二 異変
風呂から上がり、良介に大きめの服を貸してもらった恒は、再び居間に戻った。夕食ということでここに呼ばれたのだ。
焼き魚に味噌汁、白米に漬物というこの和風のシンプルな食事は良介が作ったものだった。先ほど風呂で聞いた話によると、どうやら彼はこの屋敷では料理番を任されているらしい。
「今日はあまり時間が無くてこんなものしか作れなかったけど、遠慮しないで食べてくれよ」
「いえ、ありがとうございます。いただきます」
良介に礼を言い、遅めの夕食を食べ始める。祖母が亡くなってから一年、誰かの手料理を食べるのは久し振りだった。なんとなく、本当に居心地が良くなってきた。
食事時はあまり喋りたくないのか、美琴は無口なままで食事を黙々と口に運んでいる。朱音と良介はお互いに話したり、恒に話しかけたりしてくる。やはり妖怪にも色々あるということか。
「それにしても大きくなりましたね、恒さん」
恒が最後の米を口に入れた時、朱音がしみじみと言った。まるで、自分の小さい頃を知っているような口ぶりだ。
「どういうことですか?」
「あら、覚えてません?」
「そりゃ覚えてないさ、朱音。恒君がまだ小さいとき、まだ君のお母さんとお父さんが生きているとき、俺たちは君と会ってるんだ」
良介が何のこともないように言った。しかし、恒にとっては予想外の告白だった。自分が彼らと一度出会っているとは。だから自分の名前を知っていたのだろうか。そして、もうひとつ気になることがある。
「僕の両親のことを知っているんですか?」
恒の両親。彼がまだ一歳にもならない時に彼を残し、この世からいなくなってしまった。二人についての話は母方の祖父母からしか聞いたことが無かった。父方の祖父母はもう亡くなったと聞かされていたし、他に自分の両親について知っている人も知らなかった。自分の親なのに、知りたくても知ることができないことが多かったのだ。
知っているのなら、教えて欲しかった。
「ああ、良く知っているよ」
そう言うと、良介は許可を求めるように美琴をちらと見た。美琴は良介の方に小さく頷くと、夕食になってから初めてその口を開いた。
「恒、いきなりこんなことを言うのは刺激が大きいかもしれないのだけど、あなたの父親は人間じゃないの」
恒が驚いて美琴を見る。美琴は表情を変えず、恒を見据えている。その瞳は、冗談を言っている風ではなく、あくまで真剣だった。
「妖怪だったの。でも母親は人間。いわばあなたは半妖怪ね」
一瞬、恒には美琴の言葉が理解できなかった。彼女の言葉を飲み込み、頭で反芻する。今日何度目か分からない衝撃に頭がふらつくような気がした。自分という存在を根底から覆されたような思いだった。
「やっぱり、早かったのではないですか?」
朱音は心配そうな声で言った。
「でも、いつかは知らなければならないことなのよ。良い機会なんてないわ」
本当にそれが事実かどうか、恒に知るすべは無い。恒は説明を求めて美琴を見た。
「一体、どういう……」
「言った通りの意味よ。あなたには半分妖怪の血が流れている。自分が他の人間とは異なった能力があるのに気付かなかった?あなたは他の人間よりも妖力と霊力が強い。身体能力も高いし、それなりの霊能力もあるでしょう?」
幼い頃から、恒には霊というものが見えた。町や家、学校に現れる人の形をした人でないもの。それが見えるというと、彼は化け物扱いされていじめられた。同じような悩みをもつ水木、そしてそういうことに抵抗のない飯田に会うまで、それは変わらなかった。
霊感、それが半分妖怪であることの証明になるのだろうか。頭の中で様々な考えが駆け回る。だが、答えなど出るはずが無かった。混乱する恒に、美琴が声をかける。
「ただ私が言えることはね、あなたのお父さんとお母さんは、立派な人だったということよ。それだけは、何よりも確かだから」
混乱した状態のまま、夕食は終わった。つい数時間前、新しく自分のものとなった部屋へ戻っているとき、良介が恒の肩に手を置いて励ますように言った。
「そんなに気に病む必要は無いよ。君は今まで通り生活ができる。友人たちと別れる必要は無いし、学校へも行ける。ただ、やはり君には他の人間と違うところもある。これから先極端に老化が遅くなるだろうし、寿命も桁違いに長い。そういう意味では知っておいた方が良かったんだよ。じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
浮かない気分っで恒は部屋の中に入った。そう言えば、明りの点け方を聞くのを忘れた。と思った瞬間に明りが部屋を満たした。だけど、そのスイッチがどうなっているかなんて大した問題じゃなかった。
恒は押し入れを開けて布団を敷き、その上に横になった。途端に、今日一日の疲れが襲ってくる。
恒は目を閉じた。もう一度目を開ければ、あの祖父母が残してくれた家の中で目を覚ますかもしれない。そして、またいつもの日常が始まる。学校へ行き、友人と会い、バイトをし、家へ帰る。妖怪や死神などの無い、平穏な日常。この一日は、夢のなかの出来事だった。それなら、どんなに安堵するだろう。
恒の体から力が抜けていく。彼の意識は、すぐに闇に溶けた。
結局それは、夢ではなかった。次の日、やはり黄泉国で目を覚ました恒は、学校へ行く前に美琴たちと一緒に昨日壊れた彼の家へ向かった。どうやら、人間界と黄泉国は自由に出入りできるらしい。
「こりゃひどいな」
良介が半壊した家を見て呟いた。人気のない山道の横、ぽつんと佇む瓦礫の山。分かってはいたが、やはり眼の前にすると恒の心は痛んだ。物心ついた頃から住んでいた家だ。こんな簡単に無くなってしまったとは信じたくない。
「とりあえず、まだ使えそうな家具を運ぶよう言っておくわ」
美琴が言った。しばらくは使い慣れたものを使った方がいいという、彼女の判断だった。それに朱音も同意して言う。
「早く異界にも慣れたほうがいいですからね」
その後、三人と別れた恒は学校へ向かい、いつものように水木、飯田と会った。どうやらまだ恒の家が壊れたことは知らないらしい。恒は昨日のことを言おうか迷ったが、まだやめることにした。まだ自分の混乱の収まってないのに、何も知らない二人に言っても混乱を増すだけだと思ったのだ。昼休み、いつものように三人で昼食を食べながら、代わりに恒は飯田に他の質問をすることにした。
「ねえ飯田、火車って妖怪知ってる?」
「もちろん、火車と言うのは生前悪行を犯した人間の死体を連れ去る妖怪だよ。その姿は獣のようだとも、火の車を引く人間のようだとも言われている。しかし、なぜ急にそんなことを聞くんだい?君もついに妖怪に興味を持ったかい?」
「いや、そういうわけじゃないんだ」
恒は曖昧に笑って飯田の期待を否定した。興味を持ったのではなく、会ったのだ。当の火車と言う妖怪に。
悪行を犯した人間。恒が良介が昨日風呂で言ったことを思いだした。「死神は、罪を裁く」
何か、関係があるのか、妖怪や民俗学に詳しいわけではない恒には分からなかった。あの場に飯田が居れば、どんな説明をしてくれたのだろう。
「どうした、恒。お前最近変だぞ」
飯田と別れ、恒と水木が一緒に教室に戻っているとき、水木が言った。
「いや、なんでもないんだ。最近寝不足でさ」
「バイトもほどほどにしとけよ。体壊したら元も子もないんだからさ」
「分かってる。ありがとう」
水木は恒の調子が悪そうなのをバイトのし過ぎのせいだと受け取ったらしい。確かに、恒は生活費を稼ぐため学校に許可をもらい、バイトに勤しんでいた。しかし、昔から体力に自信はあるため、そこまで苦に思ったことは無い。しかし、今はその生活するための家が壊されてしまったのだ。水木に相談すれば楽になるだろうが、恒は彼に心配はかけたくなかった。彼のことだ、自分の家に住まわせてでも恒を助けようとするだろう。それは避けたかった。一応、今の恒には住む場所がある。
その後、無事に恒の家跡から使える家具が恒の部屋に持ち出され、ある程度の生活環境が整えられた。大きな屋敷での生活も、良介たちのおかげで除々に慣れて行き、前と変わらずに生活ができるようになっていた。ただ、美琴の命令で屋敷から外の黄泉国には出てはいけないとされていた。黄泉国の住人、そして恒本人にもまだ刺激が強いからとのことだった。
しかし、生活に慣れていくなかでひとつだけ、恒を非常に驚かせたものがあった。ある日、部屋の整理をしていた時、幼馴染である小町が尋ねて来たのだ。
「こんにちは、恒ちゃん」
「小町さん!?」
聞き覚えのある京都なまりを聞き、恒が驚いて顔を上げると、予想通り部屋の入り口に小町が立っていた。なぜ彼女がこの黄泉国にいるのか分からずに、とりあえず恒は小町を部屋に通した。
「なんで小町さんがここに」
「かんにんね~秘密にしてて。私も実は、人間ではないんよね」
穏やかな笑みを見せながら、小町が言った。
予想外の告白に、恒の思考が一瞬止まり、急速に回転し始める。確かに小町には分からないことが多かった。小さなころから知っているのに、家も知らないし、両親に会ったこともない。
「本当?」
「ええ、ほんま。私の正体は妖孤なの。狐の妖怪やね。恒君のことを美琴様に報告してたのも私。騙すつもりは無かったんやけど、恒ちゃんが自分の正体に気付くまでは黙っておいたほうがええかなって。怒ってる?」
上目使いでそう小町が尋ねる。恒は怒る気にはなれなかった。どうせ、昨日まで自分は妖怪の存在なんて信じていなかったのだ。小町が自分は妖怪だなんて言ったところで、何にもならなかっただろう。
「怒ってないけど、でも、これで小町さんの謎が多かった理由が分かった気がする」
「まあねえ、私も自分のこと恒ちゃんに言えへんかったのは心苦しかったんやから。でもすっきりした。これからもよろしくね。私の家はこの黄泉国あるから。今度こそ私の家に連れて行ってあげるわ」
小町が白い手を差し出す。恒もぎこちなくその手を握った。握手ということらしい。
「う、うん。よろしく」
「でも、無事でよかったわ、恒君。少しずつ、妖怪にも慣れて行ってね。妖怪って印象よりも恐いものじゃあらへんから、ちゃんと一緒に生きていけるよ」
恒が今までに会ってきた妖怪は、襲われた鬼を除けば小町、美琴、良介、朱音の四人だけだ。みんな、悪い人ではない。恒の想像していた化け物としての妖怪とはかけ離れてていたが、そっちのほうが良かった。あの鬼のようなのと一緒に暮らすとなると、命がいくつあっても足りないだろう。
いつか黄泉国を案内してもらう約束をして、小町とは別れた。それから数日、日常は平和に流れている。
「お、恒。どうしたぼんやりして」
水木の声に、恒は回想から現実に戻った。ここは山の麓のバス停。普段は待ち合わせしている訳でもなく、どちらもばらばらにバスに乗るのだが、たまにここでこうして水木に会うことがある。
あの日から一週間。学校へは滞りなく行っている。困ったのは、多少バス停までの道のりが長くなったことぐらいだ。
「ごめん、まだ眠くってさ」
「しっかりしろよ~。まあ俺も眠いけどな」
そう言って大あくびする水木。やはり、いつもと同じだ。
恒を取り巻く環境はここ一週間で目ぐるましく変ったが、生活に支障は出ていない。むしろ、美琴が生活費はいらないと言ってくれたおかげで楽になったぐらいだった。それに学校の友人たちにはその変化を知らせていないため、彼らの態度にも変化はない。もし自分が半分妖怪であると告げたら、どうなるのだろうと、恒は目をこすっている水木を見て考えた。ずっとこのままの関係でいてくれるだろうか。
エンジン音が聞こえてきた。バスがこっちに走って来る様子が見える。
「バスが来たよ」
「あ~学校か~、めんどいなあ」
「そうだね」
他愛のない会話をしながら、二人がバスに乗り込んだ。
深い森の中、作業服を着た一人の男が必死の形相で走っている。しかし、男は切り倒された木に躓いて草と土の上に倒れ込む。その横にあるのは、壊されてばらばらになった祠。その影から、小さな百足が現れる。
「ひっ」
男は怯えたような高い声を出すと、百足を手で払って立ち上がり、また走り始めた。何度も後を振り返る。まるで何かに追われているように。
男の背後で、何か巨大なものが動く気配がした。金属が軋むような低い鳴き声。男は悲鳴を上げて振り返り、石に足を取られて仰向けに転んだ。恐怖で足が震え、思うように動けない。
「来るな、来るな……!」
自分を追うものの姿を見て、その顔が一層恐怖にひきつる。だが、その願いは届かない。
追跡者はその長い体をくねらせ、倒れた木を乗り越え、腰が抜けて動けない男のすぐ側まで来た。上体を起こし、怪物は男を見下ろす形で佇んでいる。男よりも遥かに大きいその体が動く度に、節と節の間から金属をこすり合わせたような不快な音が発せられている。
巨体が男に覆い被さった。男の断末魔が森に響き、やがて消えた。
木久里駅前の繁華街。様々な建物が乱立するその町中を、美琴は歩いていた。
その服装は黄泉国にいる時と違い和服ではなく、白い長袖のシャツに水色のロングスカートといった出で立ちだ。洋服はあまり好まないが、人間界に来るときは目立たないようにするため、洋装を選ぶことが多い。
木久里町は東京では珍しく四方を山に囲まれた町だ。山と言っても大きなものではないが、黄泉国はその北の山にある。そこからここ、町の中心にある木久里駅に来るには、結構な距離がある。
美琴は駅前の大型書店の前まで来ると、その店に入った。平日の昼間であるため、人の姿はあまりない。混雑を嫌う美琴には丁度良かった。黄泉国にいる時にしろ人間界にいるときにしろ、美琴は静かに一人でいることを好んだ。特に読書は、ひとりで時間を潰すのには最適だ。
一通り店内を回り、ジャンルを問わずいくつかの本を手に取った美琴はレジに向かい、代金を払って店を出た。他に人間界に用事は無い。このまま黄泉国に帰ろうと美琴が足を早めた時、強い妖気を感じ、彼女は動きを止めた。
辺りを見回す。特に怪しいものは見当たらない。学生や主婦、サラリーマンなどが歩いているだけだ。一瞬であったため、妖気がどこから来たのかは分からなかった。だが、普通人間界には無いものなのは確かだった。
鬼は先週の事件以来姿を現していない。町にいた鬼は美琴と、良介、朱音が大方倒してしまったため、この妖気が鬼のものである可能性は低い。
本屋の前に立ったまま、考える。違う妖怪が出たのだろうか。そうとなるとまた厄介なことになる。美琴は小さく息を吐いた。平穏な日々は一週間しか続かなかったということか。
そのとき、足元を這う大量の細長いものが目の隅にに映った。たくさんの何かが地面の上を這っている。美琴がそれを良く見てみと、蛇だった。良く見ると、何匹もの蛇が、マンホールや建物の隙間、路地裏などいたるところからその姿を現している。町の人々が突然の蛇の大量発生に悲鳴を上げる。だが、美琴はそれには目もくれず、蛇の大群と、それがまったく同じ方向に向かって進んでいることに注目した。先程の妖気といい、確実に何か起こっている。そして、この蛇たちの様子を見る限り、攻撃性は見えない。まるで必死に何かから一刻も早く離れようとしているように見える。
「蛇が逃げ出している……」
美琴は呟いて、蛇たちの向かっている先を見た。山に囲まれた木久里町の、東のほうの山へ向かっている。蛇が逃げ出すという現象、そして蛇たちが西から東へ向かっていること。これらが表わす意味に、美琴は心当たりがあった。
「まさか……!」
美琴の予測はほぼ確信に変わっていた。美琴は本の入ったビニール袋の取ってを腕に通すと、西の山の方へ歩きだした。ひとつ、確かめなければならないことがある。