ある日の<俺> 2016年8月9日。 犬好きは手が語るに落ちる
早朝、五時半。インターフォンを押して待つ。
──はい……
「おはようございます」
──あ、何でも屋さん。そんな時間ですか。
眠そうな声とともに、重々しいゲートが開く。俺はその中に入り、奥の玄関ドアが開くのを待った。
「おはようございます。すみません、つい起きられなくて……」
寝巻き姿でそこから現れたのは、この家の主人、山名さん。
「じゃあ、ムーサくんを散歩に連れていきますね」
「お願いします」
挨拶を終えたので、俺は裏庭に回った。きれいに敷かれた玉砂利の奥に、芝生と背の低い植木に囲まれた水盤があり、そこには桃色の睡蓮が花を浮かべている。ジャーマンシェパードのムーサくんは木陰に設置された小屋から出て、尻尾を振って俺を待っていてくれた。
「ムーサくん、おはよう」
ふんふんと匂いを嗅いでくるので、そっと手の甲を差し出すと、桃色の舌でべろんと舐めてくれる。
「今日もお散歩、行こうな?」
そう言って散歩用リードを見せると、とたんに喜び出す。ムーサくんとはまだ昨日の夕方からのおつきあいだけど、俺のことは気に入ってくれたみたいで何よりだ。喜びのあまり飛びついてくるのをよしよしと宥めながらリードを付け替え、引っ張りぎみに歩こうとするのを何とか抑えながら散歩に出掛ける。
「この時間はまだ涼しいなぁ」
「わふん!」
「これから日が上がるとじりじり暑くなるねぇ」
「わん」
「ムーサくんのお家は木陰だし水場もあるし、過ごしやすそうだね」
「ふんふん!」
力強くどんどん歩くムーサくんとなんちゃってコミュニケーションしつつ、競歩のように歩いてここからは近い公園コースを目指す。
「ムーサくんのママ、早く帰ってくるといいね」
「ふわん……」
ムーサくんの世話は、普段奥さんがしてるんだそうだ。親戚の家で生まれた仔犬のうちの一匹をもらい受けたという。だけど、ご主人の山名さんは犬が苦手で……。嫌いなんじゃなくて、毛の生えた生き物全般がなんかダメ、らしい。居るのは構わないけど、触りたくないとか。
そんなわけで、奥さんが数日旅行に行く間の散歩を何でも屋の俺に依頼することにしたのだそうだ。奥さんは旦那さんの苦手が分かってるから、ペットホテルに預けようと考えてたらしいんだけど、急に環境が変わるのはかわいそうだと旦那さんが止めたんだそうだ。散歩さえ誰かに頼めるんなら、餌と水くらいは取り替えてやることが出来るから、と。
苦手は苦手だけど、うちの飼い犬だし、かわいいと思う気持ちはあるんですよ……と、山名さんは力なく笑ってた。でもやっぱり毛の生えた生き物は触れないらしい。ま、そういう人もいるよな。きっかけ次第じゃないかなー、とは思う。情はあるんだし。
「な、ムーサくん。いつか山名さんと散歩に行けるようになればいいな」
「わふんわん!」
さて。次はグレートデンの伝さんと散歩だし、山名さんの出勤時間も近づいてきたから、間に合うように戻らなきゃ。
急ぎつつ、でもたっぷり運動して山名邸に戻ってくると、出勤スタイルの山名さんがムーサくんの餌と水を新しくしてるところだった。
「あ、すみません。戻ってくるの遅かったですね」
慌てて謝ると、山名さんは首を振った。
「いえいえ、そんなことないです。居ない間に用意しておこうと、早めに行動を……」
わふふわふふと喜ぶムーサくんを山名さんに近づけないようにしつつ、リードを庭用の鎖に付け替える。しゃぷしゃぷ美味そうに水を飲むムーサくん。それをじーっと見つめる山名さん。
ん?
「撫でてみます?」
俺が声を掛けると、ハッとしたように山名さんは顔を上げ、首を振った。
「いや、私は……」
だって、手が「わきわき」のうち、「わき?」みたいな感じで動いてましたよ? そう言うと、山名さんはちょっと恥ずかしそうに自分の手を見た。
「ムーサくん、ご主人のこと好きみたいですよ。唸られたり吠えられたり、敵意を向けられたこと、無いんじゃないですか?」
「いや、その……」
「賢いのか、飛びついていい相手とそうでない相手は考えてるみたいだし。奥さんの躾がいいんでしょうね」
俺は犬好きオーラ全開で「カモーン」てな具合で接してるからちょっと飛びついてくるけど、山名さんには遠慮してるのが分かる。この家のボスと認めてるんだろうな。それに、自分のこと嫌われてないのも分かってるみたいだ。
「よかったら、今日の夕方の散歩、一緒に行ってみませんか?」
「え?」
なんか、ぽかん、とした顔で俺を見る山名さん、その発想は無かった、みたいな表情をしている。
「もちろん、ムーサくんのリードは俺が持ちますよ。山名さんのほうに行かないようにしますし。昼間はすごく暑いけど、夕方の六時ごろともなればわりと涼しいんです」
山名さんは駅前の何事務所だったかな? なんかお堅い感じのところで働いてるらしいんだけど、そのくらいの時間には帰ってこれるらしいんだよな。夕方のムーサくんの散歩、何時に迎えにくればいいか聞いた時にそう言ってた。
「ムーサくん、可愛いでしょ?」
「……」
山名さん、悩んでる。でも、手がまた、わき? って動いてる。
「ま、そのくらいの時間になったら来ますので。考えておいてください」
そう言って会釈し、返事を待たずに俺は山名邸を出た。
さあ、どうするかな、山名さん。ムーサくんに触れるようになるの、時間の問題だと思うんだけど。
青さを増していく空を見ながら、俺はにんまり笑った。