ある日の<俺> 2016年4月30日。 お祖母ちゃんのピアノ
今日の空は輝く青。爽やかに風薫る五月──にはまだ一日早いか。
世間では昨日からゴールデン・ウィークだけど、俺にはあんまり関係無い。ことも無い。頼まれる犬の散歩が減ったり、増えたり。初めましての犬もいたり。
そして、初めましてのお客さん。
「それはちょっとお引き受けできかねます」
俺は頭を下げた。
「え~、どうして? 何でも屋さんなんでしょ?」
ピンクの唇を尖らせる鹿沼さん。細かいパールの入った、あれは春の新作かな~。──そんなズレたことを考えつつ、彼女の無茶な要求に俺はちょっと遠い目になってしまう。
「いやー、無理ですよ」
「えー……!」
目の前には、古ぼけたアップライトピアノ。たとえば、付属の椅子を修理して欲しい、とかなら対応出来るかもしれない。だけど、それは絶対無理。
「ピアノの調律は、調律師に頼むものですよ。何でも屋に依頼するもんじゃないです」
「何でもしてくれるんじゃないの?」
「常識の範囲の中での<何でも>です」
「それじゃあ何でも屋じゃないし! 使えない!」
ぶーぶー言ってくれてるけど、無理なもんは無理。鹿沼さん、最初は「ちょっと壊れたものがあるから、直して欲しい」ってことで電話してきたんだよね。たまにポスティングしてるチラシが効力を発揮してくれてるのが分かったのはいいけど、たかが何でも屋に、そんなこと頼むのは間違ってる。
「チラシには、確かに簡単な修理・修繕とは書いてますよ。でもね、楽器はその範疇に入りません」
軒庇の簡単な修繕とか、樋のメンテナンスとか、棚の取り付けとか、そういうのだよ、何でも屋の仕事って。ドアノブの交換とか、組み立て式家具の組み立てとかさ。
「やってみもせずにそんなこと言うの、卑怯よ!」
「やったら確実に壊すことになります。ピアノの構造すら知らないんですから」
専門外だから出来ないということの、何が卑怯なのか俺には意味不明だ。
「五月に友達がこのピアノを見に来るのよ。それなのに、こんな変な音しか出なかったら、あたしが恥かくじゃない!」
ピアノの蓋を開けると、鹿沼さんは掛かっていた鍵盤保護カバーを乱暴に引き剥がし、一本指でべしべしと鍵盤を叩いた。確かに、素人にも分かるほど変な音だ。だけど、俺にはそれを直すことは出来ない。
「どうか、プロに任せてください。まずは見積もってもらえばいいですよ」
出来るのは、まともな提案をすることだけ。
「じゃ、俺はこれで」
そう言ってこの家を辞そうとすると、玄関から声がした。
「清美? 調律師さんが来てくれたのかい?」
「パパ! この人が出来ないって言うの!」
部屋のドアを開けて現れたのは、いかにも休日のお父さんといった感じの四、五十代の男性だった。
「出来ない? 一旦見積もってもらっているはずだが?」
じろり、と俺を見据える目が怖い。だけど、言うことは言わなきゃ。
「その見積もりは知りません。俺は調律師ではないので」
「調律師ではないのに、どうしてここにいるんだね?」
「呼ばれたので」
端的に俺は答えた。
「来てみたら、そのピアノを直して欲しいと言われたので、お断りしたところです。俺は単なる何でも屋なので──」
俺は、清美さん? が俺に連絡を取るのに使ったらしきチラシを部屋の隅から拾って、だいたいどういった仕事を請けているのか示してみせた。
「ピアノの調律のような、専門知識と技術の必要な仕事は出来ません。ここに書いてあるような、ちょっとした修理修繕のご依頼かと思って来たのですが……」
「清美!」
鹿沼パパが鋭く娘の名前を呼んだ。
「どうして調律師を呼ばないんだね? 母さんが紹介してくれただろう?」
「知らない。お祖母ちゃんなんか関係無いもん」
「関係無いわけ無いだろう、そのピアノ、母さんに無理言って譲ってもらったんだから」
鹿沼パパは溜息をつく。
「珍しいピアノだと知ったとたん、しつこく欲しがって……今から趣味で習うくらいなら、電子ピアノでいいじゃないか」
防音対策も簡単だし、と続けるのへ、清美さんは必死に言い募る。
「だって……! これ、ヨーロッパの有名なピアノでしょ? お祖母ちゃんちに戦前からあったっていうじゃない。有名な作曲家もこのメーカーのを使ってたのよね。だけど今はもう無いんでしょ、そのメーカー。そういうの家に持ってるなんて凄いじゃない。友達にも自慢出来るわ!」
どうせすぐに飽きるくせに、と鹿沼パパは寂しくなりつつある頭髪をいらいらと掻きあげる。
「これは母さんの弟、お前の大叔父さんが使ってたものなんだよ。まだ二十代の若さで亡くなってからも、母さん、売ったり捨てたりせずに取っておいたんだ……少し前の震災の時に、一回倒れておかしくなったみたいだけど、それでも自分が死ぬまでは置いておくって言ってたのに」
「お祖母ちゃんだって別に弾かないんでしょ? ならいいじゃない」
「お前が物を大事にしないって、母さん知ってるから。それでも是非にどうしても欲しい、ピアノ練習真面目にするんだって何度もお前が言うから、こちらに送る前にあらかじめ修理と調律の見積もりまで取ってくれてたんじゃないか」
調律は、据え付けてからの方がいいからね、と鹿沼パパ。
「そうだけど……」
「なら、母さんに紹介してもらった調律師に来てもらえばいいだろう? なんで何でも屋なんだ。この人にピアノのことなんか分かるわけないじゃないか」
「だって……それだと料金がすごく高いじゃない……」
「だから母さんがそのお金を出してくれただろう?」
下を向いて何も言わなくなった娘に何かを感じたのか、鹿沼パパは険しい声で問うた。
「清美。母さんからもらったお金、どうしたんだ?」
「……」
「清美!」
「中古のピアノなんかにそんな大金要らないじゃない! 新しいバッグ買ったのよ!」
逆上ぎみに声を張り上げ、彼女は俺でも知ってるブランド名を言うと、そのバッグがどれだけ人気があって手に入りにくいかつらつら語る。それを遮り、彼女の父は怒声を上げた。
「清美、そのお金はピアノのためのものだ。お前のバッグを買うお金じゃない!」
あとはもう、親子喧嘩。祖母から預かったピアノの修理代金を着服したらしい娘はぎゃんぎゃん喚き、父は娘を叱りつける。関係無い俺は「次の仕事がありますので」とだけ言って出てきた。聞こえてないみたいだけど。
なんか、あれだ。甘やかされするぎると、あんなふうになるんだな。
「それにしても、性質の悪い……」
思わず、そんな言葉を呟いていた。日ごろ温厚だと言われる俺だって、不愉快になることくらいある。
彼女が、新しい顧客にならなくて良かった。