ある日の<俺> 2016年4月29日。 クラレットと茹でダコ
今日の空は、目まぐるしく晴れたり曇ったり。一時強風が吹き、夕刻には青空になった。西の空は赤葡萄酒の色。
ああいう色をクラレットというのだと、教えてくれたのは元妻だっただろうか。ボルドー産ワインの色。
「──美味いタコが食べたいなぁ、シンジ。こう、ちょっと分厚く切った刺身に山葵のっけてさ、熱燗できゅーっと」
あの時、茹でダコの色に似てるよね、って言って、彼女に笑われたんだっけか。
「はいはい、たこ焼きで我慢しときましょうよ」
チンピラ改め、屋台のたこ焼き屋になったシンジが、苦笑いしながら細長いピックで鉄板のくぼみのたこ焼きたちを転がす。この道具、「たこ焼きピック」っていうらしいけど、千枚通しとどこが違うんだろう。謎だ。
「寒いなぁ、今日は……」
俺は駅の方を見た。電車にこれから乗ろうという人も、降りてきた人も、みんな心持ち肩を窄めて足早に歩いている。冬のコートを着ている人もいる。
「俺は鉄板の前ですからね、寒くはないっすけど、足元は冷えるかなぁ」
そう言いながら、シンジはたこ焼きを船皿に取り分けていく。
「お、経木の船じゃないか」
久しぶりに見た、と俺が感心していると、シンジは得意そうに笑った。
「美味そうに見えるでしょ。るりちゃんのアイディアなんですよ」
一緒に住んでる彼女のことを自慢しながら、ソースを塗って青海苔を散らし、さらに粉かつおを振って出来上がり。
「おおお、やっぱりたこ焼きはソースがいいよ。この匂いがたまらん」
濃厚ソースの芳しい香りをいっぱいに吸い込むと、口の中に唾が湧く。船を受け取り、代金を払った。
「ちょっとオマケしておきましたから。だから元気出しましょうよ」
「うん……サンキューな、シンジ」
今日は黄金週間初日。元妻の許にいる娘のののかとの面会日のはずだった。だけど、このところの寒暖差の激しい気候のせいで体調を崩したらしい。「昨日まではなんとか元気だったんだけど」と元妻は溜息をついていたが、昨夜は本当に寒かったし今日も冷えるし。
「暖かくして寝てれば治るって言ってたけどさ……」
俺、何にもしてやれないし。
「普段会えないぶん、心配ですよね。けど、お母さんがそう言うなら大丈夫っすよ」
「そうかなぁ……」
「そうっすよ。ほらほら、あんまり落ち込んでると反対に心配されますよ。ののかちゃん、パパ大好きっ子なんだから」
「……」
俺はしみじみとシンジの顔を見た。
「どうしたんすか?」
不思議そうに聞いてくる。
「いや……シンジもすっかりいいたこ焼き屋のオヤジになったなぁ、と思って」
「なんすか、それ。たこ焼き屋のお兄さんって言ってくださいよー」
笑うシンジ。次のたこ焼きのタネを流し入れつつピックを操る。
「ほら、熱いうちに食べてくださいよ。冷めても美味しいように作ってるけど、焼き立てが一番なんすからね!」
あの、ちょっと頼りなかったシンジが、愚痴を聞いてくれて、軽く励ましてくれたりなんかしてる。こいつも成長してるんだなぁ。そんな感動を胸に、俺は感謝を口にした。
「ありがとうな、シンジ! お客さんにもまた宣伝しとくから!」
「はい。また来てくださいね!」
手を振って別れ、屋台から少し離れてから振り返ると、お客が三人ほど増えてた。結構流行ってるみたいだ。お、また来た。電車のタイミングかな。
「……」
たこ焼きの包みを抱いてると、じんわりと腹の辺りが温かい。晩飯をこれにするつもりで多めに買ったんだよな。
……
……
何で寒い中、特に用も無いのにこんな駅前まで出てきたのかと自分で不思議だったけど、俺、誰かとしゃべりたかったんだな。今日は朝から誰とも口きいてなかった──元妻と、携帯で話したくらいか。面会日のつもりで仕事も入れてなかったし。
シンジとしゃべって、ちょっと気が楽になった。仕事と関係ない人間としゃべるのって、楽だ。そういうの、<パッシブ・カウンセラー>っていうんだって、元義弟の智晴が言ってた。本人にそんな自覚は無いけど、何気ない会話をしてるうちに相手が自然に癒されていく、みたいなの。うん、俺、シンジに癒された。
俺も、誰かのパッシブ・カウンセラーになれたらいいな。──娘の、いい父親になれたらいいな。
クラレットの色はもう無い。空にはきらきら輝く星。
五月も目前だったのに、この日はとても寒かったのです。
<パッシブ・カウンセラー>という言葉は造語です。男は寡黙なバーテンダー、みたいな人もこれに入るのかも。
今日は一所懸命ブログのほうに新しい話を書いていて、すっかりこちらへの投稿を忘れていました。明日のいつもの時間にしようかな、とも思いましたが、開き直って真夜中にポチッとな。