三 おみさ
水木はテレビを点けて、じっと部屋に蹲っていた。普段ならもう眠っている時間なのに、恐怖と心細さのせいで全然眠くならなかった。
時間が過ぎ、夜が更けて行くことが彼の不安を増大させる。水木は布団を被ったまま、頭に入らないテレビの画面を見続けた。
窓は新聞紙で覆われていて、外の情報は音でしか入って来ないそれが余計に水木を不安にさせた。
幾程の時間が経ったのだろう。水木がやっとうとうととし始めた時だった。
こんこんこんと、窓を叩く音がした。水木は体を震わせて布団を頭から被り、手元にあったリモコンを掴んでテレビの音量を上げた。
「どうした、怖いならもう出てきてもいぞ」
不意に、そんな祖父の声が聞こえてきた。それで水木は一瞬安心した。早く誰かに会いたいと思った。
だが、すぐにおかしなことに気がついた。祖父の声は頭の中に直接響いて来るようで、戸の向こうから聞こえて来る訳ではない。
水木はその声を無視しようとした。祖父の声はしばらく聞こえていたが、やがてぱったりと途絶えた。
「ぽっぽぽぽっぽぽぽっぽぽぽぽぽ」
代わりに聞こえてきたのは、あの女の不気味な笑い声だった。水木は布団の中で目を瞑って恐怖に耐えていた。そして、やがてその意識は闇に溶けた。
目が覚めると、あの不気味な声は聞こえなくなっていた。ただ点けっぱなしになっていたテレビの音だけが部屋の中に響いている。
水木は恐る恐る掛け布団から顔を出した。窓に張られた新聞紙が、太陽の光を僅かに透過していた。朝が来たのだ。
水木はしばらくじっとして、あの女が近くにいないことを確認しようとした。窓を叩く音も笑い声も聞こえないまま五分ほどの時間が過ぎた後、やっと彼は布団から這い出した。
テレビのニュース画面に映る数字は、八時を示していた。もう七時は過ぎたのだ。
水木は立ち上がって、そっと戸に手を掛けた。もう開けてもいいのだろうか。不安だったが、心細さが限界だった。
戸を横に開くと、祖父母の心配そうな顔があった。
「ばあちゃん!じいちゃん!」
水木が思わず駆け寄ると、二人は彼の体を抱きとめてくれた。
「よく頑張った。もう大丈夫だ」
祖父はそう、幼い孫に言った。
祖父は水木の体を抱き抱えたまま、外に連れて行った。祖父母の家の前には車があって、昨日の葛城という老人の他に男の人が二人立っていた。
「この車で家に帰らしてくやるからな。お父さんとお母さんは後ろから車でついてくるから安心しなさい」
祖父の言葉に水木は頷いた。
水木は二人の男に挟まれる形で、後部座席に座った。そして助手席には葛城が、運転席には祖父が座る。
ほとんど誰も言葉を交わさないまま、車は発進した。
「大変だったな。ここからは目を閉じておいた方がいいぞ」
右隣に座った男の人にそう言われ、水木はまぶたを閉じた。
やがて葛城の声で念仏のようなものが聞こえ始めた。その直後、「ぽっぽぽっぽぽぽっぽ」とあの声が聞こえてきた。
「目を開けるなよ……」
水木は必死に瞼に力を入れた。手に握ったお守りにも力が入る。
女の声はしばらくの間続いていたが、次第に小さくなり、聞こえなくなった。そして、葛城の「抜けた……」という声が聞こえた。
「もう目を開けてもいいぞ」
祖父の声に、水木はゆっくりと瞼を上げた。
「もう終わったよ。大丈夫だと思うが、そのお守りはなくさないようにしなさい」
その後は祖父の車に乗ったまま、自宅に向かった。車の窓から見る空は、今までの体験が嘘のように明るく晴れていた。
「それでさ、今朝電話が来たんだよ、じいちゃんから」
机に肘をつけた一六歳の水木がそう言った。
「その変な女の人のことで?」
「そう、じいちゃんが言うにはさ」
水木はあくびを一つ挟んで、話し始める。
母親に呼ばれ、水木が電話を取った瞬間に、祖父の焦ったような声が聞こえてきた。
「国男、大丈夫か!?」
「大丈夫、だけど……。何かあったの?」
水木が問うと、祖父は電話の向こうで息を荒げながら話し始める。
「お前が小さいころ、大きな女に襲われたのを覚えてるか?八尺様だ」
その言葉で、一気に水木の記憶が蘇った。そうだ、あの女は八尺様と呼ばれていた。そして、幼い自分を襲った。
「……覚えてる。それが?」
「あの化け物を村に封じ込めていた結界が壊された。もしかしたらお前の家に行くかもしれない」
水木の背筋が寒くなった。やはり、昨夜のあの女は……。
あの事件があってから、水木は一度も祖父母の家に行ったことはなかった。専ら祖父母がこちらの家にやって来る形で彼らには会っていた。だが、今日に至るまで誰もあの女の話をすることはなかった。
「なあ、その八尺様っていうのは何なの?」
「そうだな、知っておいた方がいいな」
祖父が電話越しに語った話によれば、八尺様は巨大な女の姿をした化け物で、「ぽぽぽ」不気味な笑い声を上げて現れる。その大きさが八尺はあることから「八尺様」と呼ばれ、赤施村に昔から伝わる怪異なのだという。
かつては赤施村に留まらず自由に場所を移動し、残虐の限りを尽くしていたというが、昔赤施村に現れた際に、周辺の村と協定を結び、その村に八尺様を留めておくことになったらしい。
八尺様は十~二十年に一度ほどの頻度で、決まって男を襲い、その命を奪ったということだった。村人たちは村の利権のため、それは人身御供であり、必要な犠牲だとして目を瞑っていた。だが、八尺様は寿命で死ぬこともなく誰かに退治されることもなく、その被害は現代に至るまで続いていた。
最後の犠牲になったのは、水木の伯父にあたる人物で、七歳のころに八尺様に命を奪われたのだそうだった。それは母が生まれる前の出来事で、母は自分の生まれる前に兄がいた、というくらいの認識だったようだ。
それは、八尺様のことは基本的には村内でも禁忌とされていたからだった。誰も不用意に言葉に出していいものではなかった。
村人たちは、八尺様に目を付けられることを魅入られた、と言った。そして、次に魅入られたのが水木だった。
「八尺様はお前のところに向かってるかもしれん。じいちゃんもなるべく早く行くから、気をつけるんだぞ。子供のころのお守りは持ってるか?」
「ああ、持ってる」
水木は手に持った古いお守りを見た。今朝慌てて机の中から引っ張り出したものだ。残っていてよかった。
水木は電話を切り、そして、自分の置かれた状況に改めて恐怖した。
「そんな状態なのに学校に来たの」
恒が尋ねると、水木は溜息をついて答える。
「そんなこと言ったって母さんも父さんも信じてくれる訳ないじゃんかよ。幽霊だって信じてないんだぞ。それにしても何なんだよあれ、やっぱ幽霊なのかな」
水木は今日何度目かの溜息をついた。
「幽霊なら水木の目じゃ見えないじゃないか」
「そうなんだよなあ。じゃあ変質者か?それにしたってでかいよなあ。本当に化け物なんかな」
「妖怪に狙われてるってことだよね」
恒が言うと、水木は頭を抱えた。
「妖怪って、ほんとにいんのか?幽霊には散々被害に合わされてきたけど、妖怪にまで狙われてるのか、俺」
恒は気の毒になって水木を見る。自分の状況とは関係なく、他の妖怪に狙われている人間がこんなに近くにいるなんて。
水木と出会ったきっかけも霊に付きまとわれているのを恒が見つけて、放っておけなかったからだった。そして今度は妖怪か。
「まあとにかく、今夜は僕も一緒に水木の家に行くよ。飯田も誘ってさ」
「あぶねえよそれは」
「水木一人の方が危ないだろ」
恒がそう言った時、チャイムがなって先生が教室に入って来た。慌てて席に戻っていく水木を見ながら、恒は小町や美琴にも相談することを決めた。
「分かったわ。八尺様という妖に関しては私も気になる点があったところなの」
美琴は電話越しにそう恒に話した。
「そうなんですか。水木は大丈夫でしょうか」
「放っておけば危ないでしょうけど、私も動くから大丈夫よ。あなたも水木君の側にいるのはいいけど、無理なことはしないこと」
「分かっています」
「ならいいわ。気をつけて。八尺様と呼ばれるあの妖はある種の呪いを使うみたい。相手は形のない方法で攻撃してくるから、覚えておきなさい」
「はい、でも一つ気になることがあるんです」
「なに?」
「触れずに人を殺せるのなら、どうして水木をさっさと殺さないのでしょう」
「それは、恐らく水木君の持っているお守りのお陰ね。それが彼を八尺様から守っている。絶対にそのお守りを無くしては駄目よ」
美琴はそう言って、電話を切った。
八尺様、その名前は数時間前に聞いたばかりだった。相手は中国地方の異界の主、悪五郎。彼によればある一体の妖怪が中国地方から関東に向かったということだった。
その妖怪は、現在八尺様と呼ばれているが、元々は違う名の妖だった。美琴は頭の中で悪五郎から聞いた話を反芻する。
「その妖が、こちらに向かっているのね?」
美琴の問いに、電話の向こうから悪五郎はしわがれた声で答えた。
「ああ、そのようじゃ。昨日こちらに鬼が現れてな。封印を破壊しおった」
「鬼……、茨木童子かしら」
「本人を見たものはおらんが、どうやら配下の手洗い鬼がいたようじゃ。気いつけえよ。恐らくあいつらはおみさが東に向かうことを予見して封印を壊したんじゃろうからな」
「分かっているわ」
美琴は電話を切った。そして、悪五郎から聞いた情報を頭の中で整理する。
悪五郎の話によれば、現在八尺様と呼ばれている妖怪は四百年ほど前、安土桃山時代には既に存在していた妖だったという。
当時の彼女知る妖によれば、彼女は元々種族的には七尋女房と呼ばれる妖怪で、おみさという名前だった。
七尋女房は普通の人間の女ほどの身長から、その名の通り七尋、つまり一二メートルほどにまで体の大きさを自由に変えられる妖怪だ。
七尋女房自体はそこまで凶暴な妖ではない。人を驚かせるぐらいしか危害を加えない妖怪だ。しかし、おみさは違った。
彼女は他の妖怪や人間を殺すことを快楽とする嗜好を持っていた。肉体的な能力も高い上に何らかの能力によって相手を殺すことを得意とし、それは呪いと呼ばれ、人々や妖たちを恐怖に陥れていた。
当時の妖も人も、おみさを討伐しようとして多くのものたちが犠牲になっていた。だが、そんな彼女を倒すために立ち上がった武士がいた。
「おのれ物の怪め!」
その男、水木弾坐衛門は刀を持って、おみさと対峙した。
彼は息子をおみさによってころされていた。その復讐のため、彼はひとりおみさを追っていたのだ。
おみさは油断していた。たかが人間一人、彼女にとっては殺すことなど造作もないことだったろう。だが、おみさは子を奪われた親がどんな意地と力を発揮するのかを、知らなかった。
おみさはなぶるようにまず水木の腕を千切った。だが、水木はそれに一瞬も怯まなかった。そして、刀を振った。
それはおみさの顔を抉った。口元を切られ、驚いたおみさが逆に怯んだ。水木はさらに、おみさの首を切り裂いた。
その攻撃で、おみさは怒りに任せて水木の体をばらばらに引き裂いた。これまで彼女に傷を与えたものはいなかった。首に負った傷は予想以上に深く、彼女は本来の力を出せないままに逃げ回ることとなった。
そんなおみさの噂はすぐに広まった。そして、周辺の武士、坊主、神主などがかき集められ、彼女の討伐が行われることとなった。
おみさと人間たちの戦いは壮絶を極め、数日に及ぶ戦いの間に何人もの人間たちが死んでいった。だが、おみさも妖力を失っていき、次第に弱って行った。
そして、おみさは赤瀬村まで追い詰められた。人間たちは村の入り口にある巨大な岩を媒介として、そこに結界を張った。その結界は当時の村全体を覆い、おみさの妖力と霊力を削ぎ落した上にその村から出ることを封じた。そうして、おみさは村に閉じ込められた。
赤瀬村にはおみさを閉じ込める代わりに、多くの利権が認められることとなった。これ以上おみさの被害を広げないためにも、当時の村の人々はその条件を呑んだ。
数年の間はおみさによる被害はなかった。だが、おみさは死んだわけではなかった。ほとんどの力を失い、さらに顔を切られたことで口元は口角を上げる形で固定され、不気味に笑っているような顔しか作ることができなくなった。
そして首を切られたことで声を出すこともままならなくなり、言葉というものを失った。
彼女に残されたのは、人間に対する復讐の念だけだった。そうして、彼女はかろうじて残った自身の妖力と霊力を使って、結界によって弱ったままの体にも関わらず村の人々を襲うようになった。
やがて、おみさは人々に「八尺様」と呼ばれるようになり、恐れられるようになった。それは妖力を失ったため、八尺ほどまでしか体を大きくすることができなくなったためだろう。
そしておみさを封じる際に用いられた岩は女房ヶ石と呼ばれるようになり、そこへ辿り着く道にはたくさんのおみさ、つまり八尺様に殺されたものたちを弔うために地蔵が置かれ、地蔵道となった。そうして、数百年の時が過ぎていた。
異形紹介
・七尋女房
七尋女とも言う。その名の通り七尋(約一二.六メートル)まで巨大化する女の妖怪で、主に島根県や鳥取県に伝承が残っている。
島根県では、武士に斬られて女房ヶ石という名の六メートルはある巨大な石と化したという伝承や、七尋女婆が石仏道に現れ、刀で切りつけたところ妖怪の姿は消え、近くの石仏の首がなくなっていたという伝承、黒い歯を見せて道行く人に笑いかけたという伝承、また妖怪自身が七尋なのではなく、七尋の長い衣を引き摺って物乞いをしていたという伝承、などがある。女房ヶ石は実在しており、現在でも島根県に行けば見ることが可能である。
また鳥取県では米や小豆を研いでいた、という伝承や、首が七尋伸びるろくろ首のような妖怪としてあらわれた、という伝承があり、後者の七尋女房の正体は悲恋の末日野川の淵に身を投げ、蛇身の妖怪となったが、淵が洪水に埋まったため陸に上がってカシの木に姿を変えた、おみさという女性である、という説がある。
また近年では明治時代、島根県の小学校に身長一メートルほどの女が現れ、笑い声を上げて七尋女房に変化したという記録がある。




