一 破壊された封印
朝靄のかかる深い森の中、その獣道の傍らにある、小さな祠。いつもの森であればこのまま静かな朝が始まる。しかしその日は違った。
一瞬の地響き、遥か向こうの木々が倒れる。緑を薙ぎ、進行して来る巨大な機械たち。その侵略に怯え、鳥や小動物、虫たちが逃げ出して行く。
この森も、人に侵される。
第二話 「異形のもの」
恒がここ、黄泉国に来てから一週間が過ぎようとしていた。最初は分からないことだらけだったここでの生活も、大分勝手が分かってきた。だが、こんな世界が現実にあることにまだ半信半疑な部分もある。
一週間前のあの日、死神の少女と出会った日から、彼の常識はいとも簡単に破壊されてしまった。
早朝、学校に行くために恒は制服に着替え、裏口の玄関で靴を履こうとしていた。縁に座って両足を靴に突っ込み紐を結んでいた時に、彼を呼び止める声がした。振り返ると良介がにこやかな顔で立っている。その右手には四角い弁当箱。彼も恒がここに来てから知り合った男だ。
「恒ちゃん、ほら弁当」
「ありがとうございます、良介さん」
恒はハンカチにくるまれた弁当箱を良介から受け取ると、急いで鞄に詰め込んだ。今日は少し寝坊してしまい、あまり時間が無い。これも生活に慣れたということであろうか。そう好意的に捉えておこう。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい、頑張っておいで」
そうのんびりした口調の声を聞きながら、恒は玄関の扉を開けた。途端に朝の日差しが室内の薄暗さに慣れた目が痛い。少し目を細めながら、恒はこっちに手を振る良介に会釈し、引戸を閉めた。
狭い裏庭を渡り、初めてここに来た時にも通った門に手をかける。この門はその巨大な見た目とは裏腹に、さほど力を入れずとも開く。不思議なことだが、もうその程度では驚こともなくなっていた。
門の先は山の頂上だ。門を閉め、後ろを振り返る。すると、今自分は住んでいる屋敷は無くなっている。何度見ても不思議なものだ。二つの異なる世界がたった一つの門を隔てて繋がっている。
山道を下りながら、恒は初めてここに来た時のことを思い出していた。世界の常識など、まったく不確かなものだと思い知らされたあの日のことだ。
「ようこそ、黄泉国へ」
そう言って、死神の少女は微笑んだ。
恒は目を疑った。あるはずのない街並みが、黄昏の下に広がっている。恒は考えを巡らせる。自分はあの山の頂上にいたはずだ。
恒は山の向こうを思い出そうとする。何度か地上を迂回して行ったことがある。確か山の裏には道路があるだけで、町と言えるようなものは無いはずだった。だがここにはある。急にできたとでも言うのだろうか。それとも本当に、別の世界なのか。
「戸惑っているわね」
恒が困惑して美琴を見ると、彼女が言った。
「常識というものは、とても儚いものということよ。こっちに来て」
そう言って、美琴は大きな屋敷の方に向かって歩き出した。恒ももう一度だけ町の外観を見て、その後を追う。先程から夢を見ているのかと思うほど現実感が希薄だ。この屋敷も先ほどまで門の外にいときは無かったはずなのに。少なくとも目に見えはしなかった。鬼と言い、この世界と言い、何が起こったというのだろうか。
美琴は和風建築の屋敷の扉を横に開くと、中に入った。木造の恒が躊躇していると、美琴が手招きで彼を呼ぶ。恒は一瞬迷ってから彼女に従うことにした。
広い石畳の玄関だった。並べられている靴は無い。壁に設置された大きな棚には、男のもの、女のもの、どちらの履物もいくつか仕舞われているが、下駄や草鞋といった今ではあまり見ないものも多い。古い木と、青い畳の匂いが混ざり、不思議だが懐かしい香りがした。
美琴は履いている草鞋を脱ぐと、縁を上り、木でできた廊下を進んで行った。恒も慌てて靴を脱ぎ、その後ろ姿を追う。
大きな屋敷の中は不気味なほど静かだった。薄暗く、誰かがいるという気配は無い。細長い廊下の両側にたまに現れる部屋の障子は全て閉まっており、中の様子は分からなかった。
美琴は時々こちらを振り返りながら、足音を立てずに廊下を進んで行く。恒は屋敷の内部をと見回しながら、その二メートル程後ろを付いて行く。
少し歩いて、美琴がある障子の前で突然止まった。それを見て恒も足を止める。美琴はこの屋敷に入ってから初めて口を開いた。
「入って」
美琴が部屋の中に姿を消す。それに続いて恒も部屋の中に入った。中は薄暗く、内装が良く見えない。すると突然、火が灯るように明りが部屋の中心から広がった。その点き方を不思議に思い、天井や部屋の中を見るが、電球やそれらしきものは無い。どうやら、電気で点く明りではなさそうだった。
この部屋は居間のようだ。十二畳ほどの広さで、床は畳。部屋の左の方にひとつ大きな卓袱台があり、隅に大きなブラウン管のテレビがある。壁際には階段箪笥が設置してあり、そその逆の方の壁際には、本棚と思われる家具と座椅子が置いてある。
美琴は卓袱台の向こうまで行くと、恒の方に振り向いた。
「まあ座りなさい。疲れたでしょう」
「し、失礼します」
美琴に促され、恒はぎこちなく卓袱台の横に座った。美琴はその向かいに正座する。明るく、また近い距離で、恒は改めて美琴の顔を見た。
美しく整った顔だが、暖かみと冷たさを同時に感じさせるような、不思議な雰囲気があった。瞳は墨のように深い黒で、それと同じく色の髪は柔らかく肩にかかっている。
少しの間沈黙が流れた。美琴が困ったように軽く首を傾げ、苦笑する。恒は慌てて彼女から目を逸らした。自分が美琴をじっと観察していたことに気付いて急に恥ずかしくなった。しかし、見た目としては同じくらいの歳の印象なのに、動作や発言はずっと大人びて見える。
「緊張しなくても良いのよ。誰も取って食べたりしないから。お茶でも飲む?」
「いえ、おかまいなく」
月並みの返事をしてから、恒は質問した。
「ここは、あなたの家なんですか?」
「美琴でいいわ。ええ、ここは私の家。他にも二人住んでる。今は出てるのだけれどね」
どうやら、無人の屋敷という訳ではないらしい。他に二人の住居人。その人たちは人間なのだろうかという疑問が浮かぶ。目の前の少女も人間じゃないようだから、見た目と言動の印象の落差の理由が何となく分かる気がした。
「聞きたいことがあれば遠慮しなくていいわよ。それともテレビでも見る?」
美琴は言って、卓袱台の上にあったリモコンを手に取り、テレビの電源を点ける。画面にニュースキャスターが浮かび上がり、原稿を読も上げている。どうやら電気は通っているらしい。では、先程の明りは何なのだろう。ますます不可思議な世界だ。それにしても妖怪で和装の少女に、和室に、テレビ、何ともアンバランスな気がする。
美琴の視線はテレビに向いている。ただ座っているだけとなった恒は一応テレビの方を見た。しかし、何も頭に入って来ない。彼はふう、と小さくため息をついて、今日のことを改めて考え始めた。
朝、この美琴と名乗る少女は夢の中に現れ、自分に警告をした。今日危機が迫っていると。それは今日の夕方に本当のことになった。鬼が現れ、襲われたのだ。体長五メートル前後はあろうかという赤と青の鬼、それに住む家を破壊され、さらに恒自身も殺されそうになったとき、美琴に助けられた。美琴はたった一人で自身の三倍近い体格の鬼二体を倒し、恒を連れて山道を登り始めた。そのまま彼は彼女に付いてきて、ここに至る。
恒は美琴に聞こえないように低く唸り声ような声を漏らした。考えれば考えるほど現実から剥離している。一体自分はどうなってしまうのか、そんな考えが恒の頭を過る。帰ろうにも、家はあの鬼に壊されてしまった。どこかに部屋を借りて住むようなお金もない。少しずつこの状況に落ち着いてくると、今度はそういった現実的な問題が頭の中に居座り始める。本当にこれから、どうすればいいのだろう。
そのとき、屋敷の奥で戸を開ける音がした。美琴はちらとその方を見ただけで視線をテレビに戻し、一言だけ呟いた。
「帰って来たわ」
恒は一度美琴を見てから、障子の方に目をやった。廊下を歩いてくる足音が聞こえる。どうやら一人のものではないらしい。さっき美琴が言っていた二人だろうか。
障子に二人分の影が映ったかと思うと、静かな音を立てて障子は横に滑った。そこに現れたのは、焦げ茶色の短い髪に、細い目をした三十代後半ほどの背の高い男性と、後頭部でひとつに縛りった髪が太もものあたりまで伸びている、髪の長い女性だった。どちらも恒には見た覚えの会った覚えもない。
「ただいま帰りました美琴様。おや、恒君来てたのか」
男の方が言った。恒は戸惑いながら頭を下げる。美琴と言いこの男の人と言い、なぜ自分の名を知っているのだろう。監視でも付いていたのか。今日鬼に突然襲われたところを助けられたのを考えると、あながち間違いでもないような気がした。
「無事なようで安心しましたよ、恒さん」
女性の方が柔らかく微笑んだ。見た目は二十代前半だろうか、決して派手ではないが整った顔の女性だ。
「丁度いいわ。良介、朱音、恒を部屋まで案内してあげて」
美琴が言った。二人はそれに「分かりました」とだけ言うと、恒の方に顔を向けた。
「じゃあ、恒君行こうか」
良介と呼ばれた男の方がにこやかな顔でそう言う。恒は何が何だか分からないながらも、おずおずと立ち上がり、二人の後に従って居間を出た。部屋とは一体何のことだろう。今日という日は全く疑問が尽きる瞬間がない。むしろ一秒ごとに問題が蓄積されて行くようだった。
廊下にはいつの間にか明りが灯っており、暗く無くなっていた。この二人どちらかが点けたのだろう。
「自分の置かれている状況が把握できていない、そんな顔だね、恒君」
廊下を歩いているとき、良介が振り返りながらそう言った。
「はあ……」
恒はそれに初めて声を出して答えた。特に敵意は感じない。この二人は美琴と同じく、自分を襲おうとしている訳ではないようだった。
「今日は色々なことが起こり過ぎただろうからね。無理もないだろう。まあともかく、今日からこの屋敷が君の家だよ。部屋も用意してある」
「どういうことですか?」
恒はきょとんとして良介に尋ねた。
「詳しくはまだ言えないけど、恒君は今一人でいると非常に危険なんだよ。ここにいるってことは鬼に襲われたんだろ?」
「はあ……突然のことで何が何だか」
「もう心配しなくても大丈夫ですよ。とにかく、恒さんはしばらくはここに住むことになる。それだけですよ。ここにいれば、その他の日常は変わりません。でも、ここから出ればあなたは途端に危険に晒されます」
朱音がいくらか厳かな口調で言った。
自分が危険にさらされている。今朝の夢もそうだが、やはりピンとこなかった。しかし、鬼に襲われたのは事実だ。まったく予想外の事態が起こり始めている。いつもの日常に亀裂が入り始めているのは確かだった。
「ああ、ここです」
朱音が言った。案内された部屋は、階段を上がってすぐのところにあった。良介がふすまを開け、中に案内する。すると突然部屋の中心から明りがともった。あの居間と同じだ。
中は六畳ほどの畳の部屋で、窓と押入れがあるだけ、他、床の上にたたまれて置いてある布団を除き、家具などは一切置かれていなかった。長い間誰も住んでいなかったように見えたが、汚れている様子はなかった。
「とりあえずその鞄を置いておきなよ。今は布団ぐらいしかないけど、そのうち家具も揃うはずだ」
良介が言った。恒は言われた通りに通学用の鞄を置くと、改めて部屋を見回す。まだいまいち状況が掴めない。ここに自分が住むということだろうか。恒がその疑問を口にすると、良介が頷いた。
「まあ、そうなるね。突然のことで大変かもそれないけど、俺たちも手伝うよ。大丈夫、お金なんか取らないからさ」
「部屋も余っていますしね。このお屋敷を自分の家だと思って構いませんよ」
恒はそれを聞いて、と戸惑いながらも少し安心した。不安は残るものの、とりあえず住むところはできたようだった。この良介と言う男性も、朱音という女性も悪い人ではなさそうだ。今この状況では少しでも安心感を手に入れることが大切に思えた。今日は色々なことが起こり過ぎている。
「俺の部屋は君の部屋の向かいだ」
「私はその隣です」
何も無い部屋の中から廊下の方を指して、良介と朱音が自分の部屋を教えてくれた。
「困ったことがあったらいつでも尋ねてくれ」
「恒さんはここにきたばかりですからね、分からないことも多いはずですから」
「ありがとうございます」
二人とも思ったよりも随分話しやすかった。どちらも温かい雰囲気で、彼に親切にしてくれる。恒は一瞬、亡くなった自分の母と父に思いを馳せた。ほんの小さいときにいなくなったため覚えていないが、彼らもこんな感じだったのだろうか。
「じゃあ恒君、男同士風呂でも入るか。さっぱりしたいだろう?」
恒がなにもすることなく部屋の中に立っていると、良介がそう声をかけた。恒は頷いた。あの鬼たちと遭遇した時から体は汗でべとべとだったため、嬉しい提案だった。それに、この屋敷で暮らすと分かった以上、勝手も知っておきたい。汗を流すことで、気持ちの切り替えもしたかった。
「じゃあ、行こうか。朱音は美琴様に今日の報告をしといてくれ」
「わかりました。じゃあ恒さん、また後で」
そう言うと、朱音は一度自分の部屋に戻って行った。
恒は良介に連れられ、一階に下りる。風呂は下にあるとのことだ。
「ここは、僕が住んでいた世界とは違うんですか?」
恒は疑問に思っていたことを良介に聞いてみた。彼の方が美琴よりも質問し易く思われたため、情報を集めておきたかった。
「うん、まあそうだね。異界という言葉は聞いたかい?」
恒は頷いた。確か美琴が言っていたはずだ。
「この世界には君が住んでいた人間界の他にもう一つ、別の世界があるんだ。ここ黄泉国みたいにね。もちろん、人間界に住む者たちはほとんど異界の存在を知らないんだがね。数時間前の君のように」
良介は一度そこで立ち止まり、引戸を開いた。そこは巨大な脱衣所で、その向こうはかなり大きな風呂のようだ。良介は「ここだよ」とだけ言うと、恒を脱衣所の中に導いた。
「異界と人間界は境界と呼ばれる一種の空間で仕切られている。多分君が通ったであろう門が、ここと人間界を繋ぐ境界だったのさ」
「異界と人間界は、どう違うんですか?」
服を脱ぎながら恒が尋ねる。
「基本的には変わらないね。ただ、異界には人間界で生きるのが難しい者たちが集まるんだ」
良介も服を脱ぐ。服を着ているときには分からなかったが、体全体に無駄無く筋肉が張り付いていて、美術の教科書で見た古代ギリシャの彫刻を思い出させた。
「妖怪とか、幻獣とか呼ばれている者たちだね。その分人間界より妖気は濃いかな」
良介が扉を開け、風呂へ向かう。恒もその後に続いた。
風呂場は広く、三、四人が一度に入れそうな湯船がひとつと、洗い場がある。恒が浴場を見渡していると、良介が笑いながら声をかけた。
「まあ、入りなよ」
良介と恒は一緒に湯船に浸かった。他には誰も入っていない。こんな大きな風呂に入るのは、小学校の修学旅行以来だ。
「妖怪って、本当にいたんですね」
恒がそう言うと、良介は先生が教え子にするように温かく笑った。
「そうさ、人間は信じないけどね。そういう俺も人間じゃない。妖怪さ」
予想はしていたことだが、やはり少し驚いた。その恒の様子を見て良介は微笑むと、湯の中から手を出して、そっと指を広げた。
「証拠を見せてあげよう」
そう言った瞬間、良介の手が青く光った。いや、光ではない、燃えているのだ。青い炎が指に纏わりつくようにしてうねっている。だが、恒が驚いて当の本人の顔を見ると、涼しい顔をしている。まるで熱さを感じている素振りを見せない。これが彼の力なのだろうか。
「俺は火車という妖怪だ。こんな風に、自分の妖力を炎に変えることができる」
良介が拳を握ると、炎は消えた。彼の手を見ても火傷ひとつしていない。どうやら、彼が言っていることは本当のようだった。
「もちろん、朱音や美琴様も人間ではない。美琴様のことは聞いたかな?」
恒は朝の夢、そして夕方助けられたときに彼女が言っていたことを思い出した。
「はい、自分は死神だと言ってました」
「そう、死神だ。俺と朱音はその眷族。彼女の仕事を助けてるためにいる」
「死神の仕事って?」
「まあ、簡単に言えば罪を裁くってとこだな。よく閻魔様だったり外国のあの世の神様が人の犯した罪を裁くだろう?簡単に言えばあんな感じだ。といっても対象は死者ではなく生者なんだけどな。まあこれから俺たちと一緒に暮らしていくようになれば分かるさ」
良介はそう言って、立ち上がった。恒も立ち上がり、湯船から上がる。
異界、黄泉国、死神、妖怪。まるで分からないことだらけだった。このような話など、つい数時間前の恒なら信じなかったであろう。しかし、彼は死神と鬼の戦いを、そして人の世と隔たったもう一つの世界を見た。
そう、これは現実に起こっていることなのだ。となると、飯田が信じていた世界は本当にあったことになる。今度学校で彼にこの話をしたらどれだけ喜ぶだろう。ふと水木と飯田、二人の友人の顔が頭に浮かんだ。妙に霊に憑かれやすい水木と、霊感などまったくないのにオカルトを信じてやまない飯田。毎日のように会っていた彼らのいる世界が、遥かに遠くなってししまった気がした。




