三 悪魔は嗤う
それから坂井は「ピノッキオの冒険」、「怠惰」のカルタの生け贄に、親の脛をかじって所謂ニートと呼ばれることをしている人間を選び、殺した。悪魔の力のおかげで家に侵入することも、そこから出ることも簡単だった。
悪魔から渡された文字札には「Le Avventure di Pinocchio」と「acedia」という言葉が浮かび上がる。「ピノッキオの冒険」はイタリアの作家・カルロ・コッローディによって書かれた児童文学だ。
努力も勉強も嫌いでいながら、それを必要としない程の才能も持っていない人形、ピノッキオ。それには「怠惰」の罪が相応しい。
後は二人。残るは暴食と色欲。早く、早く見つけたい。
「おい」
坂井は悪魔の方を見て言った。
「承知しました」
悪魔は愉快そうな笑みを見せて、ステッキで地面を叩いた。同時にあの闇が広がり、悪魔と坂井を包み込む。やがて坂井はどこかの駅前に立っていた。そこで、並んで歩く巨漢の男と派手な化粧をした女を見つけた。あの二人は生贄に丁度良いようだ。坂井の目にそれがはっきりと分かった。
「あいつらで最後か」
「そうですな。これでカルタの力は貴方のもの」
「そうか」
悪魔の力によって空間は浸食され、二人の贄を取り込んで赤黒い景色へと変わる。
「あん?」
巨漢の男がそう不愉快な声を出し、辺りを見渡す。樽のような体なのに、その体に詰まっているのはただの脂肪。最早存在自体が罪であり、悪だ。
女の方も不安そうに赤黒さに包まれた空間の中できょろきょろとしている。厚化粧に異性を誘うための露出の過多な服装。こちらも見ているだけで不快だ。
坂井はまず巨体の男の方を殺すことにした。こちらの方が抵抗された時に厄介そうだ。早めに始末してしまいたい。
肥満男が坂井に気付いた。だが、その時には既に彼に手が届く位置に坂井はいた。その右手には、今日一日で四人の血を吸った包丁が握られている。
心臓を狙うには肉が厚過ぎる。ここは比較的脂肪が薄い首を狙おう。そう頭で考えながら、既に手は相手の首へと向かっている。
分厚い肉に刃が入って行く感覚。坂井は思い切りそれを振り抜いた。肉と脂と血が飛び散り、近くにいた女の顔に降りかかって化粧を溶かした。
巨体が倒れ、女の悲鳴が響く。ひどく耳触りな声だ。坂井は憤怒の形相で女に迫ると、その顔を殴りつけた。
歯が何本か飛び、女は汚らしい唾液と血液を垂らしながら地面に倒れる。坂井はその顔を何度も何度も蹴りつけた。最初は抵抗し、声を上げていた女も次第に動かなくなり、やがて息絶えたのかぴくりともしなくなった。
そうなった後も何度か顔を念入りに踏みつけてから、坂井は悪魔を振り返った。既に彼は二枚のカードを手にし、差し出している。坂井はそれを奪い取るようにして掴んだ。
「これで、悪魔のメルヘンカルタの完成です」
悪魔はそう言って深くお辞儀をする。坂井はそれをちらと一瞥だけして、文字札に浮いて来る言葉を待った。
最初は暴食の文字札だった。「gula」というラテン語と、 「Rotkappchen」というドイツ語が白いカードに染みだすようにして表われる。
「Le Petit Chaperon rouge」は「赤ずきん」だ。グリム童話の中の一編として収められたこの童話は、元々はフランスで生まれた物語だった。この童話には赤ずきんとその祖母という人間を二人も丸飲みする狼が登場する。そして、その狼は最終的には猟師に殺され、二人は救出される。
グリム童話以前では二人とも食われたまま返ってこないというものもあったようだが、どちらにせよ狼が殺されることは共通している。暴食は悪だからだ。
「それで、これが最後か」
坂井は呟き、最後のカードを見る。そこには既に文字が表われており、「luxuria」という色欲を現すラテン語と、「Den lille Havfrue」という人魚姫を現すデンマーク語が書かれていた。
人魚姫は地上に住む王子に対する恋慕に狂い、声と引き換えに地を歩く足を得た上、「もし王子が他の娘と結婚するような事になれば、姫は海の泡となって消えてしまう」という呪いまで背負う。
そうまでして地上へと向かった人魚姫は、王子を殺すことで自分の呪いを解くことができるにも関わらず死を選ぶ。情欲に狂った女の話だ。まさに色欲の悪に相応しい。
坂井は六枚の絵札と、六枚の文字札をそれぞれ両手に持った。体に、今までにない高揚感と力が沸いて来るのを感じる。
「どうです?最高の気分でしょう?」
口角を釣り上げて悪魔が言う。坂井も満面の笑みを浮かべて頷いた。今まで生きてきた中で、こんなに気分が良いことはなかった。
「一つ警告しておきましょう。このカルタを完成させたものは、六つの体を得られ、体以外の全てを支配することができます。と言っても、今の貴方にはそれを考える暇などないでしょうがね」
坂井の耳には、その言葉はほとんど届いていなかった。ただ早くこの力を試したい。ただそれだけが願いだ。この力を使えば、自分はどんなものでも支配できる気がする。
「おや、丁度良いところに、お客さんのようですよ」
悪魔が言った。彼の作り出した異空間はもうなくなっており、その代わりに人間の世界が広がっている。
坂井は充血した目で悪魔の言う客を探した。そしてそれはすぐに見つかった。見た目は人間の女と変わらないが、明らかに人間ではないものがこちらに向かって歩いて来ている。
「あいつらに、この力を使ってもいいんだな?」
坂井は悪魔に尋ねた。
「もちろんですとも。存分に、お楽しみ下さい」
悪魔はそう牙のような歯を覗かせて言った。それならば、遠慮なくやらせてもらおう。坂井は十二枚のカードを両手に持った。
美琴は紫色に染まった瞳で遠くに見える二人の男を睨んだ。隠すこともなく妖気を垂れ流す西洋人の男の姿をした妖と、今まさに体を浸食されようとしている東洋人の男。そのどちらからも強い穢れの気配がしている。
そして、美琴はその西洋人の妖気に覚えがあった。
「あれは……」
「美琴様?」
詩乃はいつもの眠そうな顔を引き締め、既に戦う心構えになっているようだった。詩乃もかつては黄泉軍として共に戦った妖。
共に本を買いに来ただけなのに厄介なことに巻き込ませてしまったようだが、それが近頃は機会が無かったとは言え、武に心得のある詩乃でよかった。今回の相手はかなり危険だ。
「あの悪魔を、私は知っているわ。私が相手をする。詩乃、あの人間の方は任せるわ。いいかしら」
「仰せのままに」
詩乃は頷いた。美琴は妖力を開放する。同時に、あの悪魔の妖力が空間を浸食して来るのを感じた。青空は赤黒く染まり、地面は沸騰する血の沼のようになる。記憶に焼き付いている、忌わしい妖気だ。
「なぜ日本にいるのかは知らないけれど、この国に来たからには好きにはさせない」
美琴は太刀を抜く。赤黒く空間を侵す妖気を弾き、紫色の妖気が美琴を覆う。
「行くわよ、詩乃」
悪魔は自身の魔気によって血が染み込んで行くように赤黒く変わって行く景色の中、荒い息を吐く坂井を眺めた。自分の能力を過信し、世界を憎んでいた馬鹿な男。こんな男よりも優れた頭脳や人格を持つ人間などいくらでもいるだろうに、それを認めず自分自身という狭い存在に固執する、傲慢な人間。
だが、こういう人間が一番動かしやすい。そして彼は予想以上に面白い働きをしてくれた。あのカルタをこの数時間で完成させるとは。よっぽど今の世に鬱憤でも溜まっていたのだろう。自分で勝手に世界を憎み、それによって暴走するとは。自分では自分の行動を冷静だと思っているのだろうから愉快でたまらない。
それから、悪魔は近付いて来る日本の異形たちに目を向ける。その一人には、彼自身見覚えがある。
紫色の妖気を纏う死神。悪魔はステッキを回転させながら満面の笑みを浮かべた。この国、この場所で派手なことをやればまた会うことになるとは思っていたが、予想よりも早かった。あれの相手をさせれば、この玩具はすぐにでも壊れてしまう。それに、あれの相手は自分がしたい。悪魔は坂井に再び目を向け、言う。
「あの紫色の少女は、今の貴方ではまだ手に負えません。ここは私が向かいましょう」
美琴は太刀を振り、悪魔に向かって斬撃を放った。だが、三日月状の形をしたそれは地面から表われた赤黒い巨大な手によって阻まれ、それを消失させるだけに終わった。
悪魔は自身が作り出した地面の沼に沈むと、今度は美琴のすぐ側に現れた。シルクハットの下で光る眼が美琴を捉える。
「久しぶりですねぇ、伊耶那美」
「この国で会いたくはなかったわね、メフィストフェレス」
悪魔、メフィストフェレスは不気味な笑みを顔に張り付けたまま、ステッキを回す。この悪魔とは、かつて欧州においてセリナとともに対峙したことがある。
人に望むものを与え、その代償を求める悪魔。そしてその過程で、多くのものの命を奪い、不幸を与える。決してこの世に自由にしておいてはいけない存在。
「貴方に再び相まみえることができて、光栄ですな」
「私は二度と見たくもなかったけれど」
美琴は詩乃と対峙する人間の男をちらと見る。いや、あれはもう人間とは言えないか。両手に持ったカードの妖力と霊力が彼に浸食してしまっている。もう元には戻れないだろう。このまま異形へと変わるか、それともカードの妖力に喰われるか。どちらにせよあの男が纏う穢れを見る限りは助けたいとは思わない。
「あの人間を使って、また新しい遊びでもしていたのでしょうね」
「もちろん。楽しいゲームができましたよ。それに、また新たな楽しみが増えた」
メフィストはステッキで地面を軽く叩いた。
「貴方の、苦痛に満ちた顔が見られるというね!」
メフィストの口に牙が覗き、悪魔は美琴に向かって突進して来る。美琴も十六夜を構え、それを迎え撃つ。
詩乃は苦しそうに息をする男を見た。彼が持っているカードには覚えがある。書物でいつか読んだ、「悪魔のメルヘンカルタ」と呼ばれるものだ。
その書には「ヨーロッパの呪術師がこの世の悪を封じ込めたカルタ。白雪姫、赤ずきん、ヘンゼルとグレーテル、人魚姫、不思議の国のアリス、ピノキオの6枚の絵柄のカルタからなる。邪悪な心の持ち主に取り憑き、その人物が6つの身体になり身体以外のすべてを支配する」と書かれており、その悪がどうやらキリスト教で言う「七つの大罪」を指し、それを象徴する生け贄を用意することによって力を得ると書かれていたが、それがもたらす具体的な能力については書かれていなかった。
「まずは……これか」
男は正気を失った目でカードを一枚見ると、それを静かにこちらに向けた。そこに描かれているのは「不思議の国のアリス」のハートの女王。
「Alice's Adventures in Wonderland,ira」
男は逆の手に持ったカルタを見て、虚ろな声でそう呟くように言った。前半は「不思議の国のアリス」の原題である英語、後半は「憤怒」を現すラテン語だ。
その言葉が発せられた直後、絵の描かれた方が強力な妖気を発し、ハートの女王に変化した。
召喚妖術の一種のようにも思えるが、あれは違う。召喚は離れたところにいるものをこちらに呼び寄せる術のことだ。あれはカードそのものが変化している。
「言霊ですわね」
詩乃は静かな声でそう言った。言霊とは、文字通り言葉の霊力。言葉というものは概念だ。その言語に意味がなければ、字はただの紙に付着したインクの染み、声は空気中の音の一つにしかならない。
そこに「意味」という形のない概念が付加されることで、それらは「言葉」になる。だからこそ、言葉に宿るのは妖力ではなく霊力なのだ。
霊力を持った言葉は総称として言霊と呼ばれ、呪術や祝詞などに用いられてきた。だが、それが作用できるのは飽くまで霊体。直接的に相手の肉体に作用させることはできない。
そこで用いられるのが、媒介だ。書物や札など形のあるものに文字を書き、また唱えることで、それを持ち、言葉を発した自身の幽体を利用することで媒介に書かれた言霊を妖力に変え、使う。それが言霊使いの戦い方。
悪魔のメルヘンカルタはその絵札と文字札が媒介となっているのだろう。だからカルタなのか。詩乃は一度目を閉じ、開いて男を見つめる。
もうあれは人ではない。自身の幽体を通して言霊を妖力に変えているせいで、浸食が進んでいる。そのうち完全に異形と化すだろう。いや、あの悪鬼のような形相は、既に人の頃からのものか。
ハートの女王が叫ぶと、彼女の周りのトランプの姿をした兵隊たちが現れる。彼らは一様に巨大な鎌を持ち、こちらに向かって走って来る。
ハートの女王の口癖は「首を刎ねろ!」。その言霊が形となって現れているのか。
詩乃は両の袖に腕を滑り込ませると、一つの和綴じの書を取り出す。その書の名は『古今和歌集』。平安時代に書き綴られ、今の世にかつての心を伝える歌集。
「やまと歌は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける」
その言葉によって、言霊を使う準備は整った。トランプ兵の鎌が詩乃に迫る。だが、詩乃は息さえ乱すことなく、書を手に詠み上げる。
「吹く風に あつらへつくる ものならば このひともとは よぎよと言はまし」
振り下ろされた鎌は詩乃を逸れ、地面に突き刺さった。赤黒い妖気が飛び散る。
「枝よりも あだに散りにし 花なれば 落ちても水の 泡とこそなれ」
詩乃は兵を見ることなくそう歌を唱える。彼女の後ろでトランプ兵は倒れ、ただの紙切れとして赤い沼に沈んで行く。
「貴様ぁ……」
絞り出すような声で男が言う。詩乃はそれを正面から睨み、言う。
「西の童話を謡うなら、やまとの歌で応えましょう」
メフィストが振り上げたステッキは辺りの妖気を吸収し、巨大な刃と化した。美琴は太刀を逆手に持ち、その一撃を受け止める。
そのまま刀を振り抜き、メフィストを弾き飛ばす。悪魔は宙で後方に一度回転し、地面に降りる。
「愉快、愉快」
メフィストは言ってステッキを横に振った。その範囲から巨大な赤黒い掌が現れ、美琴に向かって飛び掛かって来る。
美琴は自身を鷲掴みにしようとするそれを一撃の元に切り払った。紫色の斬撃が赤黒い塊を切り裂き、消滅させる。
「ここなら、あまり周りを気にしなくてもいいわね」
美琴は言い、悪魔を見据えて太刀を横に構えた。ここでなら大きな妖力を使っても辺りに被害を与えることはない。
メフィストがステッキで地面を叩くと、今度は巨大な蛇が生じて美琴を呑み込もうとする。だが、美琴はその牙が届く前に構えた太刀を大地に水平に振った。
そこに現れた紫の斬撃は、蛇を一瞬で消滅させた上、メフィストが作り出した他の魔物たちをも一撃で破壊した。それでもまだ勢いは衰えず、メフィストはステッキを両手で持って何とか攻撃の余波を防ぐ。
「相変わらず、命を奪うことに特化した力を持っておられる」
その悪魔の嘲るような呟きに向かって、美琴は既に走り出していた。刀身に妖力を通わせ、今度はメフィストに直接叩き込む。
悪魔もステッキに自分の作り出した異空間の妖気を吸わせ、それに対抗する。だが、完全には受け切れずに体制が崩れる。美琴はそれを逃さず、素早く太刀を構え直してメフィストの腹部に突き立てる。
メフィストは体を軟体生物のようにぐにゃりと曲げ、攻撃を避けようとしたが、それでも右半身を吹き飛ばされて宙を舞った。美琴はさらに追い打ちをかけようと駆け出すも、悪魔は異空間の赤黒い妖気を残った左手で掴むと、その中に逃げ込んだ。
メフィストの妖気に満ちたこの空間では彼の本体を見つけ出すのは難しい。いや、この空間そのものがあの悪魔なのか。美琴は太刀を構えたまま、精神を集中させる。妖気が分からないのなら、五感を研ぎ澄ませるだけだ。
背後から微かな音が聞こえ、美琴は振り返ると同時にメフィストの放った妖力の弾を十六夜で切り払った。
「あなたがこの国ですることならば、何であろうと許しはしない」
「怒りに歪む貴方の顔もまた、美しい」
既に右半身を再生した悪魔が赤黒い沼から現れる。この空間の中ではメフィストを殺すのには難儀しそうだ。だが、見逃すつもりはない。
「そして、美しきものは壊れる瞬間が、最も輝く」
刃、槍、鋏、鎌など様々な武器の形をした巨大な触手がメフィストの背後に現れる。美琴は十六夜を構え、迫り来るそれに立ち向かう。




