせてたっていうのかな、と呟いて、古尾谷さんは息をついた。
「俺たちのペアは優勝した。偶然同じ大学に進学することになってたから、周囲はそのまま大学のバドミントン部に入ってペアを継続するつもりだと思ってた。だけど、俺も相方もラケットを捨てた。大学の先輩たちはしつこく俺たちをバド部に勧誘したけど、どっちも全然違う部活に入った」
ペア解消も、シングルス転向も、どんなに願ってもさせてもらえなかったバドミントンが心底嫌になってたんだ、と唇を歪める。
「相方もきっと同じだったんだろうな。やつは運動部から一転、文化系の写真部に入った。俺は弓道部に。部活も違えば学部も違ったから、遠目に見ることはあっても、顔を合わすこともなかった。それっきり言葉を交わすこともなく、この年まで来たよ」
同窓会にも、バドミントン部のOB会にも、一度も行ったことは無いんだ、と古尾谷さんは言う。
「一昨日、街で高校時代の同級生とばったり出くわしてな。そいつは相方の幼馴染だったんだが、そいつから聞いたんだ。去年事故で息子を亡くして以来、相方は半分死んだみたいになってるって。嫁さんは二十年も前に亡くなっているらしい。──俺はそんなこと何も知らなかった。俺がそうだったように、相方だって今もそれなりに幸せにやってるんだと思ってた」
握った拳を、どこにもやり場が無いように床に落とし、低い声で続けた。
「俺はあいつと気が合わなかった。あいつも俺と気が合わなかった。だからといって憎んでいたわけじゃないんだ。あいつもきっと同じだろう。きっと、そう……俺たちは似てた。似過ぎていた。だから……」
「何だか、双子みたいですね」
俺はついそう言っていた。
「俺にも双子の弟がいて──数年前に死んでしまったんですが、一卵性だったもので、もう笑っちゃうくらい色んなとこが似てました。顔も声も好みも……まあ、弟のほうが出来は良かったんですけどね。でも俺たち、似ていることは気にならなかったんです。だって双子だから似てて当たり前だと思ってたから。だけど、それがもし赤の他人だったら……? 似過ぎてて、こいつ嫌だ、と思ったかもしれません」
「双子か……」
古尾谷さんは呟いた。
「全くの他人なのに、故無く双子のように感じ方、考え方が似ている……そうか、そうだな、そう考えるとあの頃のあの苦しいまでの反発心が理解出来なくもないかもしれん。単純に言えば同属嫌悪、だけどそんな簡単なものじゃなくて──」
「精神的双子、みたいな感じなんでしょうか?」
思いついて言ってみると、古尾谷さんはゆっくりと頷いた。
「……言い得て妙だな。でも、俺たちは双子じゃなかったんだ。だからこそ、なのかもな……まあ、十代の多感な頃のことだ。お互いの反発心はそれだったのかもしれない。あれから五十年か……俺たちあんなに気が合わなかったのに、未だに思うよ、俺の背中を預けられるのは、あいつだけだって」
鏡合わせみたいだな、と呟いている。
「こちらが前を向けば前を向き、後ろを向けば後ろを向く。──俺は五十年ぶりに前を向いてみることにしたんだ。あいつと向き合うと決めた」
あの頃は、顔も見たくなかったのにな、と古尾谷さんは自嘲する。
「あの向こうっ気の強いやつが、半分死んだみたいに呆けてるって? 許せない、そんなこと。逆の立場なら、あいつも俺を許せないだろう。だから、またバドミントンをやる。そう決めた。今度は俺があいつの背中を守ってやる。二人でシニアの大会に出るんだ。そのためには」
古尾谷さんは強い眼差しで俺を射抜いた。
「昔の勘を取り戻さなければならない。何しろ、半世紀ぶりだからな。さあ、休憩は終わりだ。つき合ってもらうよ、何でも屋さん」
ひ~! なんか、瞳に炎がメラメラと燃え盛ってるように見えるよ。動くのに邪魔な保冷剤巻きのタオルを返して来る。
それを受け取って保冷剤だけをクーラーボックスに戻した俺は、今度はクールマフラータオルを取り出した。小さい保冷剤を入れるポケットのついたタオル地のミニマフラーで、ズレないようにマジックテープで着脱出来るようになってる。
「おつき合いしますから、今度はこれ巻いてください。俺も巻いて頑張りますから!」
ストップ・ザ・熱中症。古尾谷さんの話を聞いて、その志を応援したくはなったけど、五十年前の夏と今時の夏の違いがまだ頭で分かってないみたいだから、身体のほうがギャップに負けて白旗を揚げる前に、まず予防。体温の上がりすぎを阻止してみせる!
「──最初からこれを付けさせなかったのは、娘の懸念を理解させるためか」
ずばっと言われて、思わずこくこく頷いていると、はぁっ、と大きく溜息をついた。
「確かにな、初めにこれを出されたら、こんなもんいらんで終わってただろう。あんた、なかなかに策士だな、何でも屋さん」
昔とは暑さの種類が違うのは、よく分かったよ、と古尾谷さんは頷く。
「休憩はあんたの指示に従うよ。あいつを引っ張り出してやる前に、俺が倒れてなんかいられないからな」
理解してもらえた! 俺は心の中でガッツポーズをした。今日はこのまま緊張を維持するぞ。古尾谷さんの顔色と動き、自分自身の体調にも常に気を配るんだ。お互いの熱中症フラグを全て叩き折ってみせる!
──その後。昔の勘を取り戻しつつある古尾谷さんに、俺はコテンパンにやられた。あのスマッシュは強烈すぎるだろう……。明日は午前中、スポーツ用品店回りにつき合うことになっている。新しいラケットとシャトルを買うんだそうだ。
明日も今日のように暑いはず。熱中症は阻止せねば!
夏の緊張はまだまだ続く。