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黄泉夜譚 ヨモツヤタン  作者: 朝里 樹
第二十話 潮騒
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四 潮騒

「起きたかい?」

 男の声に、朱音は反射的に身を強張らせた。目を開いて声の主を見る。そこには、朱音よりも一回りほど歳を経た外見の男の姿がある。

「驚かせてしまったか。すまない。俺は良介というものだ。美琴様に仕えている(あやかし)さ」

「あなたも……」

 朱音は上体を起こし、小屋の壁に寄り掛かるようにして座った。一体どれくらいの時間眠っていたのかは見当もつかなかったが、ただ空腹だけは感じていた。

「食うかい?」

 良介が皿に焼き魚と米を盛って朱音の側に置いた。良い匂いがして、すぐにでも飛び付きたいような気持ちだったが、それを押さえて良介を見上げる。

「遠慮しなくていい。毒は入ってないよ。美琴様の言付けで、君を元気にしてやってくれとさ」

「ありがとう……ございます……」

 朱音は言って、その食事を口に運んだ。本当に久々の、誰かに作ってもらった料理は体に染み入るようにおいしかった。

 その食事を食べ終えた頃に、小屋の戸が開いて美琴が帰って来た。

「起きたのね。体は大丈夫?」

「はい、お陰さまで」

 もう彼女に対する敵意は消えていた。美琴は朱音の側に座ると、彼女に優しい微笑みを見せた。

「元気になったみたいで良かったわ」

「どうして、私を助けてくださったのですか?」

 朱音は問う。ただ誰にも関わらず、一人で時を過ごしていた自分をこの妖は何故助けようとしたのだろう。

「あなたが悲しそうだったから。その雰囲気が昔の私や、この良介に似ていたのよ。だから放っておけなくてね」

「似ていた、のですか」

「ええ。私も彼も、ずっと昔に大切なものを失ってるの。あなたもそうでしょう?」

 美琴の言葉に朱音は頷いた。この人たちも同じだから、自分を助けてくれたのか。

 妖となった自分を受け入れてくれたのは彼らが初めてだった。




 その夜、朱音は小屋の外の手頃な岩に座って、夜風に当たった。虚無の中から救われたような気分だった。

「朱音」

 美琴が朱音の名前を呼んで、隣に腰掛ける。

「気持ちは落ち着いた?」

「はい。生き返ったような気持ちです」

 朱音は正直な感想を口にした。鈴音がいなくなってから初めて、穏やかな気持ちになれていた。

「あなたの種族は、針女という種族ね」

「針女、ですか」

「ええ。海で死んだ者への想いによって生まれる妖だと聞いたことがあるわ。思い当たるところはある?」

「……はい」

 朱音は頷いた。鈴音への想いが自分の体を変えたのか。朱音は自分の両手を見る。

「美琴様は、何の妖なのですか?」

「私は、死神と呼ばれているわ」

 妖という存在にそもそも詳しくない朱音は、その言葉を聞いても、それがどういう妖なのかは分からなかった。

「私はね、他者が誰か背負った怨みを見ることができるの。私たちの種族はその怨みを穢れと呼んでいて、それが一定の度合いを超えるとその者の命を奪うことを責務とした種族」

 美琴は朱音の無言の疑問の答えるようにそう言った。

「それは、誰かの代わりに怨みを晴らす、ということでしょうか」

「断言はできないわ。私は依頼されてそれを行う訳ではないから。でも余程のことをしない限り私たちに狙われることはない、と言っておくわ」

「そうですか……」

 朱音は考える。鈴音のように無念を抱えたまま死んでいったもの、また生き続けているものはこの世にはたくさんいるのだろう。この人が見ることができるのは、そういったものだろうか。

「あなたはこれからどうするの?行くところがないのなら、ついて来る?ここからかなり離れているけれど、私が住んでいるところまで」

 美琴はそう微笑んだ。予想していなかった言葉に朱音は美琴の顔を見る。

「私などが……、ご迷惑ではありませんか?」

「歓迎するわ、朱音」

 美琴は優しげな声でそう朱音に告げた。

「ありがとうございます」

 朱音は頭を下げる。それから、朱音の新たな生活が始まった。




 朱音は目を薄らと開いた。どうやら眠ってしまっていたらしい。それにしても懐かしい夢を見た。

 目を擦り、朱音は体を起こす。布団に寝かされていたようで掛かっていた掛け布団がずり落ちた。

「朱音、起きた?」

 すぐ近くに美琴が座っていた。まるでさっき見た夢と同じだと思いながら朱音は頷く。

「妖力を消耗し過ぎていたのでしょうね。少しは回復した?」

「ええ、もう大丈夫です。ここは?」

「八百久万里の宿よ」

 自分は倒れて運ばれてきたのか。倒れるなんて、何年振りの経験だろう。

「牛鬼は、どうなりましたか?」

「それは今三助と相談したところよ。朱音、牛鬼と一緒にあなたの妹が現れた理由が分かったわ」

 美琴は少し声を落として、話を続ける。

「牛鬼は他者を妖怪化させる能力を持っている。ある種の寄生体のようなものを使ってね。そして自分で作り出した妖を操り、利用する」

 鈴音も、そんな牛鬼の能力の犠牲となったということか。朱音は拳を握った。あの子はどれだけ苦しめられればいいというのだ。

「美琴様、牛鬼は恐らく、今夜人を襲いに現れます」

 朱音は昼間聞いた老婆の言葉を美琴に告げた。

「牛鬼とは、私が決着をつけさせてください」

「分かったわ」

 美琴は頷き、そう言った。




 牛鬼は深い海の底で、太陽が沈んだことを感じ取っていた。夜は妖の時間。八本の厚い甲殻に覆われた足を動かし、牛鬼は海辺へとその巨体を進ませる。

 昼間のうちに何人か人の肉は食ったが、まだまだ腹は満たされない。この飢えを満たし、自身を封印し続けた人間たちに対する憤怒が収まるまで、彼が暴れることを止めることはない。

 浜辺に現れた牛鬼は、夜空に向かってけたたましい叫びを上げ、人間たちの匂いが漂う方向へ向かって侵攻を開始する。




 隆介は隣を歩く彼の恋人、朝美に、昨夜牛鬼塚から取って来た大きな水晶を見せた。

「わぁ~綺麗」

 朝美はそんな感想を漏らして、両掌にやっと収まる程の大きさの水晶を持つ。

 朱音は思い出の海辺に立った。この海で鈴音は死に、自分は妖となった。

「どうだ?お前のために取って来てやったんだぜ?」

「ありがとう隆介!」

 隆介の言葉に朝美がそう笑顔で返す。隆介は誇らしげな気分になった。この水晶もあんなところに放置されているよりもこんな風に自分の彼女を喜ばせるために使われた方が有意義だろう。

「ねえ、隆介、あれなんだろう」

 朝美が前方を指差して言った。隆介もその方向を見ると、黄色い二つの光が宙に浮いている。誰か提灯でもぶら下げているのか。こんな田舎だから、そんな奴がいてもおかしくはない。

「あ……」

 そう朝美が声を上げた、その直後、彼女の体は一瞬で隆介の前から消えた。

「朝美……?」

 ぐちゃぐちゃと何かを噛み砕くような音が聞こえて、隆介の顔に生温かな液体が落ちて来て、当たった。

「最近の人間は変なもの付けてんのか。あんまり美味くねえなぁ」

 腐臭のような呼気とともに、隆介の目の前に現れた怪物はそう言った。隆介は小さく悲鳴を上げ、後ずさる。

 怪物口から朝美の持っていた水晶が落ち、隆介の側まで転がって来た。怪物はそれを見つけると、細長い前足を伸ばし、それを砕いた。

「あ~、こいつが俺を封じてたのか。すっきりした」

 怪物は低い笑い声を上げ、そして爛々と光る黄色い目を隆介に向ける。

「お前には、少し働いてもらうか」

 隆介は逃げ出そうと怪物に背を向ける。その背中に、怪物の足が突き刺さった。




 朱音と美琴が人間の町に辿り着いた時には、既にそこは地獄に変わっていた。

 悲鳴を上げて逃げ惑う人々を、牛鬼は次々と食らわれ、また時には自身の妖力を寄生させられ、傀儡と化していた。

 牛鬼の侵攻を妨げる建造物は瓦礫と化し、立ち向かう人々は肉片と化す。

 親は子を探し、子は親を探して徘徊し、嘆きと恐怖に世界が満ちる。

 かつて牛鬼が現れる度、この阿鼻叫喚に満ちた混沌の世界が作られた。それがまた繰り返されている。

「ひどいものね」

 美琴は襲いかかって来た人の姿をした異形をあしらうようにして斬り払った。体を真っ二つにされたその傷口から、目鼻のない細長い芋虫のような巨大な何かが這い出して来る。

 美琴はそれを足裏で踏み潰した。

「これが牛鬼の寄生体。妖力を相手の肉体に送り込み、これを作る」

 朱音は頷いた。鈴音もこの寄生体に体を奪われたのか。そう思うと、口惜しくて仕方がない。

 だが、牛鬼の寄生の対象となるのは肉体のみ。鈴音の霊体(こころ)だけでも救われていることを、朱音は祈る。

「すぐにでも、殺さねばなりませんね」

 朱音は赤く変化した瞳に怒りを湛え、そう呟いた。

 朱音は火の海と化し始めている町を見た。相手が強い妖力を発しているお陰で、相手の位置は分かる。朱音はビルの側面に伸ばした髪を突き刺し、体を持ち上げる。


「もう駄目じゃ」

 隆介の祖母であるその老婆は、壊れ行く町を見つめてそう呟いた。今すぐに逃げだせば自分は助かるかもしれない。だが、まだ孫が返って来ていなかった。

 生きているのか、死んでいるのかもわからない。だがそれを確認せずにここをでることはできない。あんな孫でも可愛い孫だ。それに、あの牛鬼が暴れ出した原因は自分の孫にある。それなのに自分が逃げ出すなど言語同断だろう。

 牛鬼が見慣れた町並みを瓦礫の山に変えながら、迫って来る。老婆は覚悟を決め、道の真ん中に立った。あの妖怪が自分を食っている間に、一人でも多くのものが逃げ出せればいい。

 牛鬼がすぐそこにいる。老婆は目を見開き、憎き相手を見据える。最後まで屈するつもりはなかった。

 だが、彼女の目の前に突如として現れた影があった。長い髪を垂らしたその女は老婆と牛鬼との間に立ち、老婆の方を振り返った。

「無事ですか?」

「あんたは……」

 それは、老婆が昼間見た濡れ女に似た女性だった。彼女もまた、妖怪だったのか。しかし、こちらに対する悪意は感じない。

「私の後ろにいてください。すぐに、終わらせますから」

 その女性は言い、牛鬼に向き直る。




 口から毒の息を吐きながら、巨大な蜘蛛のような妖は朱音を睨む。

「貴様は、昼間の」

「私の妹は、返してもらいます」

 朱音の言葉の意味を悟ったのか、牛鬼は嘲るように笑った。

「お前、あの女の姉か。確かに似ている。姉妹揃って妖怪になっているとは」

 朱音は無言のままに髪を操る。夜の風に髪が拡散し、妖力を得て硬質化する。

「これでも攻撃できるのか?俺を」

 嘲りにも似た牛鬼の言葉とともに彼の目の前に鈴音が現れる。燃える町を背に、虚ろな目で朱音を見て、彼女は微笑もうとする。あの微笑みは、他者から妖力を奪う力を持っている。自身の経験で朱音はそれを知っていた。

 その力を使えば、妖力の微弱な人間ならほぼ動くことも敵わなくなるだろう。そうやって、鈴音の肉体は人を殺す手助けをさせられていたのか。朱音は歯を食いしばる。

「無駄ですよ」

 朱音は結界を発動させた。相手の出方が分かっていれば、防ぐのは難しいことではない。

 自分と同じように、大切な誰かを化け物とされ、それによって命を落とした人間たちもこの燃え盛る町の中にはいるのだろう。

 朱音の瞳が血のように赤く染まり、髪の先から赤い液体状の妖力が滴る。妖怪針女として妖力を開放した朱音は、改めて牛鬼と対峙する。

 虚ろな表情のまま微笑み続ける鈴音の後ろで、牛鬼は牙の並ぶ口で笑う。

「中々の妖力だな。食えば力になりそうだ」

 牛鬼はそう言い、紅に染まる闇の中を轟音を上げて突進して来る。それから目を逸らし、朱音は一度だけ、鈴音の姿を見た。

「もうすぐ、終わるからね」

 そう一言呟き、朱音は赤く燃える瞳を牛鬼に向けた。叫びとともに、全ての髪が嵐のようにざわめき、牛鬼に向かってその鋼と化した鈎針が空気を斬り裂く。

「私は、あなたを許さない!」

 鋼の髪は突進する牛鬼に正面からぶつかった。朱音の怒りを纏ったそれは牛鬼の堅い表皮を突き破り、肉と内臓を抉って再び表皮を貫いた。

 しばらくの間静寂が続いた。朱音は動かなくなった牛鬼から髪を引き抜き、そして妖力を収めた。目の色が戻り、髪も縮まる。そして、朱音は虚ろな視線をこちらに向けている鈴音に近付いた。

「鈴音、ごめんね。あなたがこんな目に合っていることを、私は気付けなかった」

 答えはないと知りながら、朱音は悔恨を吐露する。だが、その朱音の頬に妹の指が触れた。

「姉さん……、ありがとう……」

 霊体(こころ)の無いはずの鈴音は、最後に自分で微笑みを作って、そして朱音の目の前で崩れて行った。牛鬼の妖力が切れた彼女の肉体は消失し、そして白骨だけが砂浜の上に積み上がった。

「鈴音……」

 この肉体に残っていた僅かな霊体が最後の言葉を妹に言わせたのだろうか。朱音は悲嘆の声を上げ、優しく鈴音の頭骨を抱きしめた。


「終わったみたいね」

 牛鬼に操られていた人間の体が、唐突に力を失って倒れて行くのを見て、美琴は言った。

「そのようだ」

 隣にいた三助が同意する。彼は美琴を見て、小さく息を吐く。

「貴殿の言うとおり、俺は手を出さなかったが、無事に済んだようだな」

「ええ、済まなかったわね。でも、あの子には自分で決着を着けて欲しかった」

 美琴は太刀を収めた。寄生体たちは牛鬼が死んだことで消失しただろう。ここに倒れているものたちもその親しい者たちに弔われることを願う。

「朱音殿を信頼しているのですな」

 三助が言った。美琴はそれに、微笑して答える。

「もちろんよ」




「綺麗な海ね」

「はい。私の大好きな海です」

 潮騒の音だけが夜明けの空気を揺らしている。ずっと昔、妹と一緒に聞いた波の音。私の故郷の音だ。鈴音もこの音をどこかで聞いているだろうか。

 朱音と美琴は、鈴音が死し、また朱音が妖と化した海を眺めていた。鈴音の亡骸は、改めて墓標の下に埋葬された。

「帰りたくなくなった?」

 美琴が小さく笑って、そう尋ねる。その問いに、朱音は首を静かに横に振った。

「いいえ、黄泉国も私の大好きな場所ですから」

 誰かが帰りを待っていてくれる場所。それが朱音にとっての黄泉国だ。あの時、美琴に誘われていなかったら今の自分はないだろう。美琴たちもまた、鈴音と同じように自分の家族だと朱音は思う。

「帰りましょうか!きっと良介さんも恒君も、美琴様の到着を待っています」

「それに、あなたの帰りもね」

 二人は海に背を向けて歩き出す。朱音は夜明けの空を見つめて、ひとつ大きく息を吐いた。




異形紹介

・牛鬼

 牛鬼(うしおに)牛鬼(ごき)などとも読む。民間伝承においては近畿、中国、四国、九州など西日本に現れる水辺のの妖怪であるが、文学においてもその名は良く現れる。

 頭は牛で体は鬼、またはその逆、さらに体は土蜘蛛などと伝えられているが、現在では『百鬼図巻』に描かれた、黒い蜘蛛の体に鬼のような頭をした姿が定着している。また鳥山石燕の『画図百鬼夜行』には、それとは別の姿の牛鬼が描かれている。

 山陰や北九州では海岸から磯女、濡女といった妖怪とともに現れ、赤子を抱いた女に赤子を抱いてくれ、また食べ物をくれと頼まれ、それを承諾すると赤子が石のように重くなり、動けなくなったところを牛鬼に襲われると言う。

また、愛媛では宇和島地方にて牛鬼が体をばらばらにされて殺されたという伝承があり、現在では牛鬼の作り物を出す祭りも開かれている。

 海の他にも川や淵、洞窟などに現れることもあり、出会っただけで病気になる、殺すと祟りを起こす、その正体は椿の根であるなど様々な伝承がある他、文学の分野においては東京の浅草に現れたという伝説が『吾妻鏡』などに残されており、また『枕草子』においては「おそろしきもの」の一つとして挙げられ、『太平記』では酒呑童子や土蜘蛛との対決で有名な源頼光と戦っている。

 牛鬼を倒したものが次の牛鬼になる、牛鬼の正体は寄生生物である、という設定は水木しげる氏が『ゲゲゲの鬼太郎』において牛鬼を登場させた際に新たに設定したものだが、現在では有名になり、また『ぬらりひょんの孫』や『妖怪のお医者さん』などの他の漫画作品でもオマージュされている。

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