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黄泉夜譚 ヨモツヤタン  作者: 朝里 樹
第二十話 潮騒
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三 針女と死神

 最初、朱音(あかね)は自分がどうなったのか分からなかった。体がふわふわと浮くような感覚と、体中を覆う冷たい何か。暗闇が視界を支配し、朱音は何もわからないままに漂っていた。

 目を開いても何も見えない。暗い世界だった。朱音は少しずつ覚醒していく意識の中で、自分がどうなってしまったのかを考える。

 私はあの崖から自ら飛び降りた。ならばここは、あの世だろうか。私は、死んでしまったのか。

鈴音(すずね)……」 

 朱音は妹の名を呟こうとしたが、それは口から出た泡となって上に昇って行った。それで気がついた。ここは水の中なのか。

 朱音は何度か、妹に呼び掛けるようにその名前を口に出した。だけど、それはいくつもの泡になるだけで声にはならず、鈴音が現れることもない。

 鈴音は、死んでしまった。自分を庇って、あの男たちに殺された。あの子は何も悪いことをしていないのに。どうして、殺されなければいけなかったのだろう。

 胸を抉るような喪失感と、心を燃やすような怒りが朱音を支配した。そして、彼女は自分自身に起きた変化を自覚した。

 今まで感じたことがないほどに、体が軽い。そして不思議な力が溢れてくるようだった。朱音はその見えない力を求めた。

 私はまだ生きなければならない。あの子の無念を、私の無念を抱えたまま、死んでしまってはならない。

 朱音は本能的に自身の長く伸びた髪に力を通わせた。彼女の髪はさらに伸び、しなやかさはそのままに強靭な硬度を得る。

 朱音はそれを尾びれのように波打たせて、水中を上昇する。自分の体に起こった変化に恐怖はなかった。ただ、嘆きと怨嗟だけが彼女を動かした。

 やがて水面(みなも)を突き破り、朱音は月明かりの下にその身を(さら)け出した。最早人間ではなくなったことを自分でも知りながら、彼女は近くの岩場に伸ばした髪を突き刺し、体を引き上げる。


 朱音は、妖怪「針女」として二度目の生を受けた。


 昼間朱音と鈴音を襲った山賊の一人、方助は彼の仲間たちが拠点としている洞窟を出て、一人夜の山道を歩いていた。

 理由はただ単純に小便がしたくなったからだ。彼らの拠点には厠と言えるものはないため、そこらで適当に処理することになる。

 方助は木の根元で用を済ますと、拠点としている洞窟に戻ろうと歩き出した、が、彼の前に現れた人影を見て足を止めた。

 白い和服を着たその姿は、一瞬亡霊のように見えたが、それが女だということが分かって彼の恐怖心はすぐに劣情に変わった。夜道に迷ってこんなところに来てしまったのだろうか。

 女は方助の姿に気付いていないのか、彼が近付いてもほとんど動かなかった。方助はもうすぐ手が届くという距離まで近付いて、声をかけた。

「姉ちゃん、こんな夜中にどうしたんだい?」

 女が方助を見た。顔のほとんどが髪によって隠れていたが、整った顔をしていることは分かった。

 女が方助に向かって微笑んだ。その妖艶にも見える笑みに、方助は思わずだらしない笑みを返す。だが、その瞬間に彼の体に何かが巻き付き、動けなくなった。

「何だ、なんなんだ?」

 体を締め付ける何本もの細い紐のような感覚に方助はうろたえる。女はその方助の様子を見ても尚、笑っている。

 方助は月明かりの下に照らされたその女の顔に、凍りついた。それは昼間自ら崖下に身を投げたはずの女の顔だった。その上、彼女の髪が伸びて、自分の体を拘束している。

「も、物の怪め!」

 方助の言葉には反応を示さず、女は彼に巻き付いているのとは別の髪の束を触手のように動かし、先端が鈎針状になったそれを彼の顔の前に突き付ける。

「なんだよ、それで刺そうっていうのか!?やめてくれよ!謝るからよぉ!」

 だが、その言葉が女に届くはずもなかった。女はその髪の束を少し後ろに引くと、一気に彼に頭部に向かって突き出した。




 朱音は額から血を流す男を一度見下ろしてから、背中を向けて歩き出した。暗闇の中にも関わらず、朱音の目はよく冴えていた。辺りに生えている木々の形も、時折道を横切る獣の姿も良く分かる。

 鈴音を死に追いやったのは、この男だけではない。まだ殺さなければいけない人間たちが残っている。

 朱音は迷うことなく道を進み始める。この先に妹の(かたき)がいる。それを確信していた。




 山賊たちの首領、元人は苛立ちながら焚火で焼いた肉に食らいついた。今日は獲物を二人とも逃がしてしまった。もしどちらかでも捕らえていれば、この夜はもっと楽しいものになっただろうに。

 肉を酒で流し込んで、元人は息を吐く。女ならいくらでもいる。明日にでも近くの村を襲って、食い物と女を取ってこよう。そんな風に考えながら元人は酒を注いだ。

 誰にも何にも縛られない生き方。それが自分の生き方だと、彼は考えていた。そのために何かが犠牲になるのは、それらの力が弱いのが悪いのだ。

 手下たちの笑い声が洞窟内に響く。このものたちも特別役立つとは言い難いが、いないよりは良い。

「私の妹を殺したのに、あなたたちは笑って、お酒を飲んでいるのですね」

 震えたような女の声が聞こえて、元人は洞窟の入り口の方を見た。焚火の明りを微かに受けた、黒い人影がそこにある。こんな時間に女とは。元人は訝しげに目を細める。

「何だてめえは」

 仲間の山賊の一人がその女に近付いて行く。だが、女の振った何かによって彼は後方に弾き飛ばされ、元人のすぐ横の壁面に叩きつけられた。

「お、おい」

 仲間の顔を覗くと、口から血を流し、白目を向いている。死んでいるのか気絶しているのかは分からなかった。

 洞窟の中にいる男は自分を含めて五人。その屈強なら体をした男たちは全員、女を見て戦慄していた。なぜなら、その女の姿が、人間ではなかったから。

 女の髪はそれぞれが意志を持つように女の周りを(うごめ)いていた。その黒い渦の中に、赤い目をし、怒りの形相に顔を歪ませた女の姿がある。

 山賊仲間の一人が逃げ出そうとした。その瞬間に女の髪が一つの束を作り、その男の胸を貫いた。

 悲鳴を上げる間もなく男はそのまま洞窟の内壁に釘付けにされ、最後の息を吐いて項垂れた。

 女は血に塗れた髪を引き抜くと、微笑して男たちを見た。血のような赤い目が細められ、元人は背筋が凍るような恐怖を覚える。

 女の髪が一気に拡散する。それは波打ちながら男たちに向かって伸びて来た。黒と赤に染まった視界の中、あちこちで男たちの悲鳴が上がり、洞窟の中で反響する。

 元人は必死に髪から逃れようとするが、狭い洞窟の中では動くことができる範囲は限られている。すぐに逃げ場がなくなり、壁に背中を押しつけた彼に向かって、幾つもの束になった髪の槍が伸びてきた。

 体中に太い針が突き刺さる感覚と痛み。血塗れになりながら元人は男に倒れる。意識が掠れて行く中で、元人は男たちの悲鳴が呻きに変わり、やがて聞こえなくなる。

 女が元人の側へと歩いて来る。元人は顔を上げ、その女の顔を見た。良く見れば、それは昼間崖に落ちたはずの女だった。

「復讐にでも来たのか?」

 元人はできる限りの嘲りを声に(にじ)ませて、そう言った。だが女は彼に向かって微笑みを返すと、その顔目掛けて髪を伸ばした。




 朱音は肉が転がり、血に染まった洞窟の中心で、ただ一人佇んでいた。もの言わぬ死体たちを朱音はただ虚ろな目で眺める。

「鈴音……」

 朱音は妹の名前を呟いた。これで彼女の仇は取ることができた。だけど、ただ虚しい。

 あの子は死んでしまった。こんな奴らのせいで。でも、この男たちを殺してしまったことで自分はもうここに存在する意味を見失ってしまった。

 こんな体になってしまっては、もう村にも家にも帰ることはできない。そして、鈴音ももういない。

「もう、いいや……」

 朱音は一人呟いて、洞窟を出た。もう何もかもを失ってしまった。ただ、人間とは違う存在となっただけだ。

 外で殺した男は自分のことを物の怪と言っていたか。それでももういい。鈴音の仇は取れた。それで十分だ。

 朱音は一人月の下を歩き、妹とともにいつも歩いていた道を一人辿った。

 人間であった頃と違って体は辛くなかった。だけど、心は穴が空いてしまったように満たされない。

 坂道を下り、海辺を歩く。そして鈴音が落ちて行ったであろう場所に見当をつけて、海に潜った。

 不思議と呼吸は苦しくならなかった。髪を使った泳ぎ方も体が知っている。朱音はひたすらに海に潜り、泳ぎ続けたが鈴音の亡骸は見当たらなかった。もう、波に運ばれてずっと遠くへ行ってしまったのだろうか。

 朱音は砂浜に上がった。そこはずっと昔、子供の頃に鈴音と良くやって来た小さな入江だった。二人の秘密の場所として、この場所で遊んでいた。

 自分の後にくっついていた小さな鈴音を思い出して、朱音は熱を帯びた目頭を押さえた。

 ここに、鈴音の墓標を作ろう。亡骸は見つからなかったが、それでも鈴音が確かに存在したと言う証が欲しかった。

 朱音は近くの岩場から自身の膝の丈ほどの石に髪を巻きつけ、入江の崖際まで運んだ。

 硬質化した髪の針を使って石を削り形をある程度整えた後、朱音は石の側面に鈴音の名前を彫った。

「守ってあげられなくて、ごめんね……」

 昔からそうだった。私は守られてばかりだった。朱音は妹の墓に縋り、朝が来るまで慟哭の声を上げ続けた。




 それから、朱音は人々から隠れるようにして生きた。彼らにとっては自分は化け物だ。それは分かっている。人を殺し、人にはない力を持った。家族には迷惑をかけたくないから、ただ朱音は人の来ない海辺を住処として、日々を過ごした。

 いつか妹とともに聞いた潮騒だけが、朱音の心を癒してくれた。ただ海原を眺めて過ごしながら、夜には村の周辺を歩いて村を狙う山賊などを見つけて、彼らを襲うこともあった。化け物の自分にできるのはそれくらいだった。

 そのうちに、その周辺では女の亡霊、物の怪が現れると言う噂が立つようになった。夜になると人を襲いに現れる女の妖。その微笑みに微笑みを返したならば、呪われる。そんな噂だ。

 それで人々が自分から遠ざかるならそれでもいい。化け物となった自分を、知っているものたちに見られたくはなかった。




 そんな生活を続けて、一月(ひとつき)ほどが過ぎたころだろう。朱音の元に、ある一体の妖が現れた。

 見た目の歳はまだ二十に満たない程度。長い黒髪を腰の辺りまで伸ばし、瞳も夜の海のように澄んだ黒をしている。

「誰ですか、あなたは?」

 朱音は尋ねた。化け物がいると聞いて興味本位で見学にでも来た少女だろうか。もしそうなら、少し驚かせて帰ってもらおう。

「私の名前は美琴。あなたと同じ(あやかし)よ」

 少女の口から発せられたその言葉は、朱音にとっては予想外のものだった。

「妖……?」

「そう。この辺りに負の霊気が漂っているようだったから、来てみたのだけれど……、あなた、何かあったの?」

 美琴と名乗った少女は小さく首を傾げながらそう問うた。余計なお世話だ。朱音は美琴を睨む。鈴音との思い出の中に、誰も入って来て欲しくはなかった。

「あなたには関係のないことです」

「でも、あなた弱ってるじゃない」

 美琴の言う通りだった。人間であったころと比べれば異様なまでに強靭な肉体を手に入れたが、それでもまともな食事も住居もない日々に、朱音の心も体も消耗していた。

 それは鈴音を守ることができなかった自分への罰だと思っていた。鈴音を見殺しにし、自分だけが生き残ってしまったのだからそれも当然だと、朱音は思っていた。

「自分のことは自分で何とかします。だから、私に関わらないで!」

 朱音は髪に妖力を通した。もちろん相手を傷付けるつもりはなく、ただ脅しのつもりだった。だが、弱った体は上手く妖力を扱うことができず、髪は勢いを保ったまま美琴へと真っ直ぐに伸びて行った。

 このままではあの少女に突き刺さってしまう。朱音は慌てて髪の進路を変えようとするが、妖力が上手く働かない。

 だが、美琴は逃げようともせずに腰に佩いた太刀に手をやった。同時に瞳が紫色に変わり、服装が青紫の和装となる。そして、彼女の抜いた太刀は朱音の髪を簡単に弾き返した。

 相手に髪が刺さらなかった安堵と、攻撃を返された衝撃で、朱音砂浜の上に尻もちをついた。髪も力を失い、次々と地面に落ちる。

 体が重い。無理が祟ったようだった。美琴は太刀を鞘に納め、近付いて来る。

「ほら、妖力も霊力もぼろぼろじゃない。いいから来なさい」

 美琴は朱音の手を取って、立ち上がらせる。もうそれを振りほどく気力もなかった。




 美琴に連れていかれた先は、村の外れにある小さな小屋だった。今では人々には使われていないようだと美琴は朱音に話した。

「お節介かもしれないけれど、きちんと休んで行きなさい」

 美琴に促されて、朱音は一月振りにまともな寝床に横になり、泥のように眠った。

 夢の中で、朱音は鈴音と幸せな時を過ごしていた。海を見て、語り合って、笑い合って。だが、鈴音は最後には悲しそうに笑って朱音に手を振り、朱音は妹に手を伸ばそうとして、そうして目が覚めた。



異形紹介

針女(はりおんな)

 針女(はりおなご)、笑い女子(おなご)とも言う。水木しげる氏の著書『日本妖怪大全』によれば四国の宇和島地方(愛媛県)に現れた女の姿をした妖怪で、ざんばら髪の先が鉤針(かぎばり)になっており、この鉤を引っ掛けられると大の男でも身動きが取れなくなり、連れて行かれてしまうらしい。また、美しい女の姿をしていて、微笑みかけて微笑み返した男を襲うともされる。

 しかし元来はこの特徴は「濡れ女子(おなご)」と呼ばれる妖怪の特徴であり、水木しげる氏が髪の先が鉤針状になっているという濡れ女子の特徴を強調したのが、針女なのではいかとされている。だが現在では漫画『ぬらりひょんの孫』に登場するなど、針女という妖怪が独立して認知されていっているようだ。

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