三 半妖怪として生きること
恒に結界を施したのは自分だ。幼い彼が狙われないために、それは必要な処置だった。しかし、妖怪を近付くことができなくさせるその結界は、美琴自身が恒の側にいられないことを意味していた。
小町はそれを知って、自分が彼の側にいると言った。妖狐族が使う人化の術。人間になるのでも、人間に化けるのでもなく、少しだけ体を人間の近いものに作り替える術だ。だけどそれは大きな代償を伴う術でもあった。
「あの術は、人に近いものになる代わりに、もう一度成長を繰り返さねばならない術でした。正直に言えば、妾もあの子にこの術を掛けて良いのか、迷いました」
「分かるわ。私だって最初は止めたもの」
美琴は思い出す。祖父母に預けられることになった何も知らない恒を見て、小町が唐突に美琴に言ったのだ。自分があの子の側にいる、と。美琴自身、恒を結界だけ施して放置するのは不安だった。小町が近くにいてくれれば、心強いと思ったのは確かだ。それでも小町にそれをさせるのは躊躇われた。
人化の術は危険な術だ。強い妖力によって体を作りかえるため、大きな負担がかかる上に、その新たな体に馴染むため、身体年齢が幼児期に戻ることとなる。かつて人の社会に生きるため、一部の妖狐が生み出した古い術だった。
「それでも、あの子の決意は固かったですものね。妾たちがやめさせる訳にもいかなかった」
「本当に、恒に関しては小町が働いてくれたわ。恒に近付けない私が、あの子の行動を知ることができたのは小町のお陰。それに、恒の精神的な支えにもなってくれていたしね」
「きっとそれは小町も同じでしょう。昔の小町はもっと、人見知りと言えば良いのでしょうか。あまり他の方と接しない子だったでしょう?」
「そうね。多分、あなたの義妹、葛の葉さんの娘、晴明の妹という先入観を持って見られるのに抵抗があったのでしょうね。黄泉国に来ても、皆があの子の出生を知らなかった訳ではないから」
「妾もそうでしたから、分かります。でも、恒様は小町の出生どころか、妖の存在さえ知らなかった。だからこそ、自然に接することができた。妾にとっての美琴様が、あの子にとっての恒様だったのでしょうね」
「そうかもしれないわね」
美琴は、楽しそうに恒の成長を話す小町を思い浮かべた。恒が自分を純粋に慕ってくれることが、本当に嬉しいようだった。そして、小町の正体を知った今でも、恒は小町のことを慕っている。恒が小町に助けられていたように、小町も恒に助けられていたのだろう。
依存と言えばそうかもしれないけれど、それが悪いこととは思わない。お互いに必要だと思える誰かがいることは、幸せなことだ。
「恒ちゃん、ここが私の実家よ」
小町は塀に囲まれた立派な公家屋敷を指して、そう言った。恒は驚いているのか、それとも感心しているのかよく分からない表情をして、屋敷を見上げている。
「まあ入って入って。外にいたってしかたあらへんし」
母である葛の葉がそう言って、門を潜って行ってしまう。その後ろに晴明、そして小町と恒と続いた。
「大きな家だね」
恒が言う。小町が黄泉国で住んでいるのは小さな平屋だから、その差に戸惑っているのかもしれない。
「まあねえ、でも私が建てた訳やないしね」
そう笑って、小町は恒の手を引いていく。そうは言っても、自分の生まれた家を恒に見せるのは何だか楽しみだった。今まで自分ばかり恒のことを知っていて、彼には自分のことをあまり知られていなかったから、その負い目もあるのだろう。
久々に実家の玄関に下駄を置いて、家の中に入る。
「ゆっくりしていってね、恒ちゃん。でも、小町が友達連れてくるなんて久しぶりやわあ。恋人だとしたら初めてやね」
「なに言うてるのよお母さん、もう」
少し顔が赤くなるのを感じながら、小町は母に言った。普段は散々恒をからかっているのに、自分が言われると弱い。というより、相手が母親だからか。
「あらぁ、初心な反応して、可愛らしい」
母はそんなことを言って笑う。恒はどう反応していいのか分からないようだし、兄は既に廊下を進んで行ってしまっている。小町は小さく息を吐き、母親に続いて懐かしい家の中を歩いて行く。
とりあえず今に着いて、小町と恒は持っていた荷物を置いた。大荷物という訳ではないが、ずっと持ったまま歩き続けるのは疲れる。体が軽くなって、小町は両腕を上に伸ばす。
「皆お腹減ったでしょう?お昼ごはんを作りましょう。小町、手伝って」
「え~疲れてるんやけど、私」
「久しぶりに帰って来たんやから、少しくらい手伝いなさいよ」
「分かった……」
小町はしぶしぶ立ち上がる。
「恒ちゃんちょっと待っててね。兄さんとでも話してて?気まずいかもしれへんけど、悪い人ではないから」
「うん」
恒を一人ここに置いておくのは可哀想な気もするが、手伝わせる訳にもいかない。どちらにせよ、兄とは話す機会を設けるつもりだったから、これで仲良くなってくれたら良いと小町は思う。
「小町、何食べたい?」
「何でもええよ」
「そう言われるのが一番困るんよねえ」
調理場へ続く廊下を歩きながら、そんな会話をする。この感じも久し振りだ。
「じゃあ恒ちゃんが好きなの作ろっか。小町なら知っとるやろ?」
「あの子何でも食べるからねえ。お肉とか喜ぶと思うけど。成長期やし」
「じゃあお肉焼こか。お昼から豪勢に行こう。どうせ晩はみすずちゃんに呼ばれるやろうしね」
葛の葉はそう言って笑った。そういえば、何年か振りに母と二人になっているのか。
「ねえお母さん、兄さんと恒ちゃん、仲良くしとるかな」
「おんなじ半妖怪やしね。色々晴明も教えてあげられることがあるでしょう」
調理場に着き、調理器具を揃えながら話す。昔は良く手伝っていたから、言われなくても何をすればいいかは体が覚えている。
「ところで小町、恒ちゃんとはどういう関係やの?」
好奇心を湛えた表情で葛の葉が尋ねる。
「どうって、幼馴染と言うか、何というか……」
偶然ではなく自分から近付いて行った場合、それは幼馴染と言えるのかどうかと、小町は思いながら答える。
「つまらない答えやねえ。もうあの子十六やろう?」
「だからなによ?」
小町は葛の葉から渡された白菜を切りながら言った。
「ほら、もう大人になり始める時期やないの。男女で一緒にいて意識しないってことないやろ?」
小町は包丁を握る手を止めて、母親を見た。葛の葉はにやにやとしながら自分の娘の顔を覗いている。
「私と恒ちゃんはそういうのやないよ。ずっと一緒にいたのは確かやけど」
「種族の違いなんて気にしなくてもええのよ?うちはあの子小町の相手として認めるから」
「まだ今日会ったばかりやろ?」
「何年生きとると思うてるのよ。どんな子かぐらいは分かるわ。それに、小町が大事にしてるのもね」
小町は切り終えた白菜を皿に盛り、次に春菊をまな板の上に載せる。
「それは、恒ちゃんは大事やけど、でも恋愛とかは何か、違うやない」
「じゃあ小町は恒ちゃんが他の女の子と付き合い始めたりしたら、どう?」
なおも母は問いをやめようとしない。
「どうって……、恒ちゃんが決めたことなら、仕方ないやないの」
小町は想像してしまう。誰か他の女の子と付き合い始めて、自分の側から離れて行ってしまう姿を。そうなれば今までのような関係ではいられないのは確かだろう。相手の女の子に悪いし、恋人がいるのに付きまとわれたら恒も迷惑だろう。
そう思うと、確かに寂しい。でも自分が恒の生き方を束縛することはできない。そんな権利は自分にはない。
「だからさ、先に付き合うなり手篭めにするなりすればええやないの」
「手篭めって……、何言うのよ母さん」
小町は体温が上がるのを感じながら責めるような口調で母に言った。葛の葉はくすくすと笑いながら、小町に言う。
「自分に自信ないの?小町。まあ確かにあなた今までそういう経験ないものねえ」
「そういう問題やないよ。それにあの子美琴様や朱音はんと一緒に暮らしてるし……」
「何言ってんのよ。小町は可愛いんやから。私の娘なんやし」
「自分でそういうこと言う?」
「まあまあ。それに、小町はあの子の一番近くにいたんやから、きっと恒ちゃんも小町のこと一番に思ってくれてるんやないの?」
「なんで告白することが前提みたいになってるのよ……」
小町は春菊と白菜、それに葛の葉の切った玉ねぎを皿に乗せた。他に長ネギ、糸蒟蒻、焼き豆腐を乗せる。今日の昼はすき焼きだ。小町自身、こんな豪勢な食事は久しぶりだった。
「昔から東男と京女という言葉があってね、江戸の男と京都の女は似合いの男女って言われとるのよ。まあ、よく考えておきなさい。他の誰かに取られてからじゃ遅いんやからね」
「恒ちゃんはものやないよ」
小町はそう言って、皿を持ち上げる。しかし、実家に帰って来た途端に恒との交際を母に勧められるとは思わなかった。
異性として恒を意識したことがない訳ではない。あんなに長い年月を一緒に過ごした男子はいないのだし。だけど、告白して付き合おうと思ったことはない。ずっと一緒にいたいという思いはあるけれど、やっぱり相手の気持ちを確かめるのが怖いのかもしれない。
母のせいで余計なことを考えてしまった。小町は頭を振って、気持ちを整える。恒を目の前にして意識してしまい、怪しがられるのは嫌だった。どう言い訳していいのか分からない。
「お母さん、野菜持っていくよ」
「お願いね、うちはお肉を持っていくから」
それから、急に葛の葉は真面目な顔になって言った。
「あとね、半妖怪であるあの子を受け入れてあげる誰かは、必要なのよ。晴明に対するみすずちゃんのようにね」
「……、分かっとるよ」
小町は頷いて、居間へ向かって廊下を歩き出す。半人半妖、それは純粋な妖怪でも人間でもない存在。それを真正面から受け入れてくれる存在は、あまりいないのかもしれない。
だとすれば、やっぱり自分が一緒にいてあげるべきなのだろうか。小町は皿を落とさないように気を付けながら歩いて行く。
自分の顔が赤くなっていないか気にしながら。
小町と葛の葉が調理場にいたその頃、恒と晴明もまた居間に二人でいた。気まずさを感じながら、恒は晴明を見る。
見た目の年齢は四十ほど。彫の深い顔をしていて、髪は前髪が目にかかるかかからないかぐらいの長さ。自分と同じく、半分妖怪という特徴は外見には表われてはいないようだった。
「改めて自己紹介をしようか。私は安倍晴明だ。よろしく」
「僕は池上恒といいます。よろしくお願いします」
恒は今まで歴史上の人物でしかなかった陰陽師を前に、畏まる。それを見て、晴明は穏やかに笑って、言う。
「そんなに緊張しなくていいよ。同じ半妖怪の仲間じゃないか。それに、私の妹の友人だ」
「はい、お世話になってます」
晴明は頷いて、恒に問う。
「まあ、世間話よりも、君は色々と聞きたいことがあるだろう。いきなりで済まないが、君は半人半妖であることで、両親を恨んだことはあるかい?」
晴明は穏やかな声でそう尋ねた。唐突な質問に、恒は一瞬考えを巡らし、答える。
「いえ、恨んだと言うことは、ないと思います。そもそも最近まで自分の正体を知りませんでしたから」
「そうか、それを聞いて安心したよ。私も両親を恨んだことはないが、妖と人の血を合わせ持つ者は、そのせいで人の社会にも妖の社会にも馴染めなくなることが多い。そして、その感情の矛先は、自身の親や、祖父母何かに向くことが多いんだな。その気持ちは、分からない訳じゃないだろう?」
「ええ、まあ。でも僕には小町さんや、美琴様がいますから」
恒がそう言うと、晴明は「そうだな」と頷いた。
「私も昔は自分の出生に悩んだものだった。人でも、妖でもない自分の身をね。だが、恨むことはしないと決めていたよ。父も母も、私を大事にしてくれていたからね」
晴明は言葉を区切り、恒を見据えた。
「半妖怪であるということは、人の社会、妖の社会どちらで過ごそうとも、問題が発生することを意味している。きっと君はこれから遭遇することになるものもある」
「それは一体どういう……?」
恒が尋ねると、晴明は一度だけ頷いて、答える。
「例えば、寿命の違いだ。私や君は、人よりずっと寿命が長い。私が今ここにいるのがその確たる証拠だな。しかし、純粋な妖怪ほど寿命が長い訳ではない。私は妻よりも、そして母よりも早く老いて行っていることを感じているよ」
晴明は苦笑して、言った。自分より先に生まれたものたちより早く年をとっていくというのは、どのような感じなのだろう。自分で言えば、小町よりも早く年老いて行く、ということだろうか。想像しにくいことだと、恒は思う。
「私はかつて、人と一緒になったこともあったんだ。その時私は、自分の妻が死に、そして子が自分より早く老いて、死んでいくのを見ているしかなかった。今は自分が妻よりも早く死んでしまうことを、心配している。長年一緒にいた妻だ。独り残して逝ってしまうのは、辛いんだ」
「そうですよね……」
結婚して子供ができるなんてことは、今まで考えたことがなかった。でも、もし将来誰かと一緒になることがあれば、自分は平和にその生活を終えることができないのか。
「そういう覚悟は、持っていた方がいいんだ。自分も、相手も。だから、半妖怪を受け入れてくれるものはいない。だから妻には感謝しているんだ。面と向かっては恥ずかしくて言えないのだがね。それに、最初に妻に近付いたのは、罪滅ぼしの意味もあったんだ」
異形紹介
・葛の葉
他に葛の葉狐、信太狐、信太妻などとも呼ばれる。大阪府和泉市の信太森葛ノ葉稲荷にまつわる伝説の妖狐であり、陰陽師「安倍晴明」の母であるとされる。
伝説の概要を以下に示す。安倍保名と呼ばれるある武士が、石川悪右衛門と言う人物に追われた白狐を助けてやるが、その際に怪我を負う。そこに葛の葉と名乗る女性が現れて、安倍保名を介抱したことで共に暮らすようになる。二人の間には童子丸という名の男の子が生まれるが、童子丸が五歳になった時、葛の葉は我が子に自分の正体が狐であることを知られてしまう。
正体を知られてしまった葛の葉は安倍保名の家にいることができず、障子に
恋しくば 尋ね来てみよ 和泉なる 信太の森の うらみ葛の葉
と書き残し、家を出て行く。そして、その残された子供が、後の陰陽師、安倍晴明だったのである。という伝説である。
葛の葉が出て行ったあと、夫と子供が彼女を追って信太の森に赴き、違宝を受け取るとする伝説や、一面に生い茂った葛の葉を一枚持ちかえり、子のお守りとした、という伝説もある。
この伝説は様々な文学作品や人形浄瑠璃、歌舞伎などの題材になっており、それぞれあらすじが違っていて比較すると面白い。また、『桃山人夜話』において竹原春泉はこの葛の葉伝説の元になったのではないか、という話を書いている。




