一 小町と朱音
その妖は、いつも一人の人間の男を待っていた。自分では動くことができない彼女の元に、その人間は足繁く通ってくれた。
いつの日か、自分の足で歩いてその人に会いに行くことが、妖の夢だった。
そして、その妖はついに自分で動くことができる術を身に付けた時、ひとりその人間の元に向かうため、歩き出した。
第一七話「青柳恋慕」
「小町さん、そろそろご飯にしましょうか」
朱音は隣を歩いている小町にそう言った。今日は土曜日。小町の高校は休日で、二人は人間界に特に行き先も目的もなく繰り出していた。
「そうどすねえ」
小町は少しだけぼうっとした調子で、そう答えた。最近の彼女はいつもこんな様子だ。
誘ったのは朱音の方だ。これまでにもたまに二人で一緒に外出することはあった。普段からべったりとしている訳ではないけれど、朱音にとっての小町は時たま自分を頼ってくれる、可愛い姪、または従妹のような存在だった。
そんな小町が最近元気がない。何となく理由は分かっていたが、他に誰かがいるところでは話しにくいこともあるだろう。そう思って誘ってみると、小町は頷いてくれた。
ここはしっかりと相談に乗ってあげないと、そう気合いを入れて来てみたけれど、朱音は実際自分がどこまで助けになるのかは分からない。それでも、少しくらい気持ちを軽くすることはできるだろうと思う。
「何か食べたいものはありますか?」
「う~ん、そういえばこの前、この近くに新しい喫茶店ができたとクラスの女の子が言っていた気がします」
朱音が尋ねると、小町は思い出すようにそう言った。
「じゃあそこにしましょうか。小町さん場所は分かります?」
その喫茶店は駅前の繁華街から少し離れた場所にあった。
外見は真っ白な建物で、店内も白を基調として、その中で二人掛けと四人掛けの黒の椅子とテーブルが強調されていた。大型の店という訳ではなかったが、朱音はその雰囲気を気に入った。
お昼時ということもあってほとんど席は埋まっていたが、ちょうど窓際の席が空いて、二人用の席に座ることができた。
「良いお店ですね」
朱音が言うと、小町は小さく笑って頷いた。
「思っていたよりも素敵なお店でした」
「私が払いますから、好きなものを頼んでくださいな。こうして小町さんと二人で外出するのも久しぶりですしね」
「すみません、最近は恒ちゃんが付き合ってくれるからつい」
そう照れ臭そうに笑う。微笑ましいな、と思いながら朱音もつられて笑ってしまう。
「いえいえ、仲がいいのは良いことです。それに小町さん、最近悩んでいるのは恒君のことでしょう?」
その問いに小町は黙ったまま頷いた。だけど、顔が紅潮してしまっているのが可愛らしい。
小町も恒もずっと昔から知っている子たちだ。小町が黄泉国で暮らすようになってから大分経つし、恒も屋敷で生活するようになったのは最近だけれど、赤ん坊のころから知っている。
二人が一緒になって幸せになってくれるのなら、それ以上に喜ばしいことはない。きっと美琴も良介もそう思っているのだろうと思う。
「私でよければ相談に乗りますよ。上手い答えは出せないかもしれませんが、心の内を吐き出すだけでも楽になりはずです」
「そうどすか」
小町は恥ずかしいのか、メニューで顔を隠すようにしながら言う。
「悩んでいることとしては、恒ちゃんが私のことをどう思ってるのか、全然分からないのが不安で」
朱音は微笑して頷いた。こういう相談を受けるのは久し振りで、気分が高揚するのを感じる。普段は誰が死んだ誰が悪事を働いたなどという血生臭い話題ばかり入ってくるから、こうやって恋だとか愛だとかの話ができるのは、それだけで新鮮な気分だった。
「やっぱり、本人に直接は聞き辛いですものね」
「だって、本人に突っ込んで聞いたら告白みたいになっちゃうやないどすか」
白い肌を赤くしたまま、小町は俯いて言う。この様子で恒の前にいたのなら、彼も気付きそうなものだと思うけど、そういうものでもないのだろうか。朱音は小さく首を傾げる。
「そうですよねぇ。私がさりげなく聞いてみてもいいですが、やっぱりそれは嫌ですか」
「……、聞くのなら直接聞きたいと思います」
注文を取りに店員がやって来て、朱音と小町はそれぞれサンドウィッチのセットを頼んだ。そして、店員が声の聞こえないところまで離れたことを確認して、朱音は言う。
「私は応援してますよ、小町さん。それに恒君だって小町さんのことを嫌ってはいないと思いますよ。夕食の時などにはよく小町さんのことを話していますしね」
「本当どすか?」
少しだけ身を乗り出して、嬉しそうに小町は言った。こういう話に自分自身はあまり縁がない朱音だが、きっとこうやって相手のことを話したり、聞いたりしたりするのは楽しいのだろうと思う。
「はい。恒君も小町さんのことを大事に思っていることは分かります。だからきっと、小町さんの想いにも答えてくれると思います」
そう言うと、小町は再び俯いて、はにかんだ。
「でも、今まではずっと姉と弟みたいな関係でしたから、私のことを意識してくれるかが心配なんどす。それに私も色々と恒ちゃんをからかったりもしてましたし、改めて考えるとそれで嫌われちゃうんじゃないかとか、考えてしまって……」
「考え過ぎですよ。小町さんだって、恒君をそんなに意識するようになったのは最近なのでしょう?」
朱音が問うと、小町は「はい」と答えて先程出された水を飲んだ。
「私も偉そうなことは言えないんですけどね。ちょっとしたきっかけだと思います。恒君は今まで、誰か女の子に興味を持ったことはあるんですか?」
小町は首を横に振った。
「多分、ないと思います。ずっと一緒にいましたけど、他に親しくしている女の子もおりまへんでしたし、話も聞いたこともなかったと思います」
恒は現在一六歳。そう思うと今まで好きな人の一人や二人いてもおかしくはない気がするが、しかし、同じ屋敷で暮らしている朱音としても、恒のそう言った性格はなんとなく分かる気がした。
「恒君は、そういう異性に対する意識が薄いですよね」
恒は美琴のこともほとんど異性として意識しているようには見えない。実際の年齢はともかくとして、見た目は恒と同じ十代後半の少女でなおかつ容姿も優れているのに。長年生きてきた朱音にとっても、そう言う少年は珍しかった。
「ええ。あの子はあんまり他人に深い興味を持とうとしない子でした。それはきっと、かつていじめられてたせいもあるのでしょう。自分が相手に深く関われば、相手も迷惑だし、自分も傷ついてしまうとあの頃の恒ちゃんは思っていました。今ではそれは緩和されたようどすけど、まだ他人に対して深い興味を持てないのかもしれません」
朱音は頷いた。恒がいじめられていた、ということは目の前の小町自身から以前聞いて知っていた。半妖怪として強い霊力を持って生まれてきてしまった恒は、それを理由にして同じくらいの子供たちに迫害されるようになったのだという。
「それがきっと、恒君が今まで異性に対して興味を持てなかった原因なのでしょうね。でも、小町さん、あなたは違うじゃないですか。小町さんは恒君がそんな風になる前から、ずっと一緒にいたのでしょう?そして、今でも一緒にいる。私は恒君の心の深くに入り込むことができるのは、小町さんだけだと思いますよ」
朱音の言葉に、小町は顔をより赤くして小さく頷いた。
「本当に、私は最近どうしちゃったんだろうと思うんどす。今までこんな風に恒ちゃんのことを想ったことはなかったから」
「大切だと思っていた気持ちが、より強くなっただけだと思いますよ、なんて私が分かったようなことは言えませんけれどね」
朱音は一つ呼吸をして、言う。
「私ももう、人間から妖怪になって七百年ほどの歳月が経ちました。私も美琴様と同じように誰かと結婚して子供を産む、という方法で増える妖ではありませんから、恋という気持ちは分かりません。だけど、それが幸せな気持ちなのだということは分かります。頑張ってくださいね」
そう笑いかけると、小町も笑って頷いた。
「はい、ありがとうございます。今の恒ちゃんはまだ、鬼たちに命を狙われていて危ない状況どす。だから、それが終わって、あの子が安心して生きることができるようになったら、この気持ち、伝えたいと思っています」
「その調子ですよ。鬼たちは、私や美琴様、良介さんに任せてください。必ず、恒君と小町さんには平和な日常を届けます。だから、そのときには祝わせてくださいね?」
その女は、古い椿の木の前に佇んでいた。絹のような黒髪と血のように真っ赤な唇が、白い肌に映えている。
椿の木は町から少し離れたところに植えられていた。人が通ることはあまりない。しかし女は、自分が人のたくさんいるところにいかねばならないことを知っていた。
女が歩き出すと、前方から自動車が走って来て彼女のすぐ横に止まった。窓ガラスが降り、中から頭髪を剃った若い男の顔が現れる。
「姉ちゃん、俺らと遊びに行かない?」
女は自動車を見る。中には人間の男が三人ほど乗っているようだった。劣情を隠そうとすることなく顔に張り付けて、女を見ている。
「いいわよ。でもまず、車から降りてひとりひとりの姿を見せてくれないかしら」
女は口元だけで笑って、そう答えた。男たちはその言葉に疑問を持つことなく次々と降りてきた。
「なあお姉ちゃん、名前なんて言うの?」
髪を長く伸ばし、髭を生やした男が尋ねた。女は一瞬考えるように人差し指を口元に当ててから、答える。
「椿よ。赤井椿。それで、あたしを楽しませてくれるの?」
そう挑発するように言うと、男たちはにやにやと笑いながら近付いて来る。
「もちろん。何したい?どこでも連れてってやるぜ」
「ここでいいわ」
椿がそっけなくそう言うと、男たちの間に小さなどよめきが走って、それから髪を剃った男がさらに近付いてきた。
「なら、お言葉に甘えて」
男の手が椿の肩を掴む。その直後、椿は男の顔に自身の顔を寄せ、そっと耳元に息を吐きかけた。
それはただの吐息ではなく、妖気を伴った呼気だった。椿の妖力に当てられた男の体は急激に縮み、来ていた衣服を残して見えなくなった。
にやつきながら椿と剃髪の男を見ていた他の二人の男たちは、何が起こったのか分からないようにその場に立ち尽くしていたが、椿が彼らの方を見ると同時に悲鳴を上げて逃げ出そうとした。
「逃がさない」
椿は口角を釣り上げて、そう宣言した。
男の一人が足を取られて転ぶ。彼が自分の足元に視線を向けると、コンクリートを突き破って木の根のようなものが彼の足元に絡みついている。
「来るな!」
「貴方たちからあたしのことを誘ったんじゃない?」
もう一人の男も同様に足を縛られ、逃げられずにもがいていた。それはまるで、蜘蛛の巣に捕えられた獲物のようだった。そして、巣の主である蜘蛛はゆっくりと近づいて来る。
「もう諦めなさい」
椿は一人ずつ、その体に自身の息を吐きかけた。声を上げても誰も来ず、足を締め付けられて逃げることもできず、男たちは椿の毒牙にかかっていった。
やがて、そこには乗り捨てられた普通自動車に穴のあいたアスファルト、それに三人分の成人男性の衣服だけが地面に落ちている奇怪な景色が残った。
椿はその景色を一度見渡してから、興味を無くしたようにそれを背にして歩き出した。
「これで、三人」
そう呟いて、椿は口元に手を当てて小さく笑った。
美琴は縁側に腰を掛けて、ぼんやりと庭を眺めていた。夏が終わり、秋が始まろうとしているこの時期、庭に植えられた様々な植物も花を咲かせている。
菊に金木犀、萩や秋桜。秋の済んだ空の下で、皆今年も綺麗な花を見せてくれた。それに木々の葉も少しずつ色付いてきている。植物の変化を見ると改めて、季節の変わり目を感じる。
美琴は秋風にそよぐそれらの花や葉を眺めながら、彼らは何を思っているのだろうと考える。
動物がそうであるように、植物にも霊体と肉体がある。自ら意思表示をすることが稀であるため、植物は何も考えていないと思われがちだが、そんなことはない。彼らに脳はなくとも、心はあるのだ。
だけれど、花々や木々と交流することは難しい。基本的に植物たちは、我々動物と対話する必要性を感じていないからだ。
種として生まれ、地に根付き、そこで一生を終える。植物にとってはそれが当たり前で、自由に動き回る我々の方が奇妙に見えるのだろう。価値観が異なるのだ。
だが、そんな植物たちが我々に直接干渉してくることもある。その多くは自身に危険が迫った時だ。
普通の植物は他者に干渉できるほどの力を持たないが、長年の時を経た木々などは強い霊力や妖力を持ち、確固たる意志によって自分を斬り倒そうとする人間に祟りを起こすなどのことをしてきた。
それらは木の霊、木霊と呼ばれてきた。また果実や種を作り出す際に妖力を使って、新たな肉体を得るものもいる。それらは獣や人の姿となって、他の動物に関わることもあった。
そういう植物は、かなり珍しい例だ。だが、美琴は何度かそういった植物の妖に出会ったこともあった。先程のような植物に関する知識も彼らに教えられたものだ。
美琴は両手を上に伸ばしてから、息を吐いた。
「美琴様、何してるんですか?」
後ろから恒の声が聞こえ、美琴はゆるりとした動作で振り返る。
「何もしてないわよ。天気が良いから、縁側で陽に当たってただけ」
恒が横に来て、縁側に座った。この子がこの屋敷に来てからそろそろ四カ月が経とうとしているのかと、ふとそんなことを思う。
「涼しくなってきましたね」
「そうね。それに黄泉国は元々人間界よりも気温は低いのよ。だから冬になれば雪も降るし、積もるわ」
「そうなんですか。僕関東から出たことがないから、雪ってあんまり見たことがないんです」
恒は意外そうにそう言った。
「そう、なら楽しみにしていなさい。結構綺麗な雪景色が見られるのよ」
美琴が微笑してそう言うと、恒も笑って「はい」と言った。
夢桜京の、あの鬼たちの事件から二週間ほど時が経っている。その間に恒の態度や表情には見られないが、おそらく心中では色々と思っていることがあるのだろう。
「恒、学校は楽しい?」
「楽しいですよ」
恒は笑顔のままそう言った。だが、美琴は知っていた。この子はあれから、あまり友人と出かけることをしなくなった。屋敷にいる時間も長くなった。
その理由は分かっている。自分が襲われた時、ここにいれば安全だということもあるだろうが、恒のことだ。自分と親しくしている人が巻き添えを食うのが嫌なのだろう。
小町は、恒は自分の悩みを一人で抱え込むのだと言っていた。彼女の言う通り、恒は一度も自分や、朱音、良介にも相談のようなことはしていない。
「何か最近変わったことはなかった?」
「大丈夫です。誰かが襲ってくるということはありませんでした」
美琴は頷いた。恒には注意して日常を送るように言ってあった。本当はすぐにでもこの状況から解放してやりたいが、それは難しい。せめて、鬼たちの居場所が分かればよいのだが。
「ごめんなさいね、恒。しばらく不自由を掛けるわ」
「僕の方が感謝しなければいけませんよ。守ってもらっているんですから。自分で解決できれば一番いいんですけど」
「そんなことは考えなくてもいいわ」
美琴はそう静かに言った。恒が鬼の元に自分から向かうことは、自殺行為に等しい。
「分かっています。あと、僕よりも最近小町さんの様子が変なんです」
「こんな時にまで他人の心配をするのね、あなた」
美琴は口元を微笑ませてそう言うと、恒は頭を掻いて答える。
「僕がこんな状況になっているせいで、小町さんが悩んでいるのかもしれないと思うんです」
「それは心配でしょう。私だって心配だもの。ずっとあなたと一緒にいた小町ならなおさらよ」
「そうでしょうね……」
そう言って恒は黙り込む。小町の態度がおかしいのはそれだけが理由なのではないのだろうが、小町が恒を想っているなら余計に今の状況は心を悩ませるのに十分だ。
「まあ、もう少しの辛抱よ。小町のことは大事にしてあげるのよ。あの子も意外と不安定なところがあるからね」
「分かってますよ。長い付き合いですから」
美琴は静かに首を縦に振った。恒も表に出さないだけで、心の中では色々と考えていることがあるだろう。
二人ともまだ若い。きっとこれから楽しいことがまだまだあるだろう。それを保証してあげるのは、年長者としての自分の役割だ。




