ある日の<俺> 2016年8月14日。 山名さんとムーサくん
山名さんとジャーマン・シェパードのムーサくん。初出はこちら。
「ある日の<俺> 2016年8月9日。 犬好きは手が語るに落ちる」
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夕方から雨。
何だかいつもより空が暗いなぁ、と思っていたら降ってきた。折り畳み傘持ってて良かったな。それにしても、夕立、というほど爽快な感じがしない。普通に雨。おかしな言い方だけど。
すぐ止むかな、もっと降るかな、うーん。
旅行や里帰りのあいだ、庭の水遣りを頼まれてるお宅が何軒かあるんだけど、こういう雨には悩んでしまう。それなりの降水量なら水はやらなくていいんだけど、表面が濡れる程度の量だとやっぱり遣っておかないといけない。インナー・ドライってやつだ。
うちの屋上プランター菜園なら、水が足りてる足りてないはよく分かるんだけど、よそ様の庭はその辺りの勘が働きにくいからなぁ……。
うーん。
もうちょっと様子を見よう。そう思いながら歩いてた、頼まれ物の買い物を届けた後の帰り道。向こうから歩いてきたのは山名さん……と、ムーサくん。
え?
「山名さん?」
「ああ、何でも屋さん」
眉をハの字にしながらも、なんとかムーサくんのリードを握っている山名さんは、何故か折り畳み傘を差さずに広げ、柄を短くして持って歩いてる。
「触れるようになったんですか?」
山名さんは「毛のある生き物」が苦手で、メイン飼い主の奥さんがいない間、何でも屋の俺がムーサくんの散歩を引き受けてたんだけど。
「いえ、触れません……」
ムーサくんが山名さんのほうを向こうとすると、山名さん、傘で盾のようにガードした。開いた傘に鼻先がぽわんと当たり、ムーサくんは「わふーん」と鳴いている。
「触れないけど、今日は空が曇ってきたあたりからクンクン鳴き出して。散歩に行きたくなったのかな、って……。でも、何でも屋さんが来る時間までにはまだ時間があるし、それで……」
傘でガードしながらの散歩を思いついたという。
「一応、先に開いた傘を見せて、これでムーサを虐めるんじゃないよ、散歩に行くんだよ、って言い聞かせたんです。リードを付け替える時も、間に傘を入れて毛に触らないようにして……傘越しにリードを握ったら、ムーサがなんだか普通に歩き出したんで、いけるかな、と」
いけるかな、と思ったら、本当にいけた。でも雨が降ってきて、一人と一匹でずぶ濡れになったと。
「山名さん、ムーサくんを可愛がってますねぇ」
「いや、その……可愛いとは思うんですが、やっぱりその……」
触るのは怖いらしい。ムーサくんが怖いんじゃなくて、毛が怖い、と。
「散歩は何とかこなしたんですが、雨に濡れたから、その、拭くのが……」
拭こうとしたら、触らずにいるのは難しいよな。
「良かったら、今ここでリード持つの交代しましょうか。で、お宅までムーサくんを連れて帰って、俺が濡れたの拭きますよ」
「本当ですか! 助かります。だけど、時間は大丈夫ですか?」
本来の散歩予約時間はもう少し先だからな。だけど。
「雨が降ってるから大丈夫です」
うん。さっきから雨足が強くなってる。これで今日は水遣りの必要が無くなったから。雨……? と呟きながら不思議そうに目を瞬かせる山名さんに、庭の水遣り仕事をしなくて良くなったんです、と説明する。
「じゃあ、リードを」
「はい!」
俺の差し出した手にリードを渡して、ささっと離れ、膝に手をついて深呼吸してる山名さん。──緊張してたんだなぁ。それはともかく。
「もう大丈夫だから、傘差しましょう」
本来の使い方を忘れているらしい。風邪引きますよ、と注意する。
「あ、ああ、そうでしたね……」
言われてようやく気づいたようで、慌てて傘を差している。大丈夫か。ちょっと心配だ。
「それにしても、思い切ったことしましたねぇ。まさか、触るの通り越していきなり散歩をこなすとは思わなかったですよ」
すごい進歩じゃないですか、と讃えると、
「妻の不在のせいか、元気が無かったから……」
可愛そうでね、と山名さんは気弱に笑った。
「奥さん、今夜でしたっけ、戻られるの」
「はい。九時ごろかな。何でも屋さんにはお世話になりました」
「いえいえ。こちらこそ、声を掛けてくださってありがたいです。だけど、」
次に奥さんが旅行に出られる時は、もう俺の出番は無さそうですね、と言うと、いやーどうでしょう……、と山名さんは困ったように笑った。
うーん、なかなか手強いけど、ご主人様のご主人が撫で撫でしてくれる日は遠くない、はず。頑張れ、ムーサくん!
雨を弾いてつやつやの毛に覆われた頭を撫でてやると、ムーサくんは、わふん! と鳴いて俺の手を舐め、元気良く尻尾を振ってくれた。