一 灰色の日常
少年は、笑顔で駆け寄って来る子犬を抱き上げた。顔を舐められて、思わず顔が綻ぶ。
少年は決意する。この小さな命を自分が守るのだと。少年が歩き出すと、子犬も彼の後を付いて行く。一人と一匹で過ごす時間は、幸せな時間だった。
第二四話「守り手」
夜道を歩くスーツ姿の男、馬上未来はやつれた顔で溜息をついた。
連日残業に次ぐ残業。それでも終わらない仕事。その上今日もまたノルマを達成できなかった。地元の金融会社に務めて十年、こんな毎日が続いている。
三十を過ぎ、体力が落ちてきたことも感じていた。最近は一日二四時間という時間をただ浪費しているように思える。仕事をして、帰って来てはほとんど何もできずに眠る日々。休日も疲れていて、何かをする気が起きなかった。
「ただいま」
そう一人呟きながら、玄関の扉を開ける。誰もいない家の中から返事が返って来ることは当然なく、馬上は廊下の電気を点ける。
ここは彼が生まれ育った家だが、現在住んでいるのは馬上一人だった。父親は彼が大学生の頃に、母親は二年前に死んでしまった。結婚する相手も交際している相手もいない。
さっさと風呂を済ませ、途中で買ってきたカップ麺と惣菜を口に入れれば、それで一日が終わる。そしてまた変わらない一日が始まるのだ。
「俺、生きてる意味あんのかな……」
大学時代に買ってそのまま使っているベッドに横たわって、馬上はそう呟いた。昔はもっと明日が来ることにわくわくしていて、今日という日を楽しめていたはずなのに、その気持ちがどんなものだったのかかけらさえ思い出せない。
誰かのために生きることができたのなら、むしろ楽なのだろう。妻や子を養うためだとか、両親のためだとか。だが、彼には家族はいない。
答えのない悩みを反芻させているうちに、意識は闇に溶けて行く。馬上はいつの間にか深い眠りの中に沈み込んだ。
美琴は一人、夜の御中町を歩いている。夜は妖たちが活発に活動するため、騒がしさを嫌う彼女には珍しいことだった。
今夜の外出に別段意味はない。ただ、たまには元気に動いている黄泉国の住人達の姿が見たかっただけだ。
鬼火に淡く照らされる町の中、美琴のすぐ側を童の妖がぱたぱたと足音を立て二人通り過ぎた。可愛らしいと思いながら、美琴は二人の後姿を見送る。男の子と女の子、どちらも腰から尾を生やしているところを見ると、動物の妖だろう。
この黄泉国、いや、基本的に妖たちが住む大きな異界には様々な妖が集まり住んでいる。妖から生まれた妖、人から妖になったもの、動物から妖になったもの、器物から妖になったもの、それらが一つの社会を共有して生きている。
美琴は近くの茶屋で団子を買い、軒先の緋毛氈が敷かれた茶席に座った。そうして行き交う妖怪たちを眺める。挨拶して来るものには挨拶を返しながら、賑やかなものだと美琴は思う。
東京という人間界の中でも人口が密集した場所に比べれば妖の数は勿論少ないが、美琴が初めてこの場所にやって来た一千年と少し前には、妖はおろか動物の姿さえほとんどない場所だった。
美琴がこの国の主の立場を継いだ千年の間に妖の住人達は次第に増え、また境界を開く機会も増えたことで動物たちがこの国に迷い込むことも多くなった。そして妖たちの住む家々は集まって町となり、他国との交易も始まってこの異界は多くの者たちが住むという意味での国となった。
少しずつの変化だったから、こうして改めて考えてみないと大きく変わったと言う実感は沸いては来ない。どの異界も人間界もそんなものだろうか。
「あ、美琴様~」
団子を食べ終え、茶を飲んでぼんやりとしていると、水色の和服を着た女妖が美琴を見てそう手を振った。ゆるく巻かれた髪を肩の下と胸の辺りまで伸ばした、青白いとも言える肌をしたそのものは、美琴も良く知っている妖怪だった。
「氷雨、珍しいわね。こちらに来るのは」
氷雨と呼ばれた妖は「はい」と答えて美琴の隣に座った。
「ちょっと買い物する用がありましてね~。帰りにお屋敷にも寄らせてもらう予定だったんですけど、丁度会えました」
氷雨はそう言って笑う。彼女の隣にいるとひんやりとする。氷雨の種族は氷柱女。氷を生成し、操る力を持った妖だ。
「私に何か用事でもあった?」
「いいえぇ、ただたまにはお話したいなぁと思って。御中町に来ることもあんまりないですし」
「遠いものね」
氷雨が住んでいる志阿町はこの御中町からずっと南に下ったところにある港町だ。距離で言えばここから志阿町まで歩けば三時間程かかるから、互いの町を行き来することはあまりない。あちらにもすぐ近くに高御町という繁華街があるから、そこに行けば大抵の用事は済んでしまうせいもある。
「最近色々大変なんでしょう?鬼とかなんとか」
「そうね。近いうちにあなたの力も借りなければならないかもね」
美琴は言って、茶を啜った。氷雨もまた、かつて黄泉国のために戦ってくれた妖。今は黄泉国の住人として平穏に暮らしているが、また一緒に戦わねばならない時も来るだろう。
「大丈夫ですよ、任せておくんなさい!腕はなまってませんよぉ」
そう言って氷雨はけらけらと笑った。相変らず明るい性格だ。美琴も思わず口元を緩ませる。
「頼りにしてるわね、氷雨」
女性が一人、街燈に照らされた夜道を歩いている。彼女、山根久子は大学生で、今夜は久々に高校時代の友人と会って来た帰りだった。
「遅くなっちゃったな」
時刻はもうすぐ陽が昇るという時間だった。場所は友人の家だったが、みんな一人暮らしをしているということもあってついついこんな時間になってしまった。
女一人の帰り道は怖いが、友人宅に泊るのは気が引けた。どうせその友人の家からなら歩いて帰ることができることもあり、ここまでやって来たのだが、やはり心細い。
「あれ?」
自分の後ろから、自分のものではない足音が聞こえてくるような気がして山根は足を止めた。だが、止まると後ろの足音も聞こえなくなる。そして再び歩き出すと、また聞こえて来る。
何かいる。山根の額を冷や汗が流れる。後ろを振り返りたいが、それをすれば急に襲ってはこないだろうか。だが、女である自分が走って逃げられる自信もない。
山根はとりあえず携帯を取り出した。これで誰かと通話すればどこかに行ってくれるかもしれない。
山根は先程まで一緒にいた友人の番号を押した。彼女ならまだ起きている可能性が高い。警察に通報することも考えたが、それだと相手が逆上して襲ってくる可能性もある。
微かに震える手で携帯電話を耳に当てた。その時、山根が動いていないのに足音が再び聞こえた。
山根は思わず振り返ってしまった。そして咄嗟に口に手を当て、上げそうになった悲鳴を堪える。
そこにいたのは、茶色の毛をした大きな犬。目を爛々と光らせ、牙をむき出しにして山根に対して唸りながら、少しずつ近付いてきている。ここで大きな声を出したらきっと飛び掛かって来る。山根は涙目になりながらも必死に声を出さないように堪える。
「どうしたの?久子?なんか忘れ物?」
だが、電話の向こうの友人はそんな状況が分かる筈もなく、そう声が夜道に響く。それに反応して、犬の顔が動いた。
「誰か……!」
思わず山根が声を出す。その瞬間に、犬は彼女に向かって走り掛かった。
携帯のアラームが鳴って、馬上は目を覚ました。この音はこの世で最も嫌いな音だと馬上は思う。だが、アラームの音を変えたいとは思わない。最初は新鮮で良いかもしれないが、しばらくすれば嫌いな音が増えるだけだ。
馬上は手を伸ばしてアラームを止め、起き上がった。眠ったのにも関わらず疲れが取れた気がしない。今日もまた、仕事をして上司に罵倒されて、一日が終わるだけ。それを考えるとまだ家を出てもいないのに疲れて来る気がする。
食欲はないが、食べた方が昼までの体の調子がいい。馬上はトースターに食パンを放り込むと、リモコンでテレビの電源を点けた。
「昨夜未明、木久里町二丁目で山根久子さん二十一歳が路上に倒れているのが発見され、病院に運ばれましたが意識不明の重体ということです。山根さんは腹部を刃物のようなもので深く刺されており、警察は傷害事件として犯人の捜索を行っています」
テレビのニュースキャスターはそう淡々と原稿を読み上げる。それを見ながら、馬上は抑揚の無い声で呟いた。
「この近くじゃないか」
この家がある場所も木久里町二丁目だ。警察でも着ていたのかもしれないが、眠っていたせいで気付かなかった。
「ま、関係ないか」
馬上はそうひとりごち、焼けた食パンを取り出すために台所まで歩いて行った。この近くで傷害事件が起ころうと殺人事件が起ころうと、自分が仕事を休めるわけではない。女性ならともかく、成人した男なのだから。
適当にマーガリンを塗ってほとんど味わうこともなく水道水でトーストを流し込み、馬上はスーツに着替えるために自室に戻る。むしろ、誰かに怪我でもさせられた方が体を休ませることができるのではないかと思いながら。
「行ってきます」
誰もいない家に向かってそう告げて、馬上は職場への道を歩き始める。昔は小学校、中学校への通学路だったこの道も今ではすっかり職場へ向かうための嫌な道になってしまった。
昔はよくこの場所を、友達と一緒に笑いながら歩いたものだった。そして、子供の頃に飼っていた犬の散歩道でもあった。
「こたろう……」
馬上はかつての飼い犬の名前を呟く。彼が六歳のころに我が家にやって来た犬。そして、一番人生が楽しかった時間に一緒にいてくれた家族。
「こたろう」という名前は馬上が付けたものだった。馬上は電信柱を見る。そうだ、はっきり覚えている。この電信柱のすぐ側に放置されていた段ボールの中で、こたろうは震えていた。
「どうしたんだ、お前?」
小学校に入学してまだ一ヶ月ほどの時間しか経っていなかった頃、馬上は段ボールに入った子犬を見つけた。その子犬は恐いのか、それとも寒いのか、心細そうな目をして小さな体を小刻みに震わせていた。
段ボールの中には、「拾ってください」とありきたりな文章が書かれた紙が一緒に入れてあった。この子犬は捨てられたのだと、幼い馬上にも分かった。
「よし、一緒に帰るか」
馬上は笑って、段ボールの中から小さな命を抱き上げた。このまま放っては置けなかった。こんなに小さいのなら、もしかしたら野良猫やカラスに食べられてしまうかもしれないと思ったからだ。
子犬の温かさに驚きながら、馬上は優しく抱いたまま帰途を辿った。子犬は大人しく抱かれたまま、たまに馬上の顔を見上げる。
それが、馬上とこたろうの出会いだった。
母と父に頼みこんで子犬を飼う許可をもらった馬上は、子犬に「こたろう」という名前をつけ、ひたすらに可愛がった。可愛がれば可愛がるほどに答えてくれる、こたろうはそんな存在だった。
最初はあまりいい顔をしていなかった両親もすぐにこたろうに夢中になって、彼は家族の一員になった。雑種だったけれど、そんなことは関係なかった。




