一 雨の都市伝説
※この話は残酷な表現、グロテスクな表現がかなり多く使われているので、お読みの際はお気を付けください。
雨が降っている。窓を叩く水の音で、彼女はそれに気がついた。
部屋の隅に蹲っていた彼女は、その音を聞いてゆっくりと動き始める。ずっと自分を閉じ込めていた部屋の扉は、そこにはもうない。
歪な動きで彼女は歩き始める。今日もまた、獲物をここに連れてくるため、雨の下へとその身を曝け出す。
第一五話「怨恨の彼方」
ある雨の夕暮れ、小学三年生の堀口裕也は傘を片手に、一人下校道を辿っていた。一緒に帰る友達がいない訳ではないが、クラスの委員の仕事で遅くなってしまったため、この薄暗い空の下を一人で帰ることになったのだ。雨のためか外を出歩いている人影は見えず、河原に面した道路に差し掛かったときも、彼以外の人間の存在は無かった。裕也はしばらくそのまま歩いていたが、川の上に掛けられた橋を渡ろうとした時、初めて自分以外の者の存在に気付いた。
橋の向こうから歩いてくる、ボロボロの白い服を着た不気味な女。裕也はそれを一目見た瞬間、体中に震えが走るのを感じた。蟹のような奇妙な横歩きに、海藻のような長い髪が掛かって良く見えない顔、そしてその右手には赤と肌色、それに黒と灰色で奇妙に彩られた人形の足を掴み、頭の部分を地面に擦るようにして引きずっている。
雨の視界の悪さも手伝って大まかな様子しか分からなかったが、その異様さは隠しようが無かった。異質な、関わってはならない雰囲気だ。裕也は本能的に最善の行動を取ろうとして、その女に背を向けて歩き出した。
「……何故逃げる」
その瞬間に背後から聞こえるうなり声のような低い女の声。裕也は恐る恐る後ろを振り向き、その行為を後悔した。
女は恐るべき形相で裕也を睨んでいた。既に髪は顔に掛かっておらず、灰色の顔面の皮膚が露出している。両眼は目尻が左右に裂け、赤く充血した瞳は裕也を真っ直ぐと捉えており、奇妙に歪んだ口元からは黄色い歯が剥き出しになっている。 裕也は思わず短く悲鳴を上げ、後ずさった。今まで体験したことのない恐怖に足が竦み、逃げ出す事ができない。
女は右手に掴んだ人形を裕也の方に向かって放った。人形は女と裕也の丁度中間の辺りに落ち、その顔が裕也にも見えた。そこで初めて、裕也はそれが人形ではないことに気が付いた。
それは、子供の死体だった。崖から突き落とされたように傷だらけのその亡骸は所々から肉片や骨をはみ出させ、頭部は半分ほど崩壊していて片方の眼球がない。死体は雨に晒され、無言で裕也にその無惨な死に様を見せつけていた。
裕也は胃から込み上げてくるものを何とか抑えながら、傘を捨てて走り出した。一刻も早くあの女から離れなければならない、そうしなければ自分もあの死体と同じになってしまう。女が怒声を上げるのが聞こえた。振り返ると、女はあの横走りのまま異様な速さで追って来ている。裕也は泣きながら雨に濡れた道路を走った。他の人影を必死に探すも、見当たらない。女の叫びが徐々に近づいてくる。
「何故逃げる……私は、醜いかぁぁぁ!」
女の手が自分の頭を鷲掴みにする感覚。その直後、コンクリートに強く頭を打ちつけられ、裕也は意識を手離した。
女は気絶した裕也の足を掴むと、先ほどの死体のように引き摺り始めた。地面に打ちつけられてできた傷が、コンクリートに擦られて少しずつ開いて行く。少年の体がその存在の痕跡を残すように、血の跡が濡れた道路に伸びる。しかし、それに気付く者はいない。この少年の命が擦り切れるまで、あと少し。
ここ数日、雨が続いている。灰色の空は太陽の光を通さず、重い空気が辺りを満たしている。
赤い番傘に当たる雨音を聞きながら、美琴は黒く濡れた石畳の道を歩く。
薄暗いとはいえ、昼間であるため黄泉国には妖怪の姿は少ない。足を踏み出す度に、下駄の音が湿った景色に響く。
近頃、人間界で児童の失踪事件が続いている。以前の花子の事件に続いて再びだ。しかし、今度は勿論花子は関係がない。彼女はこの黄泉国で暮らしているし、今はもう誰かをさらう意味はない。
ならば、人間が犯人だろうか。花子の事件との違いと言えば、この事件は決まって雨の日に起こっており、場所も千葉と東京の県境辺りに集中しているということだ。境界を移動できる花子が場所を限定する必要はどこにもない。
犯人から何らかの要求は一切なし。児童は誰も見つかっておらず、死体が発見されることもない。ただ、血痕が残っていたという証言がいくつかあるくらい。
美琴は雨の中で溜息を吐く。相手が人間にしろ、妖怪にしろ、放って置く訳にはいかないようだ。先日のがしゃどくろの件のように人間が異界や境界へ行く方法を見つけたと言う可能性もある。そうなれば普通の人間では見つけることは不可能に近い。
とにかく人間界へ行って見よう。美琴は下駄を鳴らして歩き出す。相手が誰であろうと、解決せねばなるまい。
その女は、今日得た獲物を自分の家へと引き摺りこんだ。つい一時間前まで小学生の少年だったものは、今はもうぼろぼろの雑巾のようになっていた。腕や足はあらぬ方向に曲がり、肉と骨とが体のいたるところから露出している。顔の皮膚はコンクリートの上を引き摺られたことで剥がれ落ち、片方の眼球は眼光から飛び出て辛うじて視神経で繋がっている。
女はその死骸を家の奥へと引き摺って行く。埃の積もった廊下に、真新しい血の跡が伸びて行く。
女はかつてリビングだった部屋に入って、その中を見回した。荒廃したその部屋の中には白骨化した死体、腐乱した死体が所狭しと並べられていた。その腐臭を気にも留めず、女は空いている場所を見つけてそこに今日手に入れた死体を捻じ込んだ。
そして再び廊下を戻り、階段の近くにある部屋のドアを開いた。そこには死体の姿はない。子供用の学習机と、小さな本棚がそのまま置いてあるだけだ。ここだけは、彼女にとっては大事な場所だった。
女は部屋の隅にいる蟇蛙を素手で捕まえると、それを口で噛み千切りながらその隅に座った。
その虚ろな目は、何も見つめてはいない。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。小学校教師である山崎は、それを聞いて教卓の上の教科書を閉じた。
「今日の授業はこれで終わり。帰りの会始めるぞ」
がやがやと騒ぐ生徒たちにそう告げて、山崎は手を叩く。教師になって二十年、何度も繰り返して来た仕草だ。
「皆も知っていると思うが、最近この辺りで児童誘拐事件が起きている。朝も話したが、昨日は隣のクラスの堀口君が帰らなかったそうだ。皆牽引の先生に従って集団で下校すること。分かったかい?」
生徒たちは一斉に返事をする。心配だが、今は牽引を担当している教師にこの子たちを任せるしかない。
「今日は掃除は無し!ではさようなら!」
「さようならー!」
生徒たちは椅子を引いて、鞄を背負い、一斉に教室のドアを開いて出て行く。山崎は帰っていく生徒を不安そうに見送った。この数日、江戸川の付近で児童失踪事件が多発している。被害者は東京都の小岩、千葉県の市川と江戸川の両側にある町の小学校の生徒ばかりだった。
犯人はその周辺に住む人物なのだろうか。警察が調査しているが、手掛かりさえ見つかっていないようだ。さらに行方不明者が出るようだったら、学校閉鎖も考えなければならない。とにかく子供の安全が一番大事だ。
自分はまだ校内での仕事が残っているが、せめて校庭までは子供たちを見送ろう。そう思って廊下に出た時、山崎の耳に誰かを罵倒する子供の声が聞こえてきた。
「裕也がいないからって調子に乗ってんじゃねえぞ!」
「そうだ、洋一郎お前なんか知ってんじゃないのか?」
「知らないよ!」
大柄な男子が二人、洋一郎と呼ばれた小柄な男子を壁際に追い詰めて声を上げていた。彼らは自分の受け持つクラスの子供ではないが、名前くらいは知っている。桐田義雄に、秋田信一、そして小柄な少年は大西洋一郎。
「ちょっと頭いいからって調子乗りやがって」
そう言って大柄の方の一人が脛を蹴った時、山崎は思わず彼らに声を荒げた。
「何やってる!」
その声に、三人がびくりと体を震わせて反応した。
「やべ、行こうぜ」
大柄の少年二人は横目で山崎を見て、駆け出して行った。山崎はそれを追いかけることはせず、俯いている少年の方を見た。
「大丈夫かい?」
「……大丈夫」
少年は下を向いたまま答える。
「何かあったら先生に言うんだぞ」
「……はい」
洋一郎はそれだけ言って、集団下校のため整列している生徒たちの中に入って行ってしまった。
山崎はそれをやりきれない思いで見ていた。
いじめ、それは学校教育に携わる者として避けては通れない問題だ。子供でも大人でも、人間は時にひどく残酷になる。集団で一人を敵として認めた時だ。一人を犠牲にして、自分たちの結束を高めようとする。それは最も簡単に仲間を作ることができる手段だからだ。
だからと言ってそれを許す訳にはいかない。そのせいで不幸になる子供がいていい訳がない。
山崎はかつて、ひどいいじめにあっていた女子生徒を知っている。彼女も自分のクラスとは違う生徒だった。そのせいで、自分はあまり目を掛けてやれなかった。
山崎はいつも傷だらけで悲しい目をしていたあの女子生徒を思い出す。彼女は、ある日から学校に来なくなり、そして家族ごと失踪した。
あの頃、もっと自分が彼女の力になることができていたなら、と思う。もしかすれば彼女を救うことができたかもしれない。
十年前、確かにこの学校にいた生徒。名前は、森妃姫子。
洋一郎は、集団下校の生徒たちの一番後ろを一人、歩いていた。彼らの中にいて傷付けられるより、一人孤独にいる方がずっと楽だった。
洋一郎たちは江戸川の川沿いの道を歩いている。雨が地面と水面を叩き、騒々しい音を立てている。灰色の空は、どこか不気味だ。
いつから自分が集団の中から疎外されるようになったのか、それは分からない。自分が人より成績が良かったからか、人より背が低かったからか、人より気が弱かったからか。きっと理由はひとつなんかじゃないのだろう。でも、一番の理由は分かる。誰かが自分をいじめ始めたから、それだけだ。
どうすればこんな目に合わなくても済んだのか、それは分からない。ただ今は、彼らから離れてなるべく攻撃されないようにするしかない。
桐田と秋田がこちらを振り向いて何か言っているのが見える。彼らは昨日行方不明になったという堀口とともにいじめの主犯格だった。いつも三人ひと組で、洋一郎を攻撃の対象にしていた。
思えば、最初に彼らに目を付けられたのは、自分がただ一度だけ堀口の成績を自分が上回ったからだったと、洋一郎は思う。学級委員で家も裕福、成績も優秀、運動神経も抜群な堀口は、クラスの中でも完璧な存在だった。
対して洋一郎は父は普通のサラリーマン、運動は全くできない。友達も少ない。勉強くらいしか取り柄になるものはなかった。だから、ひたすらに勉強を頑張った。そして一度だけ、クラスで一番の成績を取って、先生にも誉められた。
それが、そもそものきっかけだった。洋一郎は思い出す。
先生から誉められた次の日、学校に行くと机に落書きがしてあった。「調子に乗るな」「カンニング野郎」「死ね」などと書かれていた。最初はそれだけで心臓が破裂しそうになるほどショックだった。だけど、そんなことはまだ序の口だった。
やがて、クラスの皆から無視されるようになった。話しかけても誰も反応してくれない。どうしてか分からず、あたふたする僕をにやにやとしながら見ていた同級生がいた。それが、堀口だった。
別に彼と親しかった訳でも、仲が悪かったわけでもない。洋一郎がただ一度だけ堀口を成績で超えたこと、それが、堀口には気に入らなかったようだ。
彼はいつも一緒にいた秋田や桐田とともに、聞こえる声で陰口を言った。
やがて「死ね」という言葉を見ない日も、聞かない日もなくなっていった。話しかけても無視するのに、罵倒の言葉だけは投げかけられる。みんな楽しそうに笑って、自分の死を要求する。洋一郎の心は次第に削れていった。
親に相談することはできなかった。心配をかけたくなかった。担任の先生は、見て見ぬ振りをするだけだった。
不登校も考えたが、それではいじめられていることが親にばれてしまう。家では明るい顔をして、学校へ通い続けた。
ある日移動教室から帰ってくると、教科書がゴミ箱に捨てられていた。無くなったノートは、それからしばらくしてカッターやハサミで切り裂かれるか、落書きされて机の中に入っていた。
やがて暴力が普通になり、堀口、桐田、秋田の三人には日常的に殴られたり、蹴られたりされるようになった。歯が折れるほど殴られたこともある。その時は、親には転んだと言い訳した。
助けてくれるクラスメイトはいなかった。洋一郎と堀口では、人望が違い過ぎる。どちらに付けばいいかは明白だ。誰も、堀口に狙われる危険を犯して洋一郎を助けるものなどいない。それどころか、同じように暴力に加担するものも多くいた。ストレス発散という名目で、殴られた。怪我をしたくなければ金を出せ、と迫られたことだってある。
それは、堀口が行方不明になっても同じだ。自分をいじめていたものたち全てがいなくなりでもしない限りは、これは止まらない。
皆は、自分が自殺することを望んでいるのだと洋一郎は思う。今はまだ、そんなことをしてあいつらを喜ばせてたまるか、という気持ちがあるが、それがいつまで続いてくれるのかは自分でも不安だった。だから、いじめをやめさせる強い力が欲しいと、洋一郎は願う。
そんな力は自分にはない。この状況から助けてくれる人がいるのならば、誰だっていい。
洋一郎は切実にそう願った。その時だった。




