二 死神と九尾の狐
一千年以上の昔のこと、まだ日本の中心が京都で、関東にはあまり人がいなかったころの話だ。
ある一人の妖怪が、人に追われて関東にやってきた。それはとてつもなく強大な妖気を持つ妖だった。
当時から関東に繋がる異界で暮らしていた美琴が、その巨大な妖気に気付かない訳はなかった。その妖気を辿り、那須野に現れた美琴が見たのは、数百の人間を前に血を流すただ一人の妖の姿だった。
美琴にはその妖が人間に圧倒される理由が分からなかった。その妖気から考えれば、人間の数百人など簡単に消し飛ばせる筈だった。だけど、その妖は諦めたようにただそこに立ち、自分に迫る人間たちを見ていた。その姿からは、穢れはひとつとして見えなかった。
人間たちが一斉に矢を番えた。それでも、その妖怪はその場を動こうとはしなかった。空を仰いで、静かに目を閉じた。それは、死を受け入れようとする表情に、美琴には見えた。
矢が放たれると同時に、美琴も動いた。どんな妖だろうと、あれだけ大量の矢を受けて無事でいられることは考えにくい。それを見捨てることはできなかった。
「何してるの!」
美琴は妖力を放出して、死神の姿に変わった。それに気付いたその妖は、目を見開いて美琴を見た。こんなところに自分以外の妖がいることも、まして矢の雨の中に飛び込んでくることも考えてはいなかったのだろう。
美琴はその山吹色の着物を着た妖の前に立つと、腰に佩いた太刀を抜いた。そして黒く空を覆うようにして降り注いで来る矢に向かって、刀身に妖力を込めた太刀を薙いだ。
その一撃で切り払うことができた矢の数は、精々全体の一割と言ったところだったろう。しかし、それは二人に当たる筈だった矢を破壊するのには十分な数だった。
ばらばらになった矢が二人の周りに落ちてきた。それが全て地面に落ちるより早く、美琴は立ち竦む妖の手を握った。
「貴方様は……?」
「いいから!」
早くしなければまた大量の矢が降って来る。美琴は妖の手を引き、その場から一番近い境界を開いて、異界の中に逃げ込んだ。
その妖は、自らを「藻」と名乗った。黄泉国で手当てをしながら、美琴はみすずのことを色々と聞いた。
種族は妖狐であること。平安京に繋がる異界の生まれであること、そしてこの数年、人間とともに暮らしていたことなど。
それから数日の間、美琴は自分以外に住む者のいない屋敷にみすずを泊らせて、治療をした。元々妖力が強かったこともあり、傷はすぐに塞がった。
「本当に、ありがとうございました」
みすずは何度も頭を下げて、そう礼を言った。
「いいのよ別に。無事でよかったわ」
そう言うと、みすずは申し訳なさそうに微笑して頷いた。
「正直に言えば、妾はあの場で死ぬつもりでした。しかし、美琴様に助けられた今は、もうそのようなことは思っておりませぬ」
屋敷の縁側に、美琴はみすずと一緒に座っていた。空には半月が浮かんでおり、庭の桜が夜風にそよいでいる。穏やかな春の夜だった。
「でも、どうして死のうなんて思ったの?」
美琴が尋ねると、みすずは儚げな目をして、月を見た。
「妾は、京に繋がる異界、夢桜京の生まれだと言うのはもう話しましたね」
「ええ、聞いたわ」
「妾はですね、その夢桜京の時期当主になるのだと言われております。この黄泉国の主である貴方様と同じです」
「当主などというものではないわ。この国にはほとんど住んでいるものがいないもの」
美琴は言った。確かにこの異界の主は今、自分だ。しかしここにはほとんど住民はいない。だから、領主という自覚はあまりない。ただ、この地が侵されることの無い様に、守っているくらいか。
「いえいえ、貴方様は立派な異界の主ですよ」
みすずは言って、「ふふ」と笑った。
「妾には、ひとつ大きな夢があるのです」
「なあに、それ?」
「笑いませぬか?美琴様」
美琴が尋ねると、みすずは少しだけ心配そうにそう言った。
「笑わないわよ、多分」
そう答えると、みすずは「そうですよね」と頷く。
「妾の夢、それは妖同士の種族間を超えた共存。そして、妖と人とが共に生きられる世界」
「人と妖が?」
美琴は言った。妖の種族を超えた共存なら、今でもそれなりに見ることができる。妖は一種族の数が少ないから、ある程度の大きさの共同体を維持するためには複数の種族が共に生きなければならない。
しかし、妖と人はどうだろう。今の妖と人とは、同じ世界に住んでいても夜と昼という別の時間帯を生きている。異類婚の話もたまに聞くが、それは例外的な話だ。基本的には妖と人とは相入れない存在だ。
「はい。だから、妾はまず人を知るため、また人に妖のことを分かっていただくため、人の世界で暮らすことを決めました。もちろん、最初から自らが妖であることを打ち明けた上で、ですよ」
みすずは遠い目をして、朧月を見上げた。
「でも、やはり駄目でした。妖である妾は、人の世界には受け入れられなかった。妾は人の世界では玉藻前と呼ばれていました。そして、ある程度の信頼は得ていたのです」
その理由は、何となくわかる気がした。数日一緒に過ごしただけだが、この妖の性格はそれなりに分かっていた。とにかく素直で、温かい。そんな彼女だから人との共存なんてことを考えたのだと思う。
「でも、妾が仕えていた上皇が原因不明の病に伏せった時、真っ先に疑いの目を向けられたのは妾でした。結局、妾は本当の信頼を得ることができた訳ではなかったのですね」
みすずは自嘲するように笑った。その表情は見るには切なく、美琴は目を逸らした。
「それで、死のうと思ったの?」
「……そうですね、妾のやってきたことは無駄だったのだと、そう思ってしまったのですね。結局妾がしたことは、人と妖の距離を縮めたのではなく、より深い溝を作っただけだった」
「それにあなたは誰かを傷つけることはできなかった。そうよね?」
美琴が言うと、みすずは静かに頷いた。誰も傷付けず、誰も怨まない妖怪、それがこのみすずのようだった。そんな彼女がどうしてこんな目に合わなければならなかったのか。美琴は一人、憤りを感じた。
「でも、美琴様に出会えたことは本当に良かったと思っていますよ」
みすずは微笑して、そう美琴に言った。
「東の方に逃げて来て、全てを諦めていた妾に、貴方様は希望をくれました。本当に、美琴様のような友人に出会えてよかった」
その聞き慣れない言葉に、美琴はみすずの顔を見た。
「友人……。そうね、友人ね」
「はい!妾たちは友達ですよ」
二人は顔を見合わせて、笑った。死神の少女に友と呼べる存在ができたのは、この日が初めてだった。
あれから、千年以上の時が経った。今では妖怪にとっての異界の重要性は上がって、それに伴って領主の責任も増した。
そのため、今では同じ立場に立って対等に話せる相手は少ない。だから、こうして昔からの友人と話していると不思議な安堵感を覚える。
「美琴様に命を救われて、妾は今ここにいるのですから、感謝しておりますよ」
「今さらそんなこと言わないでよ。水臭いわ」
美琴はそう言って笑う。
「でも、妾にとっては貴方が最初の友人でした。あの頃の妾は生まれた時から時期領主になることを決められていて、周りには対等に話してくださる方がいなかった。そして人の世界にいって、そこでは存在を否定され、あの時は何かもう、全てを捨ててしまいたい気持ちだったのですね」
みすずはそう言って、小さく息を吐いた。
「そこに美琴様が現れました。貴方様は妾と対等に話してくれる、初めての方だったのです。貴方様と一緒に過ごした数日間は、本当に楽しかった。肉体的にも、精神的にも貴方様には救われました」
みすずは懐かしそうに笑った。千年以上前の思い出話。あの頃の自分は想像もしていなかったことだと、美琴は思う。
「それは私も同じ。先代がいなくなって、私もあの広い異界で一人だったから。あなたがいた数日は楽しかったわ。私もあなたに救われた」
美琴は空を見上げる。澄明な夏空の上を、白い雲が流れて行く。あの頃、美琴は数年の間共に住んでいた妖と別れたばかりだった。
その妖は、黄泉国の主の立場を美琴に残し、去って行った。
その理由は分かっている。それでも、美琴は体の一部を失ったような寂しさを覚えていた。そんな時に現れたのが、みすずだった。
「お互いにお互いが必要だったのでしょうね。でも、出会えてよかった。今でもこんな風に付き合っていられるのですからね。美琴様は妾にとっては一番古い、そして一番親しい友人ですもの」
「みすずもそうよ」
種族も、生まれた場所も違う妖が、こうして一千年以上の間交友を続けているのは珍しいことだとは思う。その上、どちらも異界の領主でありながらだ。
「それに、妾のその孤独を覚えていた経験も、無駄だったとは思っておりませぬ。小町の心を理解することができましたから」
みすずは言う。小町もまた、自分の出生に悩みを持っていた。
「あの子があんな風に悩んでいたのは、私の立場のせいもあるのです。だから、あの子が悲しそうな顔をするのは、妾も辛かった」
みすずは空を仰ぐ。
「あの子は妾に、一度この国を離れたいと相談してきましたの。そこで妾が提案したのが、貴方様の治める黄泉国だった。妾にとって最も信頼できる方の国でしたから」
美琴は頷いた。やはり、小町が黄泉国で暮らす決心を固めたのは、みすずの後押しがあったからなのだろう。
「本当に、あの子は明るくなりました。貴方様のお陰ですね」
「私だけじゃないわ。良介や朱音、それに黄泉国の住人達。そして一番大きいのは、恒の存在でしょうね」
「あの、半妖怪の子ですね」
みすずが言い、美琴が首を縦に振った。
「そう。晴明と同じ半妖怪。あの子の両親が死んでしまった時、小町は自分からあの子の側にいると言ったわ。私も驚いた」
「そうですね。きっと晴明様のことを、葛の葉様から色々と聞いていたのでしょう。小町は優しい子です。自分しかあの子の側にいてあげることができないと分かった時、放っては置けなかったのでしょうね」
そうなのだろう。恒の両親は、恒が生まれてすぐに死んでしまった。妖と人との間に生まれながら、彼はそれを知らないまま生きなければならなかった。




