ある日の<俺> 2016年8月11日。 夢に追われて 中編
「別段どこにも異状は無いって言われました。疲れから来る不眠じゃないかということで、安定剤をもらったんですけど……」
やっぱり嫌な夢を見るという。
「いつからですか?」
「いつからだろう……」
赤萩さんは首を捻って考えている。
「二週間ちょい前くらいから、かな?」
最近ぼーっとしてて正確なところは分からないですけど、だいたいそれくらいです、と答える。
「何か思い当たるようなきっかけとかはありませんか?」
「うーん……」
やっぱり心当たりは無いと赤萩さんは言う。と、豆狸ちゃんが俺に擦り寄り、「にゃん」と鳴いたかと思うと隣の部屋に通じるドアに近づき、カリカリと引っ掻き始めた。
「もう、ダメ! 豆狸」
赤萩さんが豆狸ちゃんを捕まえる。
「どうしてそういう悪いことするの。メッ!」
「あはは。猫はねぇ……」
思わぬところで爪研いじゃうからなぁ。
だけど、赤萩さんは首を振った。部屋に設えてあるキャット・タワーの足元にある爪研ぎを指さす。
「いや……前はあそこでしかやらなかったんですよ。なんでかここ最近急にこのドアを引っ掻くようになって」
ん?
「それってどれくらい前からですか?」
「え……? そういえば」
二週間ほど前。赤萩さんはそう呟いて、あれ? と首を傾げた。
「赤萩さん……あっちの部屋、何かあるんですか? 寝るのは向こうの部屋?」
「いえ……ベッドはあっちに置いてるんですけど、暑くなってきてからは豆狸のためにこっちでエアコンつけっ放しにしてるでしょ? だからあのソファベッドで寝てます」
壁際に寄せてあるアイボリーのソファベッドには、確かに薄い夏蒲団が畳んで置いてある。──うーん。
「あの……不躾ですけど、向こうの部屋、見せていただくわけにはいきませんか? 何だか豆狸ちゃんの反応が気になって……」
赤萩さんが変な夢を見るようになった時期と、豆狸ちゃんが急にあの部屋のドアを引っ掻くようになったという時期が一致するのが、何だか気になる。
「はあ……別に、ベッドを置いてるだけですから……」
そう言いながら、赤萩さんは戸惑ったようにドアを開けてくれた。俺も続いて中に入ると、遮光カーテンを下ろしたままのようで、薄暗い。冷やされていない空気がもわっと絡みついてくる。
「うわ、こっちドア閉めてるから、暑いな」
たまに空気の入れ替えはするんですけど、やっぱり籠もりますね、と窓を開けに行く赤萩さん。その手がカーテンを払うと、一筋の光が差す。あ! あれ……。
「あの、赤萩さん」
俺、気づいてしまったかも。
「何ですか?」
カーテンを完全に開けてしまい、窓に手を掛けて赤萩さんは振り返る。強くなってきた朝の光が眩しい。
「もしかしたら、──電車じゃないですか?」
「電車?」
逆光の中、不思議そうに訊ね返してくるのに、俺は頷く。
「俺、電車だと思うんです。夢の中で、あなたを巻き込んだり撥ね飛ばしたりする、何か」
そう言って、俺は斜めに朝日を受ける部屋の壁を指差した。そこには、新聞紙の片面くらいの大きさの、ステンレス・スチールの額縁が立て掛けてある。
「あれ、線路でしょう?」
フレームの中には、真正面から見た線路の写真。おそらく、踏み切りの真ん中に立って撮ったであろうもので、手前から奥に向けて八の字の形そのままに線路が狭まっていくように見える。何かの生き物みたいに僅かにうねくり横たわる一対の鉄の軌道と、枕木。それを埋める小石。
今にも向こうから電車が走ってくるかのような大迫力だ。
「……線路?」
じっとフレームを見つめる赤萩さん。
「電車……!」
声を上げ、バッと俺の顔を見た。
「そうだ……あれ、電車だ……」
そう呟く赤萩さんの足元で、豆狸ちゃんが「にゃー」と鳴いた。