三 森妃姫子
それからもう十年が経ったのか。あの後何度か妃姫子の家には行ってみたが、インターホンを押そうがドアを叩こうが、その家から人が出てくることはなかった。そして数ヵ月後には、その家には誰もいなくなっていた。
引っ越しをしたのだろうか。そう思って調べたが、学校には何も知らされていなかった。その後、再び森妃姫子の名前を聞いたのは四年前のことだ。
四年前、当時高校生だった子供たちが集団で行方不明になる事件が起きた。その人数は十二人。彼らは皆同じ高校に行っていた訳でもなく、特別仲が良いという訳でもなかった。
そんな彼らのただ一つ共通点が、小学校四年生のころに同じクラスに所属していたこと、そして森妃姫子のいじめに加担していたことだった。
それに気付いたものは少ない。妃姫子が行方不明になって六年が経っていた。山崎がそれに気付いたのは、彼があの後も妃姫子に対するいじめについて調べていたからだ。
もしかしたら、ひょっこりと妃姫子が戻ってくるかもしれない。そんな希望があった。そうしたら、今度こそ守ってやろうと思っていた。だが、そんな思いは実らずに妃姫子の世代は小学校卒業を迎えた。
十二人の失踪が、本当に妃姫子と関係があるのかは分からない。だが、その事件は妃姫子の存在を思い出させるのには十分な出来事だった。
そして今度は児童失踪事件に、「ひきこさん」の噂だ。しかも被害者はいじめを行っていた子供。
妖怪などは信じていないが、もし森妃姫子が成長し、復讐にやってきたのだとしたら。自分はどうしたらいいのだろう。山崎は深い溜息をついた。
最後の授業が終わり、洋一郎は学校から解放された。今日は気分が良かった。誰も洋一郎に近付いて来る者も、何かしてくる者もいなかったからだ。これもひきこさんのお陰だ。
皆は昨日と同じように固まって帰るようだったが、洋一郎はそのつもりはなかった。自分だけはひきこさんに襲われることはない。それなら、自分をいじめて無視している奴らと一緒に帰るより、一人で帰りたかった。
図書室で適当に時間を潰してから、帰るために廊下に出る。今日も相変わらず雨だ。窓を覗けば、連日の土砂降りはグラウンドの土をほとんど泥に変えてしまっている。長靴を履いてきてよかったと洋一郎は思った。
「あ、君は……!」
その時、声が聞こえて洋一郎は窓から目を離した。そこには、昨日秋田と桐田にいじめられていたときに助けてくれた先生がいた。名前は、確か山崎先生だっただろうか。
「もう皆集団下校で帰ってしまったぞ。どうして残ってるんだ」
「すいません。図書室に返さなきゃいけない本があって」
咄嗟にそう嘘をついた。山崎はそれ以上は言及してこなかった。
「仕方ないな。引率の先生が帰って来るまで待ってるか」
「大丈夫です。一人で帰れます」
「駄目だよ。君のクラスでもう二人も行方不明になった子が出てるじゃないか。一人では危ない」
「でも、ひきこさんは僕の味方だから」
思わずそう言ってしまった。だが、先生はひきこさんの噂なんて知らないはずだ。それなのに、山崎の表情がにわかに変わった。
「君もひきこさんを知っているのか」
そう問われ、洋一郎は躊躇いがちに頷いた。
「少しだけ、先生と話をしないか?」
洋一郎は、職員室の山崎の席の方に連れて行かれて、椅子を出してもらって山崎と向き合うようにして座った。
「君も昨日、そのひきこさんを見たのかい?」
洋一郎は少し間を置いてから頷いた。すると、山崎は「そうか」と答えて、何か考えているような表情をした。
「君はひきこさんが味方だと言ったね。それはどういうこと何だい?」
最初はふざけているのかと思ったが、山崎の目は真剣だった。どうにかごまかそうと考えるも、いい案が浮かばない。結局、洋一郎は素直な心情を吐露することに決めた。
「ひきこさんは、いじめっ子を襲うんです。そして、いじめられている子供は襲わない。僕は目の前でひきこさんを見ました。でも、ひきこさんは僕のことは襲わずに、秋田を襲いました。きっとひきこさんは僕みたいないじめられている子供を助けてくれる妖怪なんです」
そう言うと、山崎は難しい顔をした。しばらく口を閉ざしていたが、やがて静かに言った。
「君は、堀口君や秋田君がいなくなったことを、良かったと思っているかい?」
慎重で、ゆっくりとした口調だった。洋一郎がどう答えるべきか迷っていると、山崎が再び口を開く。
「正直に答えて欲しい。もちろん、私は君がいじめられていたことは知っている。だから、君が何を言おうとも怒りはしない」
その言葉で、洋一郎が話すことは決まった。それは怒りはしないということよりも、自分がいじめを受けていることを、認められたことが大きかった。
「正直に言えば、何とも思いません。ただ自分に嫌がらせをしてくる奴らがいなくなったのは確かです。だから、今日はすごく学校が楽しかった」
山崎はその言葉を聞いて、しばらくの間考え込むようにして腕を組んでいた。そして、重い口を開いた。
「君の気持ちも良く分かるよ。だがね、先生はこの世には分かり合えない人はいないと、そう思っている。この世にはね、いなくなっていい人間なんて、いないんだよ」
洋一郎は山崎を見た。その言葉が、自分にとってどれだけ残酷なものなのかこの先生は分かっているのだろうか。少しずつ怒りが沸いてきた。
「僕は毎日、消えととか、死ねとか堀口や秋田に言われてきました。殴られて、ものを壊されて、それでも黙っていました。それなのに、僕はあいつらが消えて欲しいと思うこともしてはいけないんですか?あいつらが僕に対して何度も言ってきたことなのに、思ってもいけないんですか?」
その言葉に、山崎は少しうろたえたようだった。
「だからこそ、自分から許そうという心を持たなければ駄目なんだよ。憎み合っているだけじゃ、何も生まれないだろう?傷つけあうことにしかならない。この世界にとっては、君も堀口君も、秋田君も平等に必要な存在なんだ。だからせめて、行方不明になった彼らの心配くらいは……」
「もういいです」
洋一郎は山崎を睨んだ。
「先生は、毎日毎日死ねと言われたことなんてないでしょう。もし僕が行方不明になっていたら、あいつらはげらげらわらっていたでしょうね。何にも分からない癖に、口出ししないでください」
洋一郎はそれだけ言って、椅子を蹴り飛ばすように立ち上がって走って職員室を出た。自分のことを分かってくれるなんて思ったのが間違いだった。
堀口や秋田を心配しろ?そんなことできるわけがない。彼らが戻ってくればまた自分はいじめられるんだ。そんなこと、誰が望むものか。
洋一郎は玄関まで走って、そして傘も差さずに雨の中に飛び出した。
美琴は雨の中、強い妖気を感じた。何かによって妖気が拡散されているが、死神の目は穢れを見る以外にも妖気や霊気をより鮮明に見ることができる。死神としての能力だ。
これを辿れば目的に辿り着ける。美琴は走り出す。捜索を始めて三日目、やっと敵を見つけることができそうだった。
走り続け、やっと目的の妖を見つけたとき、その妖怪は子供の死体を引き摺りながら雨の中を歩いていた。穴だらけ、汚れだらけの白い着物に、顔を隠すように伸びた黒い髪、その下の目と口は横に裂け、歪んだ体で横歩きをしている。背は異様に高く、肌は灰色でたくさんの傷がある。
その女の妖怪は体に特殊な妖気と霊気のようなものを纏っていて、自信の気配を曖昧にしている。それは術というより、能力のようだった。美琴は死神の目があるためきちんとその全体像を捉えられているが、もし普通の妖や人間なら、まともにあの妖怪を見ることも敵わないだろう。これが、正体不明のまま児童行方不明事件を引き起こすことができた理由か。
彼女の手にある子供の死体は腐乱している。最近捕えた子供ではなさそうだった。今日の被害者はまだいないようだ。だが、あの子は確実に、この妖怪の犠牲者だ。
美琴は刀の柄に手を当て、その妖怪の前に立ち塞がった。
妖怪は髪の間から、両端の裂けた目で美琴を見た。その霊気が美琴に向けられる。それは、凄まじいまでの負の感情を伴っていた。
この女は、怨恨によって妖怪化した。それがその霊気から分かった。この女は生まれつき妖怪だった訳ではないのだろう。恐らく、人間だった彼女は普通では考えられないほどの怨嗟を以て、肉体が変化し、妖怪と化した。
同情はできる、だが許す訳にはいかない。彼女の能力によって見えづらくはなっているが、穢れは確実に蓄積されている。美琴は太刀を抜いた。
銀色の刃が雨に光る。女は右手から子供の死体を放した。そして呻くような声を上げる。
「私は……、私の顔は醜いかぁぁぁ」
美琴はその問いに答えぬまま、走り出す。そして、十六夜を横に構え、妖の体に叩き込もうと力を込める。
「やめて!」
しかし、その行為は美琴と女の妖の間に入った少年によって止められた。
「なっ!?」
美琴は振りかけた刀を全身の力を込めて止めた。刀に込めた妖力が逆流し、一瞬痛みに視界が染まる。その隙に、あの妖怪の姿は消え失せた。
少年は震えたまま、美琴の前に立っている。どうしようもない。美琴は溜息をついて、太刀を鞘に収めた。その姿も紫の和装から、白の洋装に変わる。
「危ないじゃない……。何故こんなことをしたの」
「お姉さんが、ひきこさんを殺そうとしたから」
震えながらも、美琴を睨んだまま少年は言う。ひきこさんとはあの妖怪のことだろう。一体、あの妖怪とこの少年は、どんな関係があるというのか。
「なぜ庇うの?あの妖怪を」
「だって、ひきこさんは僕を助けてくれたから……」
「助けてくれた?」
あの妖怪が、この子を助けた。本当だろうか。とにかく、話を聞いてみる必要がありそうだった。あの妖怪の手掛かりが何か掴めるかもしれない。
「おい!洋一郎君!」
今度は雨の向こうから成人した男性の声が聞こえた。見れば、四十代ほどの人間の男が走って来ている。この子の関係者だろうか。
「山崎先生……」
洋一郎と呼ばれた少年はそう言った。あの人間は、この子の学校の教師だろうか。
山崎は美琴に対して会釈した。美琴も軽く頭を下げる。
「急に学校から出てしまったから、慌てて追いかけて来たんだ。無事だったか」
「……はい」
そして山崎は美琴の方を見る。
「君も、傘も差さないで。とにかく二人とも学校に来なさい。風邪をひいてしまうぞ」
学校でタオルを貰い、美琴は濡れた髪を拭った。妖怪だからこんなことで病気になどならないが、その好意は嫌ではなかった。
「ええと、君は……?」
「伊波美琴です」
美琴はそう答えた。妖には基本的に姓は無いが、名前だけだと怪しまれるため、相手が人間の場合はそう名乗っている。
「そうか、伊波さん。私は山崎。この小学校の教師をしている。ところで、どうして君はこの子と一緒にいたんだい?」
山崎はぽんと洋一郎の肩を叩いた。美琴が答えようとすると、洋一郎の方が先に口を開く。
「この人は、ひきこさんを殺そうとしたんだ」
「ひきこさんを殺そうと……?」
山崎は訝しげに洋一郎を見て、そうして美琴を見た。これ以上は隠していても意味がないようだ。
「その通りです。あのひきこと呼ばれている妖怪。私はそれを討伐しにやって参りました」
「ちょっと待ってくれ、妖怪?討伐?君はなにを言っているんだ」
「言葉で言っても信じられないでしょうね。実を言えば、私も人間ではありません。妖怪です」
「君は私を馬鹿にでもしているのか……?」
山崎は苛立たしげに言った。それはそうだろう。いきなりこんなことを言われてはいそうですか、となる人間はいない。
「証拠を見せましょう」
美琴は目に妖力を通した。瞳の色が黒から紫へと変化する。山崎は目を見開いて、それを見た。
「なんなんだ、君は」
「これで分かっていただけましたか。同じ妖として、私はあのひきこという妖怪を放っては置けません」
美琴が言うと、山崎はどう答えていいのか迷ったているように口を動かしたが、何も言葉は発さなかった。だがその沈黙の間に、洋一郎が声をあげた。
「なんでひきこさんを殺すんだよ!ひきこさんは、僕のようないじめられている子供を助けてくれるんだ!自分もいじめられていたから、僕たちのような子供を助けてくれるんだよ」
「それであの妖は子供を狙うのね」
美琴は考える。いじめによって誕生した妖。怨嗟によって妖怪化したものが、その怨恨を生じさせた相手を狙うのは納得が行く。だが、あの妖怪はそれとは無関係な子供も殺しているようだ。そうでなければ、あの穢れの程度はない。
「……ひとつ聞いてもいいかい?」
山崎が問う。
「なんですか?」
「妖怪がいるかどうかは、まだ半信半疑だ。だが、人間が、妖怪になるということはあるのかい?」
「ええ、あります。恐らくあのひきこという妖怪もその一人。怨恨によって妖怪化した人間です」
そう言うと、山崎は静かに俯いて、「そうか……」と答えた。
「もしかしたら、私はそのひきこという妖怪になった人間を、知っているかもしれない」
そう呟くように言って、山崎は話し始めた。




