ある日の<俺> 2016年4月28日。 猫を追っかけ脱走する
今日も朝から灰色の空模様だったけど、昼にはとうとう降り出した。
買い物代行が午前中に終わって良かったな、と思いながら、雨の中自転車を走らせる。雨合羽は持ってるけど、広げるのが面倒くさい。事務所兼住居まであと五分。
「何でも屋さーん!」
呼び止めてきたのは傘を差した窪田の奥さん。
「雨の中ごめんね。実は、うちのマユちゃん、脱走しちゃって……」
窪田さんちの飼い犬、ミックスのマユちゃんが、リードごとどこかへ走って行ってしまったという。
「買い物ついでに散歩を兼ねて、マユちゃん連れて商店街に行ったのよ。八百屋さんでタケノコ買って、重いのを左手に持って、右手に傘とリードを持ってたんだけど、そこの室井さんちの塀のところで野良猫を見つけてね──」
猫を追いかけようと興奮するマユちゃん。これは危ないとリードを握り直そうとした窪田さんの手をすり抜け、追いかけて行ってしまったんだそうだ。
「マユちゃん、猫が好きですからねぇ……」
全身白いのに、顔にだけ眉毛みたいな灰色の柄を二つ持つマユちゃんは、何故か同じ犬より猫が好きだ。窪田さんに連れられた散歩の折りにも、猫を見つけると寄っていく。そして逃げられるという、ちょっとかわいそうな犬なのだ。
ちょうどそれを目撃してしまった俺に、窪田さんが教えてくれたのだ、マユちゃんの猫好きの原因を。
「猫に育てられたみたいなものだから……」
そう、仔犬だったマユちゃんは窪田さんちの先住猫、マルちゃんに育てられた。マルちゃんは雄だったけど、父性本能に溢れた猫だったそうだ。そのマルちゃんは先年老衰で天寿を全うしたらしいが、それ以来マユちゃんはよけいに猫を見ると傍に寄りたがるという。
「分かりました。俺もマユちゃん探してみますよ」
お願いしますね、と言って、窪田さんは商店街の方に歩いて行った。そっち方面に走って行ったらしい。
俺は一旦事務所兼自宅に戻り、買っておいた餡パンを齧りつつ濡れた服を着替える。一息ついておもむろに雨合羽を羽織ると、雨の日によく野良猫が集まる場所を見回りに出かけた。草刈り、脱走ペット探しなんかであちこち歩き回るからな。野良猫の動向にはわりと詳しいんだ。
ここから一番近い場所は──と回る順番を考えながら歩いていると、犬がきゅんきゅん鳴く声が聞こえた。マユちゃんか? そう思い、慌てて細い路地を覗くと、はたしてそれはやっぱりマユちゃんだった。
「マユちゃん?」
俺が声を掛けると、顔見知りの俺に向かって、くーん、と鳴く。マユちゃんの前には、雨に濡れて蹲る猫。大きな猫だが、どうやら足を怪我しているようだ。車にでも撥ねられたかな……。
「その子が心配なのか?」
マユちゃんのリードをそっと拾いながら、俺は声を掛ける。
「くーん……」
マユちゃんの柄の眉もどきが、情けなく垂れて見える。どうしようかな、と呟きつつも、俺の手は既に猫を抱いていた。にゃん、と鳴いてみせる猫は、野良のようだけど、威嚇するでも暴れるでもなく大人しくしている。怪我は両後足。やっぱり車に撥ねられたようだ。
「きゅーんきゅーん」
猫の怪我を確かめている俺を、マユちゃんが見上げる。さて、どうしよう。
猫を抱いたままマユちゃんを連れて窪田さんちに行くと、先に戻っていた奥さんが喜んで出迎えてくれた。もー! とぶるぶる体を振って雨水を飛ばすマユちゃんを用意していたタオルで拭きながら叱りつつも、俺の腕の中の猫にマユちゃんが付き添っていた話を聞くと、これも何かの縁だから、うちで飼うと言ってくれた。
「マルちゃんの使ってたキャリーケースをまだ取ってあるから、そこに入れて獣医さんに連れて行くわ」
これからすぐ車で行きつけの獣医さんに行くという。乾いたタオルで濡れた毛を拭かれている猫を気にして、マユちゃんがくるくる舞い回る。
「もう、落ち着きなさいって。……これもマルちゃんの引き合わせかもね。しょうがないから、今日のマユちゃんの脱走は不問にしてあげるわ」
そう言って苦笑いする窪田さん。良かったな、猫よ。そして良かったな、マユちゃん。大好きな猫の家族が出来たぞ。
後日、マユちゃんを散歩させてる窪田の奥さんと久しぶりに会った時、あの日の猫は無事怪我も治って歩けるようになり、今では野良の生活も忘れて御座敷猫になっていると教えてもらった。マユちゃんとはとても仲がいいらしい。
「マユちゃんはまた猫と暮らせるのがうれしいみたい。マルちゃんが死んでからどこか元気が無かったんだけど、今はもう本当に新しい家族と一緒に元気ハツラツでじゃれ合ってるわ」
猫の名前はマロと付けたそうだ。薄い茶色のアメショーの雑種のようだが、そういえば顔には丸い麻呂眉ふうの白い柄があったっけ。先代猫のマルちゃんにも形は違うけど眉っぽい柄があったそうで、どうやら窪田さんちには眉のある犬猫が集うようだ。ちょっと面白い。
なんにせよ、脱走犬は無事に見つかり、怪我した野良猫はすんなり家猫にジョブチェンジ出来たんだから、あの日の件は偶然だけど必然だったのかもしれない、と思った俺だった。