二 朱音と鈴音
翌日、朱音と美琴は八百久山里を早朝に出た。目的地は朱音の妹、鈴音の墓。
「この辺りもすっかり変わってしまいましたね」
朱音はコンクリートに固められた道路を歩きながらそう呟く。昔のこの道は土がむき出しになっていて、横には松の木が並んでいた。
「数百年も経てばどこだって変わるわ」
美琴の言葉に朱音は小さく頷く。今では松の木もなくなって、白いガードレールが道に沿って設置されている。だけど、妹の墓へと続く道は忘れていない。
海辺の坂道を降りると、やがて砂浜に辿り着く。鈴音が眠っているのはその先だ。
柔らかな砂は、歩いて行く内に固い岩へと変わる。そしてその岩場をしばらく進むと、一部だけ砂浜となった入江が現れる。そこが二人の目指すところだった。
横を岩場に、前後を崖と海に囲まれたその場所は、誰かが訪れることは滅多にない場所だった。その崖の下に鈴音の墓石は置かれている。
「着いたわね」
「……はい」
朱音は一年振りの妹の墓石に静かに手を置いた。鈴音は海が好きだった。潮の匂いと、波の音がいつも包まれていた。だからこそ朱音は、人の訪れないこの場所で、いつまでも海と向き合えるよう、ここに妹の墓石を置いた。
朱音は物言わぬ石に手を合わせた。横で美琴も同じことをする。海が好きで、そして海で死んでいった鈴音。七百数十年も前のことなのに、あの子の笑顔は今でも鮮明に思い出せる。
朱音は真水で鈴音の墓石を洗ってから、美琴を振り返った。
「すみません、たったこれだけのことなのに、美琴様を付き合わせてしまって」
「いいのよ。私が自分で付いて来たんだもの」
美琴はそう微笑む。美琴は鈴音と会ったことはない。だけど、妹のために手を合わせてくれる誰かがいることは朱音にとっては嬉しいことだった。
「美琴様、少しの間、私と妹を二人にしてもらってもよろしいでしょうか」
「分かったわ。その後は、愛媛を観光でもしてから帰りましょうか」
美琴はそう言い残し、一人岩場の向こうへと去って行った。朱音は彼女の後ろ姿を見届けてから、妹の墓石に向き直る。
「一年振りだね、鈴音」
朱音は優しい口調で妹に語りかける。
「鈴音、あなたがいなくなってから何年が経ったのでしょうね。でも私はあなたのことを一日として忘れたことはなかったよ。きっとこれからも忘れないと思う」
鈴音とは、よくこの海辺を一緒に歩いた。そしてこの場所は、この姉妹二人だけの秘密の場所だった。
朱音は少しの間鈴音の墓に語り続けた。ほとんどは毎年と同じ、かつての姉妹の思い出だった。こうして一年に一度だけ、かつてまだ人間だった頃の、妹との記憶を辿り直すのが朱音にとっての恒例となっていた。
「じゃあ、私はもう行かなきゃね。美琴様が待ってるから」
朱音は一度名残惜しそうに墓石を見てから、歩き出そうとした。だが、振り返った彼女の目は海辺に立つ白い和服の女の姿に釘付けになった。
その女は、物悲しげに朱音の姿を見ていた。全身が水に遣っていたように濡れそぼっており、長い黒髪は地面まで垂れている。
「鈴……音……?」
朱音が辛うじてそう言葉を漏らす。その姿は、何百年も前に死んだ筈の朱音の妹、鈴音に瓜二つだった。
「……姉さん」
鈴音の口がそう動いたような気がした。薄らと微笑みを浮かべ、鈴音はこちらを見つめる。その瞬間に、朱音の体が一気に重くなった。さらに背後に何か巨大な気配が迫っている。
朱音が慌てて振り返ると、朱音一人を軽く飲み込めるほどの巨大な口が開かれ、何本も並ぶ鋭い牙が眼前に迫っていた。
朱音は結んだままの髪の毛に妖力を通すと、妖の頭部目掛けて鋼の槍と化した髪を伸ばした。
髪が顔面に突き刺さり、妖の口が苦痛によって閉じる。だが、突進の勢いまでは止まらず朱音にまともにぶつかり、彼女の体は弾き飛ばされて崖にぶつかった。
一瞬痛みで動けなくなった。霞む視界の中、朱音の目は妹の姿を捉える。その姿は妖が苦痛に呻きながら海に戻るとともに、見えなくなった。
「それは恐らく、牛鬼でしょうね」
美琴は朱音の話を聞いて、そう言った。二人は海辺の近くの公園のベンチに座り、話していた。
「牛鬼……」
朱音の負った傷は深くはなかったが、精神的な動揺が大きかった。
「ええ。その妖怪は鬼のような頭に、蜘蛛のような体をしていたのよね?」
朱音は頷く。確かそうだった。皮膚は茶色で粘液に濡れており、頭部は般若のような形相に、牛のような角。体は複数の足が生えていた。
「それに、牛鬼には女の姿を見せて相手の注意を引いた後、後ろから襲いかかると言う特性がある。だけど、どうしてあなたの妹の姿が見えたのかは分からないわ」
朱音は思い出す。虚ろな目でこちらを見ていた鈴音の姿を。あれは牛鬼が見せた幻だったのか、それとも実体のあるものだったのか。
「とりあえず私は三助に連絡しておくわ。彼も牛鬼のことは知っておくべきでしょうから。それにあなたも少し休んだ方がいいわね。妖力がかなり減っているみたい」
美琴はそう言って立ち上がった。朱音はぼうとしたままその後ろ姿を見ていた。美琴の言う通り、妖力をかなり消耗しているようだった。鈴音の姿を見てからだ。
ぼんやりとする頭で、何故妖力が消えているのか考えようとするが、頭が働かなかった。それよりも妹の姿が浮かんでくる。数百年振りに見たあの子は、とても悲しそうな顔をしていた。
「あんた、牛鬼と言っていたね」
そんな声が聞こえて、朱音は顔を上げる。すると彼女の近くに一人の老婆が近付いて来て、彼女の横に座った。
「それに、あんたの顔は濡女にも似てる」
「お婆さん、なにか御存じなのですか?」
朱音は小さな声でそう尋ねる。すると、老婆は頷いて答える。
「知っとるよ。牛鬼様はここらでは有名な妖でね。ずっと海に封じられていたんだ。だけど私の孫がね、つい昨夜に、牛鬼様を封じていた塚の石を取ってしまったんだ」
「塚の石を……?」
「そう。それはつまり、封印されていた牛鬼様が再びこの世に出てしまったということ。あんたは、牛鬼様を見たのかい?」
「……ええ」
「そうか……、やはり。よく助かったもんじゃ。それにしても、牛鬼様がまた暴れ出してしまう。この町はもう終わりかもしれんなぁ」
老婆は溜息をつくようにそんなことを言った。
「どうして、そんな諦めたようなことを……・」
「わしはね、昔牛鬼様が暴れるのを見てているんじゃ。子供のころのことだがね」
老婆は溜息をつき、話し始める。
「まだわしが十になったばかりの頃じゃった。あの時も塚の水晶を勝手に持ち帰ろうとしたものがおってな、それで牛鬼様が暴れ出し、村や町は火の海になった」
「あなたは、牛鬼を見ているのですか」
朱音の問いに、老婆はゆっくりと頷く。
「そう。牛鬼様は濡女という妖怪を使ってな、まず男を呼び寄せて、背後から襲いかかって食らうんじゃ。そうして封印で失っていた力を取り戻す。その濡女に、お前さんは似ておる」
美琴の言っていた通りだ。しかし何故、その濡女が鈴音の姿をしているのだろう。この老婆の話を聞く限り、数十年前も鈴音の姿で現れたようだった。自分と鈴音とは姉妹なのだから、似ているのは当然だ。
「坊さんやら神主やらをかき集めて、さらに周辺の男たちが総出で牛鬼様に対抗して、やっと封印することができたよ。何人も犠牲を払ってね。なのにまた、じゃ。ただでさえ今では物の怪の存在など信じる者はいなくなっている。わしもずっとどう解決するか考えていたが、結局答えは出なかった」
老婆は天を仰ぐ。
「後はもう、天に任せるしかない。お嬢ちゃんも早く逃げた方がええ。牛鬼様が力をつけて暴れ出す前にね」
老婆はそう言い残し、去って行った。朱音は働かない頭で、彼女の話を反芻する。
どうして濡女の姿が鈴音だったのだろう。あの老婆も同じ姿を見たということは、自分だけの現象ではなさそうだった。
鈴音が牛鬼に利用されているのだろうか。それとも、彼女も自分が知らないうちに妖怪化していたのだろうか。朱音は目を閉じて、考える。その内に、次第に意識が遠退いて行った。
「姉さん!」
数えで二十を超えたばかりの鈴音の嬉しそうな声が、自分を呼んでいる。朱音は陽の光に目を細めながら家を出た。
「急かさないでよ、鈴音」
「だって姉さんが遅いから」
鈴音はそう言って、穏やかに笑った。
今日は隣の村に嫁に出て行った妹が久々に返って来ていた。体が弱く、未だに嫁に行くことも、家の手伝いも満足にできていない朱音には、鈴音の姿は眩しかった。
朱音と鈴音は、並んで歩いた。こうしていると子供の頃を思い出す。
「久し振りだね、鈴音と散歩するのも」
「うん。昔は毎日行ってたよね」
村を出るとすぐに側に崖がある道に出る。その崖下には深い海が広がっており、波の音と潮の匂いがする風が体を満たす。
物心ついた頃に母に教えられた海への道。妹ができた時には、朱音がこの道を教えてあげた。それからはこんな風に二人で並んで歩いて、海へと向かうのが日課となった。
鈴音は海が好きだった。春でも夏でも、秋でも冬でも海辺へと行くことは止めなかった。朱音もそんな妹と一緒に見る海が好きだった。
「姉さん、この道も懐かしいね」
「そうね。子供の頃はよく鈴音がこの坂で転んだねぇ」
「今はもうそんなことないから」
鈴音はそう笑った。左右に松の生えたこの坂道を下っていくと、砂浜が現れる。白く柔らかいその砂粒の感触も昔の頃のままだ。
鈴音は波打ち際まで小走りで行くと、両腕を上に掲げて伸びをした。朱音もゆっくりとした足取りで妹の後に続いた。
朱音は幼いころから体が弱かった。少しでも無理をすれば病気になり、他の子供たちは当たり前にしている家の手伝いも、遊びもできなかった。できることと言えば、体を激しく動かすことのない内職ぐらい。編物や縫物をして家を助けることぐらいしか、朱音にはできなかった。
それなのに、朱音の両親は彼女を大事にしてくれた。すぐに寝込んでしまう彼女を決して疎まなかった。そして、それは体の丈夫な妹が生まれてからも変わらなかった。
きっと自分は幸せな家に生まれたのだと、朱音は思う。鈴音も役立たずの自分に懐いてくれて、悪く言ったことは一度もない。それが逆に、朱音は申し訳なかった。
せめて嫁にでも行って子供を作ることができれば、少しは家の助けになるだろうか。だが、自分が出産に耐えられるような体をしていないことは朱音自身が一番よく知っていた。両親も、彼女をどこかに嫁がせることは一度も提案していない。父と母が自分のことを思ってくれているのが分かるのが、朱音には辛かった。
「姉さん、暗い顔してないでこっち来なよ!」
鈴音に呼ばれ、朱音は彼女の隣に立つ。目の前にはどこまでも続く青い水面が広がり、晴天の空から降り注ぐ陽の光が、海面の波に当たって砕けている。
「鈴音は、海が好きよね」
「そうだね~。だってさ、私はずっとこの海を見て育ってきたから、家族みたいなものじゃない?」
鈴音はそう言って笑った。確かに、この海は自分たち姉妹の成長を見守って来てくれた。
朱音は少し波打ち際から離れて、砂浜の上に座った。鈴音もそのすぐ側に腰を下ろす。
波は規則正しく近付いては離れて行く。姉妹しかいないその場所に、波の音はよく響いた。幼いころから慣れ親しんだ音だから、耳に良く馴染んでいて心地良い。
それから少しの間、朱音は妹と子供の頃の話や、それぞれの家に状況を話し合った。鈴音とその家族は上手く行っているようだ。姉としてそれに一安心する。
鈴音が家を出て行った時は、体の一部を失ってしまったような寂しさがあった。自分に良く懐いていてくれて、そして体の弱さも気遣ってくれた。今思えば、自分は妹に甘えていたのだろう。
鈴音がいなくなってからの日々は、本当に心細かった。だけど今なら彼女の幸せを心から祝福できる、そう思う。
「そろそろ帰ろうか。お母さんも心配してるだろうし」
「そうだね。姉さん」
二人は立ち上がり、海から遠ざかる方向に砂浜を歩き始めた。
「姉さん体は辛くない?」
「大丈夫よ。早く帰ってご飯食べようね。鈴音と一緒に食べるのは久し振りだから、私も楽しみ」
朱音はそう言って微笑んだ。行きは下り坂だった坂道は、帰りは登り道になる。海辺まで降りたの久々だったから少し辛かったが、隣に鈴音がいると思えば頑張ることができた。
やがて坂を登り切り、崖際に伸びる道を辿る。ここを真っ直ぐに進めば朱音とその両親が住む村に着くはずだった。
だが、松に両側を挟まれたその道を進んでいた途中で、二人は異変を感じて立ち止った。その予想通り、松の木陰から複数人、屈強な体をした男たちが現れた。全員が無精髭を生やして、手には何か武器のようなものを持っている。
「なあ姉ちゃんたち、なんかいいもん持ってねえか?」
男の一人が近付いて来て、姉妹の体を舐めるように見ながらそう言った。朱音は恐怖で動けないまま、辛うじて首を横に振る。
「なあ親分、誰かに見つかる前に早いとこ攫っちまわねえか?」
他の男が、朱音たちに話しかけていた男に向かってそう言った。
「まあ焦るなよ。姉ちゃんたち、俺たちも別に乱暴なことをしたい訳じゃねえんだ。大人しく着いてきてくれれば痛いことはしねえ。どうだ?」
有無を言わさぬような低い声で男が迫る。朱音は喉が引きつり、答えを出すことができなかった。親分と呼ばれた男が少しずつ近付いて来る。そして、その手を朱音に伸ばそうとした。
「姉さんに触らないで!」
鈴音が突然朱音の前に飛び出し、男の手を叩いた。非力な女の力では、大した痛みもなかっただろう。だが、男は明らかに苛立った目で鈴音を見た。
「自分の立場分かってんのか?」
男はそうどすの利いた声で言い、鈴音の頬を拳で思い切り殴った。
「鈴音!」
妹の体が、崖の方に向かって吹き飛ばされた。朱音は絶望的な思いでそれを見る。
鈴音は一瞬朱音を見て、そして崖の下に消えて行った。一瞬で、先程まで笑っていた鈴音の命が消えてしまった。
「あ~あ、もったいねえ。親分、力入れ過ぎだよ」
男たちの一人が、溜息混じりにそう言った。もったいない?この男たちは鈴音の命を、そんな風にしか見ていないのか。
「すまねえ方助。ちょっといらついちまってな」
親分と呼ばれた男は、そうへらへらと笑った。
朱音は男たちの長を睨みつけた。自分の力では彼らに抗えないのは分かっている。だけど、彼らの思い通りになるつもりはなかった。
「まあいいや、こいつだけでも持っていこう。しばらくは使えるだろ」
そう言って男が手を伸ばした時、朱音は鈴音が消えて行った崖際に向かって走り出した。この男たちの慰み者になるくらいなら、いっそのこと……。
朱音は止めようとする男たちを振り切り、崖に向かって足を踏み出した。その下は海。朱音は迫り来る海面に、目を閉じた。




