ある日の<俺> 2016年8月11日。 夢に追われて 前編
ジャーマンシェパードのムーサくんとの散歩に、今朝は山名さんがついてきた。
昨日の二度目の散歩の時には、まだムーサくんと一緒に歩く決心がつかなかったらしいけど、それでも途中まで迎えに来てたし。まだ触れないにしろ、今日か明日には後ろからついて来るくらいにはなれるんじゃないかな、と思ってたんだ。ふふ、予想どおり。
ムーサくんも心なしかうれしそうだったなーと思いつつ、今日も眩しくなるだろう太陽を感じながら歩いてたら、あれ? また豆狸ちゃんを連れた赤萩さん。最近眠れないって昨日もふらふらだったし、祭日なんだからゆっくり朝寝すればいいのに。それとも、今日も出勤なんだろうか?
「おはようございます、赤萩さん」
「あ……」
何でも屋さん、と言おうとして、赤萩さんはよろけた。お、おい、大丈夫か。慌てて走り寄ると、赤萩さんはなんとか自力で体勢を立て直していた。豆狸ちゃんが「にゃー」と鳴く。リードを変に引っ張られて迷惑だったんだろう。
「ホント、大丈夫ですか、赤萩さん。今日もあんまり眠れなかったとか?」
「いや、ははは。魘されてたら豆狸が起こしてくれて」
赤萩さん、しゃがんで豆狸ちゃんを抱っこ。な、ありがとな、とか話しかけてる。豆狸ちゃんは知らん顔。ま、猫ってそんなもんだ。
「今日はお休みじゃないんですか?」
「休みですよ。だからゆっくり寝たかったんだけど……」
はあ、と溜息をついてる。昨日よりも消耗してるなぁ……。
「今はまだいいけど、もう少ししたら気温が上がってきますよ。そんなに具合が悪そうなのに、遠出はしないほうが……」
豆狸ちゃんを肩に乗せた赤萩さんは、そうですね……、と言いながらふらふら。その豆狸ちゃんが俺の顔を見て、にゃんにゃか鳴き出した。
「どうしたんだい、豆狸ちゃん?」
にゃんにゃかにゃかにゃか。
「なんだろ? 俺に抱っこしろって言ってるのかな?」
そう言ったら、赤萩さん「あははー」と笑いながらやっぱりふらふらしてる。ダメだこの人。俺が手を伸ばすと豆狸ちゃんはぴたりと鳴き止み、赤萩さんの肩からするりと降りて、俺の足元にすりすりし始めた。その背中を撫でてやって。
「方角、俺こっちからでも帰れますし。送っていきますよ。今日は伝さんの散歩がないから余裕があるんです」
いま目を離すと、この人アスファルトの上で倒れそう。豆狸ちゃんもそう思ってるんじゃないかな。
「伝さんて、あの大っきな犬ですよね……。グレートデンでしたっけ?」
「そうそう。大きいけど、伝さんは温和しいんですよ」
そんなことを話しながら歩くと、数分で赤萩さんのマンションに着いた。エントランスの前で別れようとすると、また豆狸ちゃんがにゃんにゃかにゃかにゃか。
「……部屋の前までお送りしていいですか? 豆狸ちゃんが心配そうにしてるし。相当顔色悪いですよ、赤萩さん」
「えー、そうかなー……あはは……」
やっぱり送っていこう。
俺が豆狸ちゃんを抱っこして、赤萩さんと一緒に玄関ホール脇のエレベーターに乗り込んだ。機械の唸りを聞きながら、赤萩さん虚ろな目をしてる。本当に大丈夫かこの人。──病院で診察受けたほうがいいんじゃないかな……。
「ここです……」
エレベーターから降りて、一つ二つ三つめのドアの前で立ち止まった。鍵を開けて、せっかくだからお茶でも飲んでいってくださいよ、と力のない声で言いながら赤萩さんは誘ってくれたけど、本人がふらふらだし遠慮しておこうと思ったら、また豆狸ちゃんがにゃかにゃかにゃんにゃか。
「ん? 豆狸ちゃん、どうした? ──飼い主さんが心配なのかい?」
にゃー、と鳴いて、俺の足にすりすりすりりん。なんか「寄っていきなさいよ」と言ってるみたいで、俺はやっぱりちょっとだけお邪魔することにした。豆狸ちゃんが先導するみたいにするりと中に入っていくから、慌てて靴を脱いでその後を追っていくと、キッチンらしきところから赤萩さんが現れた。ペットボトルに入ったお茶とグラスを盆に載せている。
「こんなのしかありませんけど……どうぞ……」
八畳くらいの洋室にあるお洒落なガラステーブルにそれを置くと、赤萩さんは、あ、そうだ、と呟きながら、開け放っていた窓を閉めてカーテンを引き、エアコンのスイッチを入れた。豆狸ちゃんのために常時弱冷房を入れているのだという。
「今日はあんまり夢見が悪いもんだから、空気を入れ替えようと思って……」
ふう、と赤萩さんは息をついた。グラスを両手で持って、ちびちびとお茶を飲んでいる。俺も一口飲んで喉を潤した。豆狸ちゃんは、と見ると、部屋の隅に置かれた猫皿からぴちゃぴちゃと水を飲んでいる。それを眺めながら、なんとなく気になっていたことを聞いてみた。
「それってどんな夢なんですか? いつも同じ夢?」
赤萩さんは、そうですね……、と床を見ながら答える。
「同じ夢です。真っ暗な中で急に身体が動かなくなって、黒くて大きな何かに巻き込まれたり、撥ね飛ばされたり──」
魘されてると豆狸が起こしてくれるんです、と赤萩さんは水を飲んでる愛猫に目をやった。
「豆狸がいなかったら、俺、頭がおかしくなってたかもしれない……」
「病院へ行ってみましたか?」
赤萩さんは力なく頷いた。