二 ひきこさん
急に前を歩く生徒たちが騒ぎ始めた。洋一郎は顔を上げる。生徒たちの合間から、白いぼろぼろの和服を着た、長身の女の姿が見えた。
その女は、顔を隠す髪の間で、充血した目を何かを探すように動かしていた。そして、その視線は洋一郎の方に止まった。
同級生たちはパニックになって、一斉に走り出した。悲鳴が雨音の中に響く。その中で、牽引を担当している先生だけは状況が分からないように、「どうしたの!みんな!」と叫んでいる。すぐ近くにいる、あの不気味な女の姿が見えないのか。
「ひきこさんだ!」
生徒たちの中の誰かが叫んだ。
「何故逃げる……」
女はそう呻くような声を出して、奇妙な横歩きで近付いて来る。洋一郎は足が硬直したように動けないまま、それを見ていた。
不意に、後ろから体を押される感覚があった。洋一郎は前につんのめり、自分からひきこの方に近付いてしまう。
押した相手は確認するまでもなく、桐田だった。隣に秋田もいる。彼らはあのひきこの注意を洋一郎に向けさせて、その隙に逃げようとしていた。
洋一郎は恐る恐る顔を上げた。その目の前に、女の姿があった。顔は青白く、傷だらけだった。その中でもひどいことに目は両方とも横に裂け、さらに口は右側は上に向かって、左側は下に向かって裂けている。そこには、こびり付いた赤黒い血のようなものが見えた。
ひきこは洋一郎を見た。洋一郎は恐怖で雨の溜まった地面に尻をつく。腰が抜けて立ち上がることができなかった。
ひきこは洋一郎を見下ろした。しかし、何もしようとはしなかった。一瞬目が合ったかと思うと、女はまたあの横走りで彼の側を通り過ぎて行った。そして、彼女の向かう先には秋田と桐田がいた。
二人は悲鳴を上げて逃げ出した。だが、ひきこはその走り方にも関わらず、異様に速かった。秋田の頭を鷲掴みにすると、ひきこはものすごい力でコンクリートの地面にその少年の頭部を叩きつけた。
赤黒い血が、雨水に混ざった。秋田は気を失ったのか、それとも死んでしまったのか、指先を小さく動かすだけで起き上がろうとしなかった。ひきこはそんな秋田の片足を掴むと、振り返りもせずに歩き出した。秋田の体が、ひきこによって引き摺られていく。
そこに秋田がいたことを証明する血の痕跡が、雨に流されて行く。洋一郎はしばらくの間茫然と、女が秋田を連れて去って行った川沿いの道を見つめていた。
「遅かった……」
美琴は土砂降りの雨が自分の体を叩くのも構わず、江戸川沿いの道に一人佇んでいた
彼女の視線は舗装された地面に向けられている。河原に沿って作られた土手の道。そこに、微かな妖気が感じられた。それに、血の匂いも。
妖気が感じられるということは、人間の仕業ではないことは確かなようだった。辺りには投げ捨てられた、開いたままの傘が散らばっている。ここにはたくさんの子供たちがいたようだ。
彼ら全員が犠牲になったのか、それとも極一部なのかは分からない。しかし、血の匂いを感じるのだから全員が無事だった、ということはないのだろう。
もう少し早く来ていれば、と美琴は悔やむ。しかし、異様に掴みにくい妖気だった。理由は分からないが、もしかしたら妖術でも使っているのかもしれない。穢れの気配も感じにくい。
とにかくこれ以上犠牲が出る前に解決したい。美琴は紫の瞳を黒に戻した。
雨水が黒髪から滴り落ちる。美琴は空を見上げる。
明日も雨になりそうだと思った。
また一日が明けた。
集団下校の途中に事件が発生したせいか、学級閉鎖になった訳でもないのに、洋一郎のクラスにはほとんど生徒の姿がなかった。皆学校を休んでいる。数少ない生徒たちは「ひきこさんだ」「ひきこさんが出た」と噂し合っている。
あの女の人は、ひきこさんと言うのか。洋一郎はひとり話には加わらず、机に座ったまま考えていた。あの人は、自分を助けてくれた。自分をいじめていた秋田を連れ去ってくれた。きっと、堀口が行方不明になったのも、あのひきこさんのお陰だろう。
「ひきこさんって、元々はいじめられてた小学生だったらしいよ。それが原因で学校に来なくなって、家でも親にいじめられて、それで狂っちゃったんだって。だから小学生を襲うらしいよ」
「何それこわ~い」
女子たちがこちらをちらちらと見ながら話しているのが見える。堀口と秋田が立て続けに行方不明になったせいなのか、今日は一度も自分に何かしてくる生徒はいなかった。
そうか、ひきこさんもいじめられていたのか。だから、僕を助けてくれるのかもしれない。洋一郎は心が少し明るくなるのを感じた。自分に、たったひとりの味方ができた、そんな心持だった。
今日は登校している生徒の数が少ない。昨日あんな事件があったのだから、当たり前だ。山崎はいつもの賑やかさのない廊下を歩く。
昨日また、生徒が一人行方不明になった。しかも集団下校の最中にだ。そしてそれは、自分が昨日放課後に注意した秋田という子供だった。
一緒にいた生徒たちは背の高い女の人が突然現れて、秋田を連れ去ったと証言している。そう言っているのは一人や二人ではないから、嘘をついている訳ではないのだと思う。
しかし、牽引していた先生は、そんなものは見ていないと言っていた。突然生徒たちが騒ぎだしたと思うと、皆ばらばらに走り出した。だが、女の人などはおらず、どうして生徒たちが怖がっているのか分からなかったと言う。そしてその間に、秋田は消えてしまった。
一体何があったのだろうか。ここまで生徒と先生の話が食い違うものなのか。そして、もうひとつ気になることがあった。生徒たちが、その女の人のことを、「ひきこさん」と呼んでいることだった。
自分の教室に入るが、机は半分も埋まっていない。まだ授業が始まる時間ではない。
「やっぱりひきこさんなのかな?」
「隣のクラスの子はひきこさん見たって言ってたよ」
女子の二人組が、そんな会話をしていた。山崎は気になって、その女子生徒のところに近付いて行った。
「なあ、そのひきこさんというのは何なんだい?」
「先生知らないの?」
「ああ、教えてほしいな」
そう言うと、女子二人は「仕方ないなあ」という感じで笑った。
その二人によれば、ひきこさんは所謂学校の怪談に登場する怪人のようだった。雨の日になると現れ、小学生を襲う怪人。その手にはいつも人形のようなものを持ち、引き摺っている。よく見ると、それは人間の子供なのだそうだ。
そして、子供を見つけると追いかけて、捕まえ、ずたずたになるまで引き摺るのだという。この怪人は大人には見えず、子供にしか見えないらしい。
ここまでなら、まだ子供たちの間に広まった怪談だと納得することができた。だが、その後に女子生徒の一人が発した言葉に、山崎は心臓を抉られるような衝撃を覚えた。
「ひきこさんはね、元々は森妃姫子っていう小学生でね、いじめられて妖怪になったんだって」
「森、妃姫子?」
「そう。先生何か知ってるの?」
「いや、何でもない」
山崎は女子生徒たちから離れて、教職員用の机に座った。
森妃姫子、ひきこさんという名前から何かあるのではないかと思っていたが、まさか本当にその名前を聞くとは思わなかった。そして、いじめられて妖怪化したとは。
山崎は頭に手を当てた。森妃姫子は、10年ほど前にこの学校に実際にいた生徒の名前だ。そして、現在は行方不明になっている。
山崎は思い出す。10年前、ひどいいじめを受けていた妃姫子のことを。
「ひいきのひきこ!ひいきのひきこ!」
山崎が知っているその子は、いつもそう呼ばれていじめられていた。背が高く、可愛らしく笑う子だったことを覚えている。
ただ、先生に気に入られていたことが原因で、他の子供たちにいじめられるようになった。名前が偉そうだと難癖を付けられ、妃姫子は笑わなくなった。そんな彼女が心配で、一度だけ二人で話してみたことがある。
「私、みんなに嫌われてるから……」
妃姫子はそう言ってずっと俯いていた。体や顔にはいくつも傷があり、彼女の置かれた悲惨な境遇を想像させた。
「そんなことはない。拒絶してるばかりじゃだめだよ。もっと皆と話し合ってみないと。先生は少なくとも森の味方だ」
「最初に私を拒絶したのは、みんなです。私の何がいけなかったんだろう」
笑うでも泣くでもなく、少女は淡々とした調子でそう言った。その姿が山崎には哀れでならなかった。この子は子供らしく感情を表に出すこともしなくなってしまったのか。
「皆には何をされたんだい?嫌でなかったら、先生に言ってみてくれないか?」
そう尋ねると、妃姫子は静かに頷いた。
「叩かれたり、蹴られたりはいつものこと。教科書もノートも捨てられたし、上靴もカッターで切られた」
抑揚のない声でそう話す妃姫子を、山崎は悲痛な思いで見つめる。
「今日は給食に虫を入れられて、食べさせられました。あとロッカーにも閉じ込められました。怖かったです」
「そんなことを……」
山崎が予想していたよりも、妃姫子が対面している現実は残酷だった。それなのに、妃姫子は涙さえ流さない。
「先生、私って、生まれてこない方が良かったんですね」
少しだけ感情を覗かせて、妃姫子はそんなことを言った。堪らなくなって、山崎は妃姫子の肩を掴んだ。
「そんなことを言ってはいかん!この世には、生まれてこなかった方が良い人間も、死んでしまった方が良い人間もいないんだ。だから、君は胸を張って生きていい。私が力になる」
妃姫子は少しの間、茫然としたように山崎を見ていた。そして初めて、少しだけ笑った。
しかし、山崎が妃姫子に話したのは、それが最後になってしまった。
その次の日、妃姫子にとって最悪の出来事が起きた。彼女のクラスメイトたちが、妃姫子の腕を紐で縛りつけ、学校中を引き摺り回したというのだ。先生も生徒も、誰ひとりとして止める者はいなかった。
山崎はちょうどその事件が起きたと言う昼休み、仕事で学校から出ていた。仕事を済ませて学校に帰った時には既に妃姫子は学校から逃げ出した後だったらしい。
山崎は後悔した。力になると約束した後で、こんなことが起きるなんて。見て見ぬ振りをした他の教師を責めたかったが、それよりもやることがあった。
山崎は妃姫子の担任から住所を聞き出し、その家に向かった。だが、彼女の親は一度も山崎を家に入れてくれることはなかった。最初は、娘に対して何もしなかった学校に怒っているのかと思った。だが、違った。
「先生も、あんな子のために必死になることはありませんよ」
妃姫子の母親は、嘲るようにそう言ってドアを閉めた。それから、あの家のドアが開かれることはなかった。




