一 鬼との因縁
それは、自分と同じ立場に閉じ込められた多くのものの命を踏みつけて、生き残った。それらの怨嗟を一身に浴びながら、ただひとつ生き残った。
様々な毒が体を蝕んでいくのを感じながら、それは自分がもう元の存在とは違ったものに変わってしまったことを悟っていた。
なぜ自分がこんな状況に置かれなければならかったのか、それは変化する肉体の苦痛に呻きながら、そう恨みを吐く。
もうどうすることもできないと、知っていながら。
第一四話「妖の血」
美琴の太刀に宿る陰の妖力とみすずの薙刀に宿る陽の妖力が、ぶつかり合おうとしていた。紫の妖気と山吹の妖気が接近し、互いを打ち消し合う。そして、刀身同士が衝突しようとした刹那、その間を何かが遮った。
急に出現した壁に美琴は慌てて太刀を引くが、妖力は抑えきれずに壁に直撃した。それは向こうも同じだったらしく、強大な妖力に当てられたその壁は、ひびが入る間もなくばらばらに吹き飛んだ。
「全く、とんでもない妖気がすると思えば……」
そこには片手を頭に当てて、眉間に皺を寄せた晴明の姿があった。先程の壁は、どうやら晴明の土の式神らしい。
「あら、晴明」
美琴が太刀を鞘に仕舞いながら言うと、晴明は呆れたように美琴を見る。
「あら、じゃないでしょう。二人が本気を出したらこのくらいの距離じゃああの城吹き飛びますよ美琴殿」
「その、勿論本気は出しておりませぬのよ、あなた」
両の薙刀を葉に戻しながら、みすずが言うが、晴明の顔はむっとしたままだ。
「本気であろうとなかろうと、あなた方の妖力は尋常ではないんだ。私の式神をああも簡単に粉砕できるのはお二人くらいのものだよ」
晴明は人形の和紙を袖の中に仕舞いながらそう言った。
「だからたまに会えたときに二人で手合わせするのよ。たまには妖力を発散したいじゃない?」
「それは分かるが……」
晴明は頭を掻く。これ以上言うのも可哀想だと美琴は思いながら、妖力を封じた。瞳の色が黒に戻り、和服が紫を無くして深緑になる。
「すみませんあなた。久方振りだったもので、つい」
みすずがそう済まなそうに言うと、晴明はそれ以上何も言えないようで、黙ってしまった。相変らず晴明はみすずに弱い。昔から変わらないなと、美琴はほほえましく思う。
「加減の仕方くらいは分かってるから大丈夫よ。心配性ね、晴明は」
「私も二人に怪我をされるのは嫌なんですよ。みすずにも、美琴殿にも」
「まあ、晴明様」
そう言ってみすずは薄く頬を赤らめる。仲がいいのはいいことだと思う。かれこれもう千年近く夫婦でいるというのに、まるで出会ったばかりのころのままだというのだから、幸せなのだろう。
「まあ、やんちゃやねえ二人とも」
いつのまにか晴明の後ろにいた葛の葉がそう言ってくすくすと笑った。相変らずこの人は神出鬼没だ。
「葛の葉さん、小町と恒は?」
「あの子たちなら城の方に向かわせたわ。小町に任せておけば安心でしょう」
「そうですね。妾たちも帰りましょうか」
みすずがそう微笑む。空はすっかり陽を落として、三日月が夜に白い切れ目を入れていた。
小町は恒を連れて、夢桜城の前に立った。城の周りは堀が巡らせてあって、外敵の侵入を拒む仕組みになっている。そうは言っても、この数百年それが機能する機会はなかったようだけど。
「あの橋を渡れば、お城の中に入れるから」
「勝手に入っていいの?」
「大丈夫よ。私の兄と姉の城やから」
小町はそう言って、恒を先導するように早足で歩いて行く。
正直に言えば、現在小町は恒の顔をまともに見られない状態にあった。どうしても意識してしまう。母さんが余計なことを言うからだ、と小町は心の中で悪態を吐く。二人きりにしたのも母の思惑だろう。
「小町さん大丈夫?」
恒にそう声を掛けられ、小町は足を緩めた。この子は何も悪くない。そう思いつつ、改めて恒を見る。
幼いころ丸かった顔は引き締まり、ひとつひとつの顔の部分がはっきりとするようになった。彫が深くなったと言えばいいのだろうか。そして背はいつの間にか自分を追い越し、筋肉もついてきたように思う。変わっていないのは癖のある髪くらいで、幼いころの面影は残しているものの、成長した。大人になったのだと、今更にはっきりと認識する。
幼いころは可愛い可愛い弟のような存在だった。庇護欲から小町は彼の側にいて、恒の助けになることは何でもしようとした。でも、いつの間にかそんなことはする必要はないほどに、恒は大人になってしまった。
そう、恒にとってはもう自分の世話はもう必要ないのだ。自分がいなくても生きていける。そう思うと、堪らなく寂しくなる。その気持ちが何であるのか、小町は上手く言葉に表すことができないでいた。
「大丈夫よ。ごめんね」
小町は精一杯そう謝って、恒から目を逸らす。本当はいつもと変わらないように恒と接したいのに、できない。だけどそれを本人に相談することもできず、小町は小さく溜息をつく。
これがただ姉弟のような関係がずっと続くことはないことから来る寂しさなのか、それとも、いつか恒と恋人や夫婦のような関係になって、ずっと一緒にいたいのか、それも定かではない。いや、認めたくないだけなのかもしれない。
「ねえ恒ちゃん、私の姉様のことどう思う?」
話題が思いつかなくて、そんなことを聞く。
「そうだね、優しそうな人だったね」
恒の答えはそれだけだった。何故だか、それに安心してしまう。
「綺麗な人やったでしょ?」
「うん、綺麗だったとは思うけど」
恒は大した感情も出さずにそんなことを言う。この子が嘘を吐くのは聞いたたことがないけれど、何かに本当に夢中になると言うのも見たことがない。昔からあまり心を動かさない子だった。幼いころに両親を亡くし、死んだ人が見えていたから、ある種の無常感を持っているのかもしれない。
それでも、私のことだったら何か必死になってくれるだろうか、とついそんなことを小町は考えてしまって、慌ててその考えを打ち消した。
「恒ちゃんは美琴様や朱音はんと一緒に暮らしてるから、美人には耐性があるもんね」
そうからかってみると、「そんなことはないと思うけど……」と納得のいかなそうな顔をする。それが、可愛いと思ってしまう。
「そういう小町さんだって、学校ではすごい人気だよ。水木や飯田だって」
「あら、誉めてくれるの?」
「うん、まあ、そういうことになるかな」
恒はそう照れたように言う。恒はどう思ってるのかなんて考えてしまうけど、勿論口になんか出せない。冗談っぽく聞いてしまえばいいのに、聞けない。
本当に、自分の心が分からない。今まで意識しないように隠していた部分が、母のせいでほじくり返されてしまった気がする。
「恒ちゃんだって、人気あるんやないのかなあ?結構綺麗な顔してると思うけど」
「僕は小町さんと違って誰かから告白されたことなんてないよ」
恒はそう苦笑いしながら言う。それに安堵を感じてしまって、逆に不安になる。
恒の言う通り、自分は何度か異性から告白されたことはある。相手が妖の場合も、人の場合もあった。でも、一度としてそれを受け入れたことはない。心のどこかで、自分のことを分かってくれるものなんていないと思っていた。妖の場合は自分の出生のため、人の場合は自分が妖であるため。
でも、恒はそのどちらも受け入れてくれている。自分が半妖怪である彼を受け入れているように。
「小町さん、やっぱり変じゃない?具合悪い?」
恒が突然顔を覗きこんできて、はっとなる。
「ううん、何でもないのよ。ごめんね」
自分は彼を甘えさせていたように思っていたけれど、甘えているのは自分なのかもしれない。とにかく自分の気持ちに決着をつけなければ、 どうにもならないかもしれない。
小町は三日月を見上げた。今夜辺り、義姉にでも相談してみよう。
城内で豪勢な夕食を終え、美琴は一人城の渡り廊下を歩いていた。時刻は丑の刻、午前二時。もう恒は寝たころだろうか。
城内を歩いてはいるが、別段目的地がある訳でもない。ただ久し振りの夢桜城が懐かしくて、歩いてみたくなっただけだ。
妖は夜に行動するものだから、途中この城で働いている何人かの妖怪とすれ違ったが、それ以外は静かなものだった。この雰囲気は嫌いではない。夜の帳の中に、一人取り残されたような、少しだけ寂しさを感じさせるこの感覚は。
「美琴殿」
その夜の静寂を破る声があった。晴明が廊下の向こう側から歩いて来るのが見えた。
「どうしたの?一人で。みすずは?」
「いや、妹と何か女同士の相談があるだとかで、追い出されましたよ」
晴明はそう苦笑した。彼に秘密にして、あの義理の姉妹は何を話しているのだろうか。
「ところでどうです?酒でも飲みながら話しませんか?」
晴明が言う。恐らくみすずに追い出されて、暇なのだろう。
「お酒はいらないけれど、話くらいならいいわ」
美琴は言う。晴明と会うのも久し振りだ。話したいこともある。
美琴は晴明に連れられて、小部屋に入った。真ん中に四角い机が置かれて、その周囲に座布団が敷かれた畳敷きの部屋は、旅館の一室を思わせる。
「小町のことなのですが」
座布団に座りながら、晴明が言う。
「なに?」
「うちの母が色々焚きつけたようでしてね。主に恒君のことを。また新しい孫ができるかもなんて言ってましたよ」
ああ、あの人なら言いそうだ、と美琴は思う。
「それでみすずに相談してるのね」
「恐らく、そうなんでしょうな。しかし、どう思います?」
「どうって?」
「あの二人のことですよ。本当に、そんな関係になるんですかね」
美琴は頬杖をついて首を傾げる。
「さあね、私はそういう色恋沙汰は分からないから」
美琴はそう言いながら、微笑する。小町と恒の関係か。何だか、可愛らしいと思う。結局は本人らの気持ち次第だろうけど、一緒になるならなるで構わない。
死神という種族は生殖で増える訳ではないから、元々美琴は恋愛感情に類するものを持たない。だから、小町がどんな気持ちでいるのかは分からないけれど、不幸ではないだろうと美琴は思う。
「分からないですか。まあ私も恒君は悪い男ではないと思っていますが……」
「妹が心配なのね。でも、大丈夫よ。恒のことは私が保証するわ」
「そう言ってくれると、安心です」
美琴は頷く。まず二人の関係がどうなるのか決まったわけでもないのだし、心配し過ぎだとは思うが、妹思いなのは悪いことではない。
「でも、思い出すわね。あなたもみすずのことで、私に相談しに来たじゃない」
「そんな昔のことを……」
晴明は照れたようにうつむいた。
「みすずのことを教えてくれって、急に切羽詰まったように聞いて来るんだもの。何かあったのかと思うわよ」
「あのころはみすずに近い人が、美琴殿しかいなかったのですよ」
「こうして今でも夫婦でいるのだから、私も色々した甲斐があったわ」
もう千年ほど前のことだ。美琴は晴明とみすずの仲を取り持つために、色々とやった。二人とも奥手だから中々関係が進展しなかったのを覚えている。小町に頼まれれば、恒との間でも色々としてあげようか。たまにはそういう平和なことに苦労するのも良い。
「いや、感謝していますよ」
晴明がそう言い、軽く頭を下げる。
「いいのよ。あと、恒はどうだった?同じ半妖怪として」
晴明は考えるように顎に手を当てた。
「そうですね。見た限りでは結構妖気が濃くなっていますね。昔の私を思い出します。おそらく、もうすぐ妖怪としての部分の力が発露するでしょう。何か、強いきっかけがあればすぐにでも」
「そう、なら支えてあげないといけないわね。体が傷つくと言うことはないでしょうけど、最初は戸惑うでしょうから」
「是非そうしてあげてください。私も大変でしたから。少しでも周りに理解者がいた方がいい」
美琴は頷く。恒の体の中に流れる、妖の血。それは美琴が彼に結界を掛けていたことや、ずっと人間界で暮らしていたことで今まで目立った変化を及ぼすことはなかったが、彼も黄泉国で暮らすようになって大分経つ。そろそろ何らかの変化がある頃だろう。
事実、杉沢村の事件の際には美琴自身、妖力を送らなければ変化しないはずの恒の父の槍が、彼に握られて変化したことを確認している。
「それに、あの子が置かれている状況は、完全に安全になった訳ではないわ」
「鬼たちのことですね」
晴明が言い、美琴は首を縦に振った。
「両親を殺されて、その上ずっと命を狙われたまま生きて行くなんて、可哀想過ぎるわ。小町だって恒を失いたくはないでしょうし、それに彼女自身に危険が及ぶ可能性もある」
美琴は真面目な顔で、言葉を続ける。
「あの子の両親を守れなかったことは、私にも責任がある。だからこの手で解決してみせる」
「美琴殿だけではありません。元を辿れば私や妻も関わっている。平安時代のあの出来事が、未だに尾を引いているのですからね」
「ええ。酒呑童子との因縁が、この時代になっても私たちには纏わりついている。長いものね」
平安時代、数多の鬼や妖怪を従えた、大妖がいた。その名は酒呑童子。平安京を暴れまわった鬼の頭領。その鬼を討ったのが、他ならぬ美琴自身だった。そして、その戦いにはみすずや晴明も関わっていた。
「鬼たちは京で見る?」
「いや、見てませんな。未だにどこに根を張っているのかも分からない状況です」
「そう……」
美琴は考える。あの時、酒呑童子の配下だった妖が、全て死んだ訳ではなかった。少数は生き残り、彼らは美琴たちに対する復讐を誓った。それが、現代まで続く因縁だ。頭領はおらずとも、彼を討たれた怨嗟は未だに残留し続けている。
「酒呑童子自身は、そこまでしつこい妖怪ではなかった。むしろ天空海闊な妖だったわ。彼を討ってしまったことで、酒呑童子を慕っていた妖たちの憤怒を引き起こした。それが今まで続くなんて、思ってもみなかったわ」
「私もです。しかし、そろそろ決着をつけるべきですね」
「ええ。私はともかく、小町や恒には何の罪もないもの。彼らが私の行いによって、傷を負う必要はひとかけらもない」
美琴は思う。二人には、幸せに生きて欲しい。共に生きるにしろ、別の道を歩むにしろ。彼らがそうやって生きているためにの責任は、自分が取らねばならない。
「とにかく、小町や恒君が安心して生きられる場所を作ることが、我々の当分の使命ですね」
「そうね。二人が生きる道を選択できる自由くらいは、私たちが保証してあげないと」




